1.ばかげた奇跡
今年もこの日だけは会えません、ごめんなさい、を過度に装飾し、婉曲に表現した文章を便箋に認めて、丁寧に蝋で封をする。
手紙を侍女に手渡したあと、そっと椅子から立ち上がって窓際に近づく。窓の外には広すぎるんじゃないかとも思える大規模な庭園が広がっている。
丁寧に手入れをされた庭を見ているはずなのに、はあ、とため息が出た。仕方のないことではある――そう思うのももう慣れた――が、毎年この時期が近づくと、どうしても憂鬱になる。
一ヶ月後に、私は十八回目の誕生日を迎える。私が憂鬱なのはこのせいだ。
誕生日が今年もやってくる。
両親が異変を感じたのは、私の人生で二度目の誕生日だったそうだ。
幼い頃の私は少々難しい性質をしていたらしく、母乳をもらう時期には夜には二時間おきに目を覚ましたり、母乳をもらわなくなっても少しの物音で起きて泣いたりしていたそうだ。
乳母が「坊ちゃんは何をせずともすやすや寝る子でしたのに、お嬢さまはそれはもう大変で」と言っていたので、相当だったのだろう。
それなのに、二歳の誕生日には一日中泣くこともなく三つ年上の兄とにこにこ遊んでおり、その日の夜だけはぐっすり寝ていた。仮にも侯爵令嬢だからそんな言葉遣いはしたことがなかったのに、「メシ、くう」「はら、へった」とたどたどしく食事を要求し、普段の二倍の量を平らげた。兄に「おまえ、しょうぶしろ」と戦いを挑み、剣術ごっこで勝ってしまった。
兄は「レイラはつよいなあ」とけらけら笑っていたそうだが、両親には大きな動揺が生まれた。どれだけ私に剣の才能があったとしても、令嬢が剣術に励むなど、社交界では瑕疵だと看做されてしまう。
両親はその次の日、私に聞いたのだという。「あんなに剣が上手かったけれど、誰に似たのかしらね? 誰かに指導をお願いしてみる?」と。
私はぽうっと考えたあと、一言、「けん?」と答えたそうだ。そのときの私の表情を見て、両親は「あのときのレイラは熱に浮かされていたのだ」と結論づけることにしたらしい。
その次の誕生日にも、また同じことが起きた。
今度はたどたどしくではなく、はっきり「オレはこんなあじのないメシをたべたいわけじゃない」と言い放ってスプーンを投げ、給仕の者たちと家族を絶句させた。「オレとしょうぶだ」と父や兄、執事を追いかけまわし、剣の勝負を仕掛けて勝った。
三歳の誕生日の次の日、母は私に「昨日はどうしたの?」と尋ねた。
すると私は「うーん……きのう……?」と首を傾げ、そのまま黙りこんでしまったらしい。
まるで「昨日は特に変わったことは起きていないけれど、お母さまはどうしたのかしら」と思っているようだった、と母は言っていた。
両親はその日のうちに家に医者を呼び、私におかしなところがないか診てもらった。しかしどこも健康そのもので、質問にも混乱することなくしっかり答えることができた。
四歳の誕生日も同様だった。
不思議と、その次の日のことは私も覚えていた。兄が「剣で遊ぼう」と誘ってきて、十回やっても私は兄に勝つことができなかった。私はそれまで誕生日以外に剣を持ったことがなかったのだから、あたりまえだ。
最後は私が「兄さまが私に変な遊びをやらせる」と侍女に泣いて縋って終わったはずだ。
五歳の誕生日からは、私自身がはっきりと覚えている。両親や兄、侍従たちの言う通り、私は粗雑な振る舞いをして、男たちを追いかけまわして剣で挑み、勝ち、「がはははは」と笑っていた。
連戦連勝、どこにそんな筋肉と術があったのかと私自身が驚かされるくらいだ。
私はそれを、〝私〟の少し上のあたりから見ていた。
国軍でも上の地位にいて、すでに退役はしていたが「現役時代から何一つ衰えていない」と自負する庭師に勝負を挑み、ものの数分で勝ったときには、あちこちから歓声が上がった。
その庭師は「レイラさまは軍でもトップを狙える」「私が口をきく」と五歳の私を軍に勧誘しようとして、両親に止められていた。
一言でいうと、私は呪われていたのだ。誕生日当日における私の言動は全て、私以外の意思がおこなったものだった。