<第14話>
その頃、新羅からたびたび侵略を受けている百済からの援助の要請があった。天皇はその要請をのらりくらりとかわし、具体的に何もしなかったのだが、親百済派の葛城皇子と対立した。
「最近の葛城皇子を見ていると我は不安で仕方がない」
ある日、軽皇子は深刻な顔をして鎌足に言った。
「我の息子の先行きを思うと不安でたまらなくなる。今のうちに葛城皇子を何とかしたほうがいいのだろうか」
鎌足は即答できなかった。
軽皇子の長男、有間皇子はまだ十四歳。軽皇子は既に六十歳に手が届く年齢である。有間皇子が相応の年齢になるまで、長生きできるか不安に思っているようだ。
皇太子に葛城皇子を立てている手前、軽皇子が崩御したら葛城皇子が即位するだろう。譲位するにしても、皇太子を飛ばして有間皇子には無理がある。
葛城皇子の長男は有間皇子より八歳年下。もし天皇となった葛城皇子が自分の息子に皇位を継承したいと思うなら、有間皇子の存在は邪魔だと考えるだろう。古人皇子の件を思い出せば、軽皇子が懸念を抱くのは当然である。
「鎌子。そなたが我を天皇にしてくれたように、何か妙策を考えてくれまいか」
鎌足にも軽皇子の気持ちは痛いほどわかる。
軽皇子同様、鎌足も葛城皇子に対して憂慮していた。反対勢力を力で封じ込め、自分の気に入らない人間を容赦なく滅ぼすというそのやり方。しかしそれをやったら長くは続かない。いずれ反乱が起き滅ぼされる宿命だ。葛城皇子がそれをわかってやっているのか、それが恐ろしいのだ。そもそも彼はこの国を安定した平和な国にしたいと思っていない。
「わかりました。何か策を考えましょう」
鎌足はそう言って宮を退出したが、心の中は複雑だった。
「しかし葛城皇子に逆らうことなどできない。下手をすれば自分が殺される」
鎌足が自邸に戻ると、葛城皇子の使者が待っていた。
「葛城皇子がお呼びです」
鎌足は背筋が寒くなった。
その直後、葛城皇子が再び飛鳥に遷都すると発意し、天皇の反対を押し切って飛鳥へ移った。上皇后宝皇女はじめ皇后間人皇女や主だった官人なども皆、揃って葛城皇子に従った。
鎌足は、内臣として軽皇子の側に残った。軽皇子は喜んだが、葛城皇子から内偵者としての密儀を受けていることが鎌足は心痛かった。
その当時、鎌足には息子がひとりいた。軽皇子の采女だった女性を母に持つ長男である。軽皇子も鎌足も、もしかしたら軽皇子の子かもしれないと疑っていたが、それでも鎌足にとっては初子、自分の実子と信じて今日まで大切に育ててきた。
鎌足は突然、その息子を出家させた。他に跡取りがいない鎌足が、長男を出家させるなど常識では考えられないことだった。そして、久しぶりに遣唐使が派遣されることになると、鎌足は、息子もその中に入れてくれるように軽皇子に頼んだ。
この先、代替わりし葛城皇子が天皇となった時、おそらく軽皇子の息子全員を滅ぼすだろう。これまでの葛城皇子の所業を見ていれば想像はつく。その時、この息子が軽皇子の子かもしれないと葛城皇子が疑念を抱いたら、息子の命さえ危うい。
「まだ年端もゆかぬ我が息子を見知らぬ国で危険な目に合わせたくはない。だが、この国にいるほうがもっと危険かもしれないのだ。葛城皇子の魔手から守るには、これしかないのだ。許してくれ」
鎌足は、心の中で息子に詫びた。
難波の宮に取り残された軽皇子は、目に見えて衰えていった。
「もしかしたら自分以外にも葛城皇子の密偵がいて、軽皇子の食事に毒を盛っているのかもしれぬ」
あまりの急激な衰えに、鎌足はそう疑わざるを得なかった。
「我はもう長くない」
軽皇子は養生している部屋に鎌足を呼んで言った。
「そなたが葛城皇子の側につくも、我は構わぬ。ただ、ひとつだけ我の願いを聞いて欲しい。我の一人息子、有間皇子をよろしく頼む」
軽皇子は血の気のない手で最後の力を振り絞って鎌足の手を握った。その姿が鎌足は、哀れに見えた。
「ええ、ええ、阿倍臣と力を合わせ、有間皇子が位に就く日まで、大切にお守りいたしまする」
鎌足は本心から言い強く手を握り返した。葛城皇子よりも有間皇子を天皇にしたいと思う気持ちに嘘はなかった。
軽皇子は鎌足の誠意を受け取り、無言で涙を流して何度も頷いた。