第1話「英雄」
がたんがたんと揺れる列車の中。外の景色に目もくれず小さな本を片手に開いて読む女がいる。腰まで流れる白い髪。浅黒い肌に山吹色の瞳。真っ黒の眼帯が片目を隠した。鉛色の軍服を着て、杖にまたがる魔女のエンブレムのある制帽を被っているのが印象的だった。
傍らには鞘に納められた細身だが豪奢なデザインのサーベルが立て掛けられていて、およそどこにでもいる人間とは違う厳かな雰囲気が彼女にはあった。
列車の速度が落ちて、ふと本から視線を上げれば、窓越しに駅がすぐそこに見えた。女はぱたんと勢いよく本を閉じてサーベルと一緒に手に持った。
降りた途端、彼女を見に集まった群衆の歓声が広がり、女は眉間にしわを寄せる。あまり騒がしいのは好きではなかった。
「耳心地は良いが、些か聞き飽きたな」
群衆が女のために、ひとつの道を開く。先で待っていた礼服姿の男たちが、向かってくる彼女に深く礼をする。
「ご無沙汰しております、閣下」
「堅苦しい、顔を上げろ」
女の言葉に従って男たちは姿勢をまっすぐ正す。
「馬車をご用意いたしました。どうぞお乗りください」
言われて立派な馬車を見つめ、それから群衆を一瞥する。
「こんなゴミに金を掛ける暇があるのなら民への労いに使えば良いものを」
「そう仰らず。誰も閣下をそのように無碍には扱えぬのでしょう」
壮年の男が後ろ手に組んで立ち、なんの感情も湧いていない瞳を向ける。女は、その男の態度が最も気に入っていた。
「ま、いいだろう。今回はお前に免じて受け入れよう」
馬車に乗り、群衆に向かって手を小さく挙げる。彼らの歓声はより大きくなり、御者が馬をゆっくり走りださせた。一緒に乗り込んだ壮年の男は、気難しそうな顔をしていて、少し伸びた髪が僅かに柔和な印象を纏わせている。
「相変わらず無心に仕事かね、ベラトール」
「は……。それが私の取り柄でして」
眉ひとつ動かない。決して彼に感情がないわけではない。ただ表情にまったく出さないだけで、彼の考えを汲み取れるのは世界でただ一人しかいない。
「私の名を呼べ。閣下という呼び名は好かん」
「……では、クラヴィス様と」
「よろしい。葉巻は持っているか?」
「ご用意してあります」
ベラトールが箱を開けて見せる。二本の太い葉巻とギロチン式のシガーカッターが入っていた。クラヴィスはとても満足そうに頷く。
「上等な品だ。馬車よりもこっちの方が気分が良い」
さっそく取り出してカッターで吸い口を切り、口に咥えた。
「マッチは……」
「要らん。味が落ちる」
二本の指先で切った吸い口を軽く擦ると緩やかに燃え始める。懐からマッチを取り出そうとしたベラトールが、ゆっくりまた仕舞い込んだ。
しばらく口の中で嗜んだ煙を、ふわっと優しく吐き出す。
「軍だの騎士団だの解体して久しいというのに、未だ国は私を必要とするのか。あの国王が仕事を頼みたいと手紙を寄越すとはな」
「クラヴィス様は竜殺しの英雄で御座いますから」
褒め言葉として受け取ろうにも、クラヴィスには気分が悪い言葉だった。
「都合よく私を使うための空世辞だろう? 馬鹿馬鹿しい」
「ではなぜ来たのです。無理をせずとも国王陛下の依頼など……」
「退屈でね。お前と顔を合わせれば良い葉巻も手に入る」
ふとベラトールは話を切って、彼女の本に目を移す。
「何を読まれていたのです?」
「聖書だよ。列車に揺られる時間が長くてな」
「あなたには最も無縁なものでは」
「ハハッ、言ってくれる。お前も読んでみろ、中々どうして悪くない」
馬車の中が煙で満たされていく。黙ってベラトールが窓を小さく開けた。クラヴィスは何も気にせず、葉巻を吸い続けて、ふと尋ねた。
「そういえばあの優男は結局なんの仕事を?」
「手紙にはなかったのですか」
「ああ、何も。ただ竜を殺すよりも苦労するかもとだけ」
クラヴィスは〝竜殺し〟の異名を持つ大英雄だ。ほんの十年ほど前、平和な大陸に突如としてどこからか現れた巨竜が大地を踏み荒らした際、国をあげて軍を設立。騎士団も含めて、いくつもの討伐隊が編成されたが、城ほどの体躯を持つ怪物は鉄のように硬い鱗を持ち、まったく歯が立たなかった。鋭く太い爪は地を抉り、尾のひと振りが数百人を薙ぎ払った。もうおしまいだと誰もが諦めるほどの怪物だった。
そんな中、神懸かり的な人間離れした強さを誇ったクラヴィスが竜を討った。そんな彼女の素性について知る者は誰もおらず、唯一彼女が信頼するのがベラトールだ。
国王からの信頼も厚く、彼ならば仕事について知っているのではないかと尋ねた。
だが、ゆっくり首を横に振って返された。
「申し訳ありません。私も聞き及んではいないのです」
「……意外だな。お前にも何も話していないとは」
珍しい事もあるものだ、と差し出された灰皿に葉巻の灰を折った。
「それなら構わん。直接話を聞くまでのお楽しみというわけだ」
灰皿を両手に揺れないよう支えるベラトールが小さく頷く。
「何かお考えあっての事でしょう。あまり期待できないとは思いますが」
「刺激的で良いと私は思うがね?」
足を組み、サーベルを抱えて彼女は瞳をぎらつかせた。
「だがあまりに下らない話であれば、皇帝の首を落とすのも悪くない。竜の次は国でも殺してみるか?」
「……御冗談を。私の立場もありますれば、どうか穏便に」
言われてクラヴィスが目を瞑って俯きがちに笑みを浮かべる。
「私よりも物好きなくせに。安心したまえ、今回は大人しく椅子に座っておいてやるさ」