第20話「ベラトールという男」
そういって、ぐう、と寝息を立て始める。三日間もオルニットでゆっくり過ごすはずだったが、念のためフィーリアを守らねばならないと彼女は常に警戒を怠らなかった。すっかり寝不足で、ようやく安心できる時間がやってきたのだ。
指に挟んだままの葉巻をそっと取り上げ、ベラトールが用意していた鉄の箱に入れて、静かに蓋を閉じた。
「ベラトールさん、毛布ってどこでしたっけ?」
「端の方に積んであります。紙袋の下に」
「ありがとうございます。このまま寝たら風邪引いちゃいますからね」
揺れる馬車の中を四つん這いで進み、紙袋を横に退けて毛布を広げる。クラヴィスのところまで戻って、寒くないよう彼女に毛布を優しく掛けた。
「……あの、せっかくだからお話しませんか?」
「私とですか。構いませんが」
「ありがとうございます。ボクのわがままで」
御者台のすぐ傍まで来て、膝を抱えて座った。
「ベラトールさんっておいくつなんですか?」
「今年で三十九です。あなたとはひと回り以上違うようだ」
「へへ、本当だ。暗殺者だったっていうのはいつから?」
「二十歳の頃です。最初の仕事は────肉親を手に掛ける事でした」
思わず言葉に詰まってしまう。予想だにせず、それ以上を聞くのも恐ろしいと思うほどだったが、彼は興が乗ったか、ぽつりと語りだす。
「昔、暗殺を専門とする組織がありました。彼らは孤児の中から才ある者を見出して徒弟を選定し、さらに組織に属した後も連れて来た孤児同士に殺し合わせ、生き残った一人を暗殺者として育てたのです」
空が曇天へ移り変わる。雨の匂いが、ふと漂った。
「三十人がひとつの大きな屋敷の中に放され、ひと晩の間に殺し合う。個々の部屋に用意された毒薬。暗器。罠を用いて、生き残ったのが私でした」
その後の事を思い出す。拷問に耐えるためだと言われ、朝から晩まで痛めつけられ、鍛錬も強要された。我々は世界の歴史を塗り替えるために用意された捨て駒であり、優れた未来には重要な存在でもあると耳が千切れそうなほど聞いた。
ベラトールは、そのどれもを『下らない』と一蹴した。生き方を知らない人間が生き残るために手を汚す動機。ただの言い訳でしかない、と。
だが彼もそうであった事は間違いない。生きていくのに必要な知識。技術。親を失い、たったひとりの兄とは生き別れ、彼は孤独に生きた。その最中に出会った暗殺組織には、たとえ痛めつけられようと感謝こそすれ、憎しみはなかった。彼らが祈れと言うのなら祈り、殺せと言うのなら躊躇いなく殺した。
たとえそれが再会した兄であったとしても。
「私の最初の仕事は、とある貴族に仕えながら情報を横流しするスパイを殺す事。簡単なものでしたよ。相手は所詮素人で、ただの執事だったのですから。まさかそれが自分の兄だとは思いませんでしたがね」
「自分のお兄さんを……。すみません、嫌な話でしょうに」
彼はゆっくり首を横に振って、ほんの僅かに口角をあげた。
「生きていれば色々起きます。良い事も辛い事も。私にとっては悲劇だったのかもしれませんが、誰かにとってはありふれた話です。なのでお気になさらず、所詮は過ぎていった過去でしかありません」
兄を背中から刺したときの感触を手に思い出す。殺すのは初めてではなかったのに、未だに生々しく刻まれている。後悔したかと言われれば、後悔していると答えるだろう。最愛の者の姿を忘れて、思い出したときには失ったのだから。
「兄は私よりも五つ離れていましたし、奴隷として売られていった後、数年も経てば生きるのに精一杯でしたから、兄の事など顔も朧気だったのです。人生とは不思議なものですが……まあ、おかげでクラヴィス様とも会えましたから」
暗い過去ではあるが、前に進めないほどではない。もう殺してしまったのだから仕方ないと素早く切り替えて、絶望するのはやめていた。
『やっと見つけた……。ずっと探してたんだ』
────恨むでもなく、憎むでもなく、哀しむでもなく。兄は喜んでいた。もう二度と会えないと思っていた弟を探し続け、ようやく出会えたのだ。たとえ殺されようとも、その相手が弟であろうとも。
『裏切ったのは俺の方だったな。すまなかった』
最期の言葉がそれだった。奴隷として売られていった、不可抗力の現実を彼はいつまでも胸に刻んで生きていた。ずっと一緒だと言って辛い時も傍に置き続けた弟の前から先に姿を消した事を、ずっと悔やんでいた。
愚かな兄。哀れな兄。なぜ殺される時も笑っていられたのか。今でもベラトールには理解できない。そのまま憎んでくれた方が良かったのに、と。
「……王女殿下。あなたには夢がありますか? 私にはあります。小さな農場を営み、ささやかで慎ましく生きていく事です」
「では、どうしてクラヴィスの傍でずっと仕事を」
静かに雨が降り始め、彼は空を見上げた。
「どうしてでしょうね。いつでもやめていいとは言われているんですが、初めて会ったときから、なんとなく彼女の笑う姿が被るんです。きっと、それが答えなんじゃないかと思っています」




