<第07話>
それからというもの、二人は六日毎に密会を重ねた。
その度に葛城皇子は鎌足の見識の広さに感服し、鎌足を尊敬し、惹きつけられていった。今まで会った大人たちとは違う、そんな風に感じた。
二人は政治や学問に留まらず、他愛ない話もした。古人皇子に気を使った父親とこのような時間を持てなかった葛城皇子は、鎌足に対して父か兄のような気持ちを抱くようになっていった。
「なぜ他の豪族たちは蘇我氏を倒して自分が政権を握ろうとしないのか」
ある時、葛城皇子は疑問を投げかけた。
「以前、この国の古くからの豪族物部氏が、蘇我氏に反発し対立したことがあります。そうして戦になり、その結果蘇我氏が勝利して物部氏が滅びました。それまで最も勢力があった物部氏でさえもです。今や蘇我氏を上回る軍事力を持っている豪族はいますまい」
「ならば、蘇我氏に仕え軍隊を持っている豪族ならどうだ」
「皆、危険を犯すより時流に乗る方法をとっているのです。失敗したら一族は滅ぼされますし、勝ったとしても無傷ではすみません。このまま大臣の下にいればそこそこの地位が与えられ裕福な暮らしができて一族安泰、わざわざ危険を犯すまでもないと。天皇が大臣を滅ぼせと命令しない限り、大臣に戦いを挑む豪族などこの国にはいますまい」
「ふうむ。では蘇我氏が天皇を滅ぼして自ら天皇になる可能性は」
「それもないでしょう。ひとつに、この国では天皇は特別な存在ということがあります。国を統一し治めているのは天皇です。民は天皇に従いはしても、天皇でない人間に従うかというとそうではない。つまりは今は従っている東北の民なども再び歯向かうかもしれません。天皇を滅ぼしたなら、民の反感を買い、やがてそれは反乱を呼ぶ。そのような事態が予想されるのに、蘇我氏は天皇を滅ぼすでしょうか。それよりも、名ばかりの天皇の陰で好き勝手にやって、私腹を肥やすほうが得策だと思っているのです」
「むむ」
「これが大陸の国だったら臣下が王を滅ぼして王位につくなど、よくあることなのですが、この日本では違います。臣下が主人を滅ぼすのは、子が親を滅ぼすに同じ、道義に反することとされています。人の上に立とうという人間ならば、そのようなことを行えば人から敬われることなく、下々の人間が従わないのです」
「ふん」
「もうひとつに、祟りという概念があります」
日本では古来から、天寿を全うできなかった人間、非業の死を遂げた人間は、成仏できずにこの世で祟ると言われ、人々に恐れられている。現世での身分が高ければ高いほど、持っていた権力が大きければ大きいほど、祟りも大きいと信じられている。他の国に見られるような残虐な殺し方も、墓を暴くことも、ほとんど行われないのは人々が祟りを恐れているからだ。死んだ人間が祟り神にならぬよう、懇ろに供養することが必要だと考えられていた。
「もし天皇を殺めれば、大きな怨念を抱いたまま祟り神となり、この世に留まり続け、人を苦しめましょう。天皇の祟りよりさらに恐ろしいのは、神の祟りです。天皇でさえ、悪逆非道を行った暴君は、神の祟りによりその子孫が途絶えました」
「我は祟りなど怖くないぞ」
「しかし、請安先生の話では、大陸の国々では祟りという考えがないそうです。恐れを知らぬから、平気で邪魔者を殺せるのだと。百済皇子の豊璋様にお会いしたことは」
「挨拶はした」
「豊璋様がこの国に来られた理由もそれです。彼は百済王の太子の弟君なのですが、大陸の国では王位継承権を持つ男子で殺し合うことが珍しくなく、豊璋様は継母や王太子側の人間に害される危険があったため、この国に逃れてきたのです」
「なんと、そのような事情が……。我が百済に生まれていたらそのようなことになっていたのだろうか」
境遇が似ている豊璋に葛城皇子が同情し共感したとしても不思議はない。
「百済だけではありません」
鎌足は、隋や唐の話をした。隋の皇帝は側近の近衛兵に殺され、隋が滅んだこと、今の唐の王は、王太子だった兄を殺して即位したことなどを話した。
「かの国では前国王の墓を暴いて遺体を粉々に砕く、骨に鞭打ったり、滅ぼした敵の肉を塩漬けにして送る習慣もあります」
そんな話をしながら、鎌足は、葛城皇子がどこかぼうっとしている様子に気づいた。
「皇子?」
「……あ、いや、もっと話を聞かせてくれ。肉を塩漬けにして送るとはどういう」
「例えば……何者かが入鹿臣を殺害したとします。その入鹿臣の体を切り刻み、その肉を壺に塩漬けにして父親である大臣や入鹿臣の家に送り届けるのです。それを見た者たちを恐怖と悲嘆で絶望させる目的です」
「おおお」
葛城皇子の顔が紅潮した。
「なんということをするのだ。なんという残酷なことを」
「この国ではそのような、死者に鞭打つような真似は尊敬されませんが。祟りもありますし。ただ、世界は広い、様々な国があり様々な考え方があるということを心しておいてください」
この日の話が、後の葛城皇子に大いに影響を与えたことを、鎌足は気づかなかった。