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<第05話>

 飛鳥のはずれ、棚田の連なる奥にある南淵請安の塾に、鎌足は時間が許す限り通った。

 鎌足が唯一認める人物、それが南淵請安だった。

 請安は十代の頃に遣隋使として大陸に渡り、三十余年もの間、先進国の文化や学問、思想を学んだ学者だ。請安が今この時代に帰国し鎌足と出会ったのも、何か縁深いものがあると鎌足は思っていた。

 鎌足は熱心に学んだ。請安は自分が求めることを全て知っている、世の中を変えようとしている自分の気持ちを理解している、そう感じていた。

 病を抱えていた請安もまた、鎌足の気持ちに応えるべくできるだけ多くのことを鎌足に教えようとしていた。

 そうして鎌足は日々、南淵請安の塾で葛城皇子を待った。

 葛城皇子の母親、宝皇女が即位してふた月ほど経った春の日、その時はやってきた。

 鎌足がいつものように、請安が講義を行なっている部屋の一番後ろに座っていたところ、葛城皇子が現れた。他の生徒たちは皇子の姿を見て一番前の席を譲った。

 皇子は落ち着かない様子で講義を聞いていたが、やがて講義が終わり皆が帰り支度を始めると、後ろの鎌足のいる席を振り返った。鎌足の姿はなかった。慌てて外に出ると、木々の間を縫う帰り道の先に人影が見える。足早に追いかけると、その人影は横道にそれ、皇子もそれを追った。坂道を少し下ったところで、前を歩いていた鎌足の足が止まった。

「この辺でよろしいでしょう」

 鎌足は、道端の大きな石に懐から出した布を広げ、跪いた。

「皇子、こちらへ」

 石はちょうど木陰になり、休憩するにはもってこいの場所だった。葛城皇子が鎌足の示すままに石の上に座ると、鎌足は言った。

「このような場所で失礼なのは重々承知です。ですが、私たちはこれから、皇子の抱いている不満を解消する策を練るのです。誰にも聞かれてはいけませんからお許しください」

 そう言って、大石の傍らにある小さな石に座った。

「我が抱いている不満とは」

「皇子が大臣に対して抱いている不満です」

 葛城皇子は心を読まれていると感じた。だが、乗せられて軽々しいことを口にしないよう気をつけた。

「我は、我はただ、そなたは叔父上が天皇になると言ったのに、母上が即位したからどう言い訳をするのか訊きたかっただけだ」

「まあまあ、物事には段取りというものがございます。それを考えずに進めても無理なことになります。今、軽皇子は天皇への道を一歩進んだのでございます」

「そなたが、懇意な間柄の叔父上を天皇にして出世しようと企んでいると、噂を聞いた」

 葛城皇子は、鎌足を疑っている気持ちを隠さずに上から顔を見据えた。

 鎌足は、皇子のまっすぐな視線にたじろぎもせず答えた。

「その噂は本当です。ですが、少し違います」

「私は今の世を憂いているのです。蘇我大臣がまるでこの国の王のように権勢をふるい政を動かしています。本来、国は天皇を中心に豪族が協力しあって作っていくものでございます。大臣は天皇の名を借りて好き勝手に振る舞っています。この国の王は天皇なのに、天皇はまるで……」

「飾り物だ。はっきり言えば良い」

 葛城皇子はきっぱり言った。

「そうだ、我は大臣が大嫌いだ。臣下のくせに父や母に指図して、我が物顔で政を行う。そんな大臣の言う通りにしてしまう両親にも腹が立つ。天皇なのに、天皇なのにだ」

「わかります。群臣の間でも言われております。大臣は無礼だと」

「父は生前、古人大兄とその母に気を使っていた。我の母は皇后なのに。それほどに大臣が大切なのか。父と大臣とどちらがこの国の王なのかわからぬではないか。それなのに母上は、傀儡だとわかっているのに天皇になった。母上の気持ちがわからない」

「宝皇女が天皇になられるようお勧めしたのは私です」

 葛城皇子は、鎌足に裏切られたような目を向けた。

「なぜそのようなこと。やはりそなたも大臣の手先か」

 立ち上がろうと腰を浮かせた葛城皇子を、鎌足は両手でそれを制した。

「最後までお聞きください。全て、貴方様を天皇にするためです」

「なんだと」

「私は皇子同様、大臣に憤りを感じています。この国を大臣の手から天皇の元へ戻すには、貴方様が天皇になることが必要なのです。貴方様は私の、いえ、この国の希望の源なのです」

「何を言う。我は天皇になどなりたくはない。ただ父上や母上が天皇の権威を大臣から取り返せればそれでいいのだ。そもそもそなたは叔父上を天皇にしようとしているではないか」

「ええ、その通りです。宝皇女の次の天皇は軽皇子になっていただき、葛城皇子を皇太子としていただこうと考えております。しかし目の前には古人大兄が皇太子としておられます。このまま何もしなければいずれは古人大兄が位につき、大臣は今よりさらに好き勝手に振る舞うでしょう」

「そのようなこと、今すぐ古人大兄を亡き者にすれば叔父上が天皇になれる。そうではないか」

 葛城皇子は鎌足の話術に惑わされないよう、自分に言い聞かせながら言った。

「皇子は大臣と戦う覚悟がおありですか。古人大兄に手出しをすれば、大臣は軍隊を出してでも皇子を滅ぼしましょう」

「我の母は天皇だぞ。命令すればそれ以上の兵を集められるだろう」

「確かに全国から徴収すれば多くの兵が集まると思います。しかし、それらの兵が駆けつける前に御命が持ちませぬ」

「……」

「その昔、蘇我大臣に逆らった天皇がおられました。大臣は天皇を殺め、次にはご自分の言うことを聞く天皇を即位させました」

「なぜ、そのようなことが罪にならない」

「表向きは、大臣の家臣が勝手にやったこととして、大臣はその家臣を処罰して事を収めました。皆が真相を知っていても異議を唱える者はいません。大臣の軍事力に敵う者はいなかったのです。ですからやる時には慎重に且つ大胆に、絶対に勝てると確信した時でなければなりません」

「そのようなことができるのか」

「私なら、できます。私を信じ、私の作戦を信じ実行していただけるなら、必ずや成功いたしましょう」

「そんなことを言って、そなたが蘇我大臣にとって代わろうとしているのではないか。我を天皇にした後は我を傀儡にするつもりなのだろう」

 皇子の心の底にあるのは豪族に対する不信感だった。天皇の権威を利用し、権力を思うままに使い私腹を肥やす。豪族は皆そういう人間たちだと思っていた。

「確かに私は蘇我氏に代わって大臣になりたいと考えています。しかし、私が欲しいのは財宝でも権力でもありません」

 鎌足は落ち着いた声で話した。

「今の時代、身分に関係なく能力に応じて官位を制定する法律があるにも関わらず、実際には出身で左右されています。官位の査定をするのが蘇我大臣だからです。上級貴族でない者は、どんなに能力があってもどんなに頑張っても出世できないのです。私はただ、能力を重視してくれる賢王が現れ、正当な評価をして正しく使ってくれることを望んでいるだけなのです」

 葛城皇子は、鎌足が言う豪族の事情をこれまで全く知らなかった。今初めて知ったのだ。

「この先どのような世にするか、皇子にかかっています。もし少しでもこの世を良くしようと思われるなら、私めの言葉を思い出してください」

 鎌足は「六日後にまた請安塾で待っています」とその日は話を終わりにした。


 宮に帰って独りになった葛城皇子の心は揺れていた。

 大臣に対して、社会に対して反感を抱きつつもどうしていいかわからない自分。一方、鎌足は未来を見据え打開策を考えている。

「年齢と経験の違いだ」

 呟いた独り言が虚しく響いた。

 わかっている。鎌足の頭脳には敵わない。だが、葛城皇子は十七歳、素直になれない年頃だった。

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