第31話「穏やかな日」
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「どうした、腰に力が入ってないぞ。生まれたての小鹿じゃあるまいし、もっとしっかり立て。それと無駄に肩に力が入ってる。剣が重たいのか?」
早朝、宿の前で木剣を叩き合って汗を流すフィーリアが、ぜえぜえと膝に手をついて、今にも殺されるのではないかと思うほどの厳しい特訓に耐えていた。
だが望んだ事だ。必死に食らいつき、調査団に戻る頃には誰かの一歩後ろではなく、肩を並べて戦えるくらい強くなろうとした。
「大丈夫です、こんなの軽いくらいです……!」
「ふん。根性はあるみたいだが、もう終わりにしておこう」
「えっ……。で、でもまだやれます! ボクは────」
「終わりだと言ったんだ。その痣だらけの腕で暴れても良い事はない」
「でも! 今日で目的地に着くんでしょう!?」
貴重な機会だ。クラヴィスに師事するなど、今後には在り得ない。今だからこそ出来るのなら、僅かな時間でも鍛えてもらいたいと願った。
だが彼女は決して感情的なフィーリアには靡かない。
「晩には着く。それまでに休んで疲れを癒しておけ」
「そんな、クラヴィス! どうして、これくらい聞いてくれても……!」
「お前は私やベラトールのように三日寝なくても平気なのか?」
躊躇いもみせず、木剣を捨ててクラヴィスが呆れた視線を投げつける。
「確かに、お前は他の連中に比べれば体力も根性もある。認めるよ、お前は出来の良い奴だ。王族などという言葉で括るには見事が過ぎる。しかしそれだけだ。人間としての基本的なものは他の誰とも変わらん」
用意してもらっていたタオルをフィーリアに投げ渡す。
「汗を拭いて水浴みを済ませろ。目的地に着けば、後は私たちの庇護から外れるんだ。調査団の連中が来るまで何か起きても自分で身を守るのに、疲れて判断力を鈍らせたままで平気だって言うなら聞いてやるがな」
悔しいが尤もだと言い返せない。汗を拭いて、陽射しの下に棒立ちして俯く。自分の陰が小さく、情けないと思った。
少しでも積めた経験を、がむしゃらに繰り返すのではなく、何度も振り返る方が効率的だと考えて深呼吸をしてから気構えを持ち直す。
「あの、クラヴィス!」
「なんだ。聞きたい事でもあるのか」
「いえ。ただ、その……ありがとう、本当に」
礼を言うもクラヴィスはどうでもよさげに椅子に座って煙草を吸い始める。葉巻を切らしてしまい、宿にあった安物の煙草で我慢しながら手をひらひら振った。
宿に入って水浴みに行くフィーリアを見送った後、煙を吐き出す。
「英雄様、よろしいですか」
声を掛けられて、ふと視線をやる。
「なんだ、私に改めて喧嘩でも売りに来たのかね?」
気まずそうに昨晩の村人たちが集まって挨拶に来た。自分たちが身勝手であった事を謝罪し、助けてもらった礼にと食糧を持って。
「俺たちはいつだって大した事なんかできもしないのに、助けてもらっておいて偉そうに口達者なだけで……本当に申し訳なかった」
「ああもう、そんな話は聞きたくない。煙草がまずくなるだろう」
眉間にしわを寄せて灰皿に煙草を捻じ込む。
「私たちだって正しい事をしているとは思っていない。だが、たかが子供と侮って何か起きてからでは責任など取れん」
「ご尤もです。ですからせめて謝罪の品だけでも」
引き下がる様子はなさそうだと分かり、しっしっ、と手で追い払う。
「馬車にでも積んどけ。報告もいらん」
彼らはぱあっと顔を明るくして、何度も頭を下げながら去っていく。
ようやく落ち着けるといったところで、ラピスが顔を出した。
「あっ、クラヴィスさん! ごはんの支度ができましたけど……」
「次から次へと忙しいな……。ああ、わかったよ」
ゆっくり煙草のひとつも吸っていられないとうんざりする。しかし、中から漂ってくる料理の香りに、機嫌もいくらかマシになった。
「お前、料理が上手いんだな。そのへんで食うより美味そうだ」
「パパもママも、昔は都市で料理人さんをしていたらしいの」
「へえ、それはさぞや良い腕だったんだろう。都市で料理人とは」
王都は貴族や商人の出入りが多く、生半可な腕前では三日で潰れると言われるほど生き残りの厳しい世界だ。料理人として店で働くだけでも難しい。
「私が生まれるときに、田舎で暮らすって決めたんだって。それで小さな宿を経営しながら家族でのんびり暮らすのが夢だったって」
「ふむ……。短いなれど夢は叶えて逝ったわけか」
席に着いて話を聞いていると、ベラトールが二階から降りてくる。既に出発の支度を済ませ、部屋も片付けましたと言って、いつもと変わらない無表情で。
「すみません、お話の邪魔を」
「いいや。ただの雑談だ、気にしなくていい」
「そうですか。それは安心いたしました」
席に着いてから、ぴくっとベラトールが反応する。
「どなたかいらっしゃったようですが」
「ん? ああ、本当だ。ラピス、出迎えてやれ」
きょとんとして首を傾げた。
「どうして分かるの? いったい誰が────」
ゆっくり扉が開く。ぎい、と鳴いて来客を告げた。
立っていたのは若い男だ。とても疲れ切った表情ながら、期待と恥ずかしさの籠った視線が注がれる。手にはたくさんのお土産が詰まった布袋を持っていた。
「あ、あの……。ここに泊ってるって聞いて急いできたんだけど……」
「お兄ちゃん! 今までどこに行ってたの!?」
驚いて一瞬固まっていたラピスが、駆け寄って抱き着く。もう両親もおらず、頼れるのは、思い出の中にあった優しい兄だけだった。
「ごめん、ごめんよ、ラピス。兄ちゃんが間違ってた。偉そうな事言って、こんな田舎でなんて暮らせないなんて言って……」
ラピスを強く抱きしめる。だが、泣くのは堪えた。
「クラヴィスさん。すみません、あなたのおかげで目が覚めました。もし会えたら必ず礼を言おうと思って……本当にありがとうございます」
クラヴィスは返事をしない。だが小さく手を挙げてから、空いた席をひとつ指差して────。
「おかえり野良犬くん、伝言役ご苦労だったな。まずは労いの意味も込めて、そこに座りたまえ。ちょうど料理ができあがったところでね。一緒に食事をしよう」




