<第16話>
大友皇子を後継とする障壁が減り、これで葛城皇子の気持ちも落ち着くだろう、と鎌足は思っていた。今度こそ、しばらくの間は不穏なことは起こらないことを願った。
しかしそうはいかなかった。
斉明六年(西暦六百六十年)朝鮮半島の百済が新羅によって攻められた。百済王義慈王とその太子は新羅によって殺された。百済政府は、日本に住んでいる百済の皇子豊璋を帰国させ、王位を継がせたい、そして新羅と戦いたいと、日本に軍事協力を要請してきた。
皇太子葛城皇子は豊璋を百済へ送り出し、独断で百済救済のために出兵することを決めた。
「我が国の軍隊を出すはおやめください」
鎌足は聞き入れてもらえないのを承知で、それでも万が一にかけ進言した。
「豊璋君は我に言っていた。もし豊璋君が百済の王位につくことができたなら、任那を日本に返還しよう、と。どうだ、鎌足。何百年もの間、天皇が誰もかなえなかったことを、我がかなえるのだぞ。我の名はこの先永遠に語り継がれる」
「新羅を侮ってはなりません。今はまだ国内を固める時期。百済のことは百済に任せ、大陸に兵を出すのはもっと国力がついてからになさいませ」
「ああ、国内の律令とか税制とか、もううんざりだ。我は退屈なのだ。我は豪華な宮に住み、遊んで暮らすために生きているわけではない。許されるなら自ら海を渡り新羅と戦いたいくらいだ」
「それはおやめください」
「わかっておる。だから半島に一番近くから指揮を取れる太宰府に陣を張ることにしたのだ。それなら問題はなかろう」
「いいえ、皇子、どうか大陸に兵を出すのはおやめください」
必死に止める鎌足に葛城皇子は冷ややかに言った。
「我は血が見たいのだ。兵たちが命をかけて刃をふるい合う。戦場をこの目で見たいのだ」
「そのような恐ろしいことを」
「我がこのようになったのはそなたのせいぞ、鎌子」
葛城皇子は薄寒い微笑みを口元に浮かべ言った。
「あの日、入鹿臣の血飛沫が飛び散り我の白い衣を染めた。その時、初めて我はこの体が血沸き胸躍り、生きていると感じたのだ。今思い出してもうっとりする。あの高揚感、忘れられぬ。兵を集めただけで戦にならなかったのが口惜しい。あの時叶わなかった戦を、今するのだ」
「なんということ」
鎌足は、若き葛城皇子の影を見た。
「今更何を驚いているのだ。我をこのように育てたのは鎌子、そなたではないか」
「ああ……」
鎌足は崩れ落ちた。
自分がこれまで教えてきたことは全て、恐怖政治を行う暴君を作り上げるための糧だったのか。
「怖気付いたか。ならばそなたは京に残るが良い。そのような臆病者に戦えはしまい。どうせ誰か留守居が必要だと思っていたところだ。大友皇子と共に京の留守居を命ず」
「皇子、しかし」
「案ずるな。我は必ずや勝利し、すぐに帰ってくる」
「もし我が戻らなかったら」
葛城皇子は鎌足を見据えていった。
「この国はそなたにくれてやる。好きにするが良い」
「え」
鎌足の顔面から血の気が引いたのを見て、葛城皇子は満足そうに言った。
「ふっ、戯言よ。真に受けたか」
葛城皇子は煌びやかな装飾が施された短刀を差し出した。
「我が留守の間、大友皇子を守り、そなたがこの国を統べよ」
「葛城皇子……」
そうして葛城皇子は難波の港から西へと旅立っていった。天皇をはじめ、弟妹、妃も一緒に船に乗った。
鎌足は、葛城皇子は大陸へ渡って帰ってこないつもりではないかと予感した。いや、いっそ帰ってこなければいい、そのほうがこの国にとっては良いのかもしれないとも思った。