第4話「先達として」
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出立のために用意された幌馬車は見目の高級さには欠けるが、クラヴィスには最も正解と言える。荷台には葉巻や果物などが積み込まれ、毛布や着替えも用意がある。御者には彼女の希望でベラトールが同行する事になった。
不満に思うフィーリアも仕方なく乗るよう言われて従い、大きなため息をつく。本来であれば自身も調査団の一員として仲間と共に犯罪組織を根絶やしにするための作戦に就くはずだったのだから、当然に悔しい気持ちでいっぱいだ。
「……ベラトール、少し話せるか?」
近くにいた者たちを手でシッシッ、と追い払う。
彼は胸に手を当てて答えた。
「もちろんです、クラヴィス様」
「あのガキを連れて行くのは変わらんが、どう思う」
問いの意味を察してベラトールは静かに言った。
「今のままなら死ぬでしょうね。ですが我々には関係のない事です」
「お前はいつもさっぱりしていて好きだよ」
肘でとん、と小突いて笑う。彼は微動だにしなかった。
「だが届けるまでは絶対に死なせるな。私が目を離している事もあるだろう。そのときはベラトール、お前の仕事だ。牙を剥く連中は全員殺せ」
「は……。クラヴィス様のお望みでしたら、そのように」
腰に提げた剣の柄頭を手で緩やかに握ったクラヴィスが愉しげに。
「せっかくなんだから愉しめよ、ベラトール」
「私はあまり殺しに興味はないのですがね」
「なんだ、畑を耕す方が好きかね?」
初めてベラトールはほんの小さく口角をあげた。
「ええ、退屈しませんから」
「見た目には似合わないが、お前らしい答えだよ」
からから笑ってそろそろ出発だとクラヴィスが馬車に乗り込む。
相変わらず暗い顔をしているフィーリアの前に腰を下ろし、御者台で手綱を慣れた手つきで握ったベラトールが馬車を走らせ始めてから────。
「おい、死にたがりの小娘。ひとつ先達として助言を送ってやろう」
「……はい? なんでしょう、お聞かせ願えますか?」
少しむくれた言い方をされて、英雄も無垢な少女の前では形無しだと微笑ましく思いながら、ぴんと指を立てて自慢げに言った。
「生き残る事だ。死にたくて死ぬ人間など誰にも必要とされない」
「それは生きる苦しみに苛まれる者に対して冷たくはありませんか」
「ハッハッハ! 中々どうして言ってくれるじゃないか、面白いな!」
ぱんっ、と膝を叩いて彼女を嘲るように笑ってから、鋭い目つきで刺す。
「そういう連中は生きたくても生きられないだけだ。生きたいのに死なねばならない。死にたいから死ぬのではない。死ぬしかないから死ぬのだ。生きる事の方が苦痛に感じてしまうから、死んだ方がマシだと痛みに耐えかねただけだ」
本物の苦痛も知らない小娘が、と罵って身を乗り出して片膝をつき、前のめりにフィーリアへ近づいて吐き捨てるように彼女は続けた。
「屈辱や怒りに我を忘れて死ぬ事を美化した馬鹿共には毎回愛想が尽きる。どんな物事にも教訓は必要だが、生き残ってもいい。いや、本来は生き残った方が良いと言い直そう。自己犠牲などという一見は美しい言葉で着飾るのはやめるんだな。死にたくなかった仲間の墓前で言えるほど洗練されたものじゃない。その本質をよく頭に叩き込んでおけ。ドゥクスはお前の馬鹿な仲間のために死ぬかもしれないんだ」
いつの間にか剣は抜かれ、フィーリアの首筋に僅かな傷を創った。彼女にはまったく目で追えず、緊張から冷や汗が流れ、ごくりと息を呑む。
「死は美しいものではない。もっと醜く残酷で黒く淀んでいる。────生き残るんだ、手段も択ばず。血が流れたとしても最後まで立たねば意味がない。死んだ人間に生きた人間の邪魔はできないんだから」
悍ましいほど冷めた瞳。フィーリアが知る人間の誰もが見せた事のない、多くの死線を潜り抜けて来たか、あるいは夥しい死を前にした人間のそれ。彼女は初めて経験する残酷な眼差しにぞくりと恐怖する。本当にこれは英雄か?
「あなたは英雄じゃないんですか」
「人は私を英雄と呼んでいる」
座り直して見下すように顎を持ちあげ、鼻で笑った。
「生きて勝ち取ったからだ。竜の降り立った戦場でどれだけの命が奪われ、どれだけの人々がたった数年で忘れられたと思う?」
およそ人々が慕い、憧れ、敬意を抱く者の言葉とは思えない。会うまではフィーリアも彼女を素晴らしい人間だと信じていたが、今は違った。
「それでも戦わなければならなかったはずです」
「だから?」
下らない話だと一蹴する短い言葉。フィーリアが押し黙った。
「隣にいれば忘れはしない。語られれば思い出してもらえる。だが並んで死ねば誰が記憶する、誰が語ってくれる? 戦って得たのが遺された者の哀しみだけなのだとしたら、戦わずに逃げた方が良かった者はいくらでもいる」
近くにあった箱を手に葉巻を取り出す。ポケットから貰ったカッターを手に、パチンと吸い口を切り落として興味もなさげに少女を睨む。
「クーラトはイイ女だった。前線にこそ立たなかったが、救護部隊として近い場所に立ち、竜の尾が薙ぎ払って飛んできた兵士たちがぶつかって死んだ」
途端にフィーリアの顔が青ざめたが、彼女は構わず続けた。
「臆病だったヨークスは仲間に冗談を言って場を和ませながら自分の恐怖心を殺し、戦場に着いたら誰より勇敢に立ち向かい、竜の爪に引き裂かれた」
口に葉巻を加え、先を二本の指で擦るだけで切り口全体が燃え始める。
「ミセリアも可愛い奴だった。小さいくせに竜討伐に参加するだけで大金が支払われるという条件に飛びついて『病気の母の治療費を稼ぐ』と明るく言っていたよ。踏み潰されて、どれがアイツだったのかも分からなかった。リートレも優男でね、漁師だったが船を波に呑まれて失ったと言って、吐いた炎に焼き殺された。────私は、あの戦場にいて言葉を交わした千五百人を覚えている」
しばらくの沈黙。口の中に溜めた煙をめいっぱい味わってから吐く。
「しかし残りの七千人を覚えていないんだ。どんな服を着て、どんな武器を掲げ、どんな想いで立ったのか。どんな戦いを見せたのか。遺った者に伝える事もない。墓碑に刻まれた名の数々をお前は知っているか? 知らないだろう?」
返す言葉がなく、ただ俯いて話を聞くだけ。
やはりクラヴィスは彼女を小馬鹿にして笑った。
「戦いに赴きはしても死にたかった連中など誰もいなかった。少なくとも私の周りには、生きて未来を掴もうとした者たちがいた。お前こそ〝生きたかった人間〟を愚弄するんじゃない。未来は生きて掴め、その努力をしろ」
がらごろと荷台を小さく揺らして馬車は走る。町の中を駆け抜け、彼女は心底下らない時間だったと灰を近くにあった皿に折り、そっと葉巻を置く。
「もう一度だけ言ってやる。生き残れ、何としてでも。死者に想いを寄せるのは構わない。だが生きたかったはずの明日を蔑ろにする者に神は微笑まない。生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ね。善人や聖者ってのは成るべくして成っただけで、成ろうとして成れるものじゃないんだ」