5.十八回目の誕生日
三月七日午後十一時五十九分、窓の外では冬の月が寒々しく輝いている。
目を閉じると――とぷん、と何かの液体が満たされるような音がした。
手足の感覚がなくなったことにすぐに気がつく。目をゆっくり開くと、斜め下のあたりで〝私〟が眠っている。
『どうも。一年ぶりね』
「よお、嬢ちゃん。髪伸びたな。うざってえ」
寝台に寝転がっていた〝私〟は起き上がり、胡座をかいて乱雑に髪を持ち上げた。侍女に髪を結ばせて、と彼に指示する。
「十八回目か。もうそろそろ慣れただろ。誕生日おめでとう」
『どうも。まだ気持ちわるさはあるわよ。私の身体でそうがさつなことをされるとね』
ユーシーは、一年前と同じようにぼりぼりと音を立てて私の頭を掻いた。
「仕方ねえだろ。お淑やか、なんて死んでもごめんだね」
『死んでるじゃない』
「それもそうか」
私の声でがはは、と笑われると違和感がよけいに増す。
現在の私の姿は、自分で見えないけれど、ユーシーだけは目視で確認ができるらしい。侍女たちもまったく見えないと言っていた。今日だけは私が幽霊のようになるのだ。
ユーシーから離れてあちこち飛び回るのも、できることはできるが、その間ユーシーがどんな行動を取るかと思うと迂闊に離れられない。
十二歳の誕生日に、彼は私がいない隙を狙って、離れから脱走しようとしたのだ。周りを見張っていた使いたちにあっけなく捕まって未遂に終わったが、その事件以降はユーシーから離れないようにしている。
「そうギラギラ睨むなって。夜はなんもしねえよ。まだ肉体が上手くハマってなくて気持ちわりいし」
『肉体がハマるって?』
「俺にとっちゃ一瞬のことだけど時間的には一年寝てたわけだし、お前の身体も変化してるから、最初はあんまり思うように動かせねえんだよ。オレの生前の体格ともまったく違うモンに無理やり入ってんだから」
『私も一応は鍛えてるわよ。乗馬も弓もするわ』
「うーん、たぶんそれは関係ねえんだよな。オレも知らねえが、魂と肉体が違えばしょうがねえことなんだよ」
あたりまえのことだけれど、彼の感覚は私には一切通じていないので、説明されてもよくわからない。
今の私は痛さも暑さも苦しさも感じない。まばたきや呼吸をしているのかも謎だ。
自分では実体が見えないので何かに触れることもできないし、ユーシーと会話をしているのも、どうやっているのか自分でもわからないくらいだ。
ユーシーには〝聞こえている〟らしいが、私には声を出している感覚はない。
「眠くねえのか?」
『ねむくない。眠さとか感じないみたいだし』
「じゃあこの一年のお前のことを話してくれよ」
この行事も、毎年恒例になっている。ユーシーは一日中起きていたいようで、私は眠さや疲れを感じないので、誕生日は二人ともほとんど寝ないことが多い。
その反動で次の日は一日中寝てしまうから、誕生日会は二日後に設定しているのだ。
私自身の日々の小さな変化や、両親のこと、兄のこと、家政婦が飼い始めた子猫の話、忙しさのあまり執事が五日も連続で靴下をばらばらで履いていたことなどを話して、ユーシーのことも尋ねる。やっぱり彼は深海で寝ていたみたいだ。
「婚約者とはどうなったんだ? まだ結婚しねえのか?」
ユーシーにちらりと視線を向けられた。
中身が違えば仕草や雰囲気まで違ってしまうのだろうか、今の〝私〟は妙に野生的な色気があって、同時にすごく男くさい。さすがに人から見た私はこうではないはずだ、と願うばかりだ。
『……わからないわ』
もしかしたらその話もなくなっちゃうかもね、と口に出したつもりはなかったが、ユーシーには〝聞こえて〟いたようだった。
「おまえさん、急にしおらしくなってどうした? この前はあんなにはしゃいでカイとやらの話をしてたっつーのに。結婚秒読みじゃねーのか?」
『……このこと、まだ打ち明けられていないの』
「このことぉ?」
ユーシーが今度は顎を掻いた。力が強すぎて、肌が荒れてしまいそうだ。
『だから、ユーシーに取り憑かれることよ! こんな女、気持ち悪いでしょう!? 言えるわけないじゃない! ぜんぶ、あんたのせいよ! 違うわ! あなたのせいじゃない! カイに嫌われるのが怖くて言えない私が悪いの!』
「おまえさんは何に怒ってんだ?」
『知らないわ! ……八つ当たりよ!』
肉体があったら息継ぎをしながらぼろぼろ泣いていただろう。肉体がなくてよかった。こんな令嬢らしくない姿は、全てが規格外なユーシーにしか見せられない。
「健全で健康的な八つ当たりだな」
がはは、とユーシーは快活に笑う。私に行儀をしつけている母や家庭教師が見たら、卒倒してしまいそうな笑い方だ。
「しかし、カイっていい名前だな。オレの生きてた国で『カイ』って言うと、『勝利』とか『勝ち戦』を表すんだ。そいつの親父さんはずいぶんたいそうな名前をつけたもんだ」
『カイは愛称で、本当の名前はカイルよ。それに、カイのお父さまがあなたの国の言葉を知っているわけないでしょう』
「それもそうか。ん? じゃあ、おまえさんがそいつに『勝利』を名付けたんだな」
カイは気づいたらカイだったから、呼び方なんて気にしたこともなかった。カイも昔は私のことを『レイ』と愛称で呼んでいたけれど、いつのまにか『レイラ』に矯正されていて、すこし寂しかったことを思い出した。
『あなたの国の文字で、カイ、ってどう書くのか覚えている?』
「おー。紙と書くもんあるか」
ユーシーは寝台の横にある棚から紙とペンを取り出して、すらすらと文字を書いた。
「戦の前には願掛けっつってこの字を刺繍や筆で書いた布を懐に忍ばせておくんだ。何百年も前の記憶だけど、何千回と書いたから身体が覚えてんだな」
紙を覗き込むと、真ん中に大きく文字が書いてあった。少し粗雑な、乱暴な字はユーシーの印象にぴったりである。私たちの言語とは規則が全く違うようで、謎の記号にしか見えない。
「嬢よお、その大仰な名付けをされた坊とちっせえときから一緒なんだろ? オレがいつまでやって来るかもわかんねえし、結婚したら安心ってわけでもねえだろ。このへんで知らせておいたほうが嬢も楽になれて、坊のほうも頭の整理がつくだろうよ。それに、坊はこんなちっせえことでおまえさんを見捨てるような奴なのか?」
話していることは素晴らしいが、ユーシーは横向きに寝転び、片方の肘で頭を支えるような姿勢をしている。ぐうたらな体勢をすこしは正してほしい。
『……ユーシーにカイのなにがわかるのよ。会ったこともないくせに』
「おまえさんが毎回べらべらそいつの話ばっかりするから、もう印象づいてんだよ。結婚後に偶然知られるよりも、今ちゃんと向き合って話しておいたほうがいいとオレは思う。そして、そのカイとやらは、嬢と誠実に向き合うタマを持った男だ。オレが保証してやる。だから今日のうちに会っておけ」
ユーシーの懸命な言葉に心を動かされそうになって、――はたと気づいた。今日のうちに会っておけ。
『ユーシー、あんたカイと〝勝負〟がしたいだけでしょう』
「……チッ」
大きな音で舌打ちをしたユーシーは、これだから小賢しい女は嫌いなんだなどとぶつぶつつぶやいた。ユーシーの考えていることなんてお見通しだ。