<第11話>
雲が重く広がる梅雨の朝だった。
その日は、三韓の遣いが天皇に謁見する朝貢の儀式が、朝庭にて行われることになっていた。儀式に出席するのは天皇と皇太子古人皇子、大臣代理の蘇我入鹿、豪族代表の巨勢徳太などである。
計画を知っているのは葛城皇子、中臣鎌足、蘇我倉山田臣石川麻呂、巨勢臣徳太、佐伯子麻呂、葛城稚犬飼網田、海犬飼勝麻呂の六人と、この場にいない軽皇子、阿倍臣倉梯麻呂である。朝庭の柱の影に隠れ、葛城皇子、中臣鎌足らは機会を伺っていた。
石川麻呂が三韓の遣いを装った人間を率いて朝庭に並ぶと、正面の舞台に天皇と皇太子古人皇子が現れた。舞台の中央に天皇、その横に古人皇子、一段下がって蘇我入鹿が座すという形だ。
石川麻呂が遣いに代わって上奏文を読んだ。計画では、読み始めたら佐伯子麻呂、葛城稚犬飼網田、海犬飼勝麻呂が出て行って入鹿に斬りかかる手筈だ。
朝庭の柱の影では、葛城皇子が焦っていた。いざとなると子麻呂ら実行役が怖気づいて出て行こうとしない。
「早く行け。今だ」
葛城皇子が急かすも、彼らの足は動かない。
「ええい、我が行く」
葛城皇子は刀を抜いて柱の陰から走り出た。
「いかん」
鎌足は慌てて弓を引き、皇子を援護するように入鹿目掛けて矢を放った。
矢は外れたが、避けようとして体制を崩したところを葛城皇子の刀が当たった。
「そなたらも」
鎌足にけしかけられ、意を決して子麻呂らも刀を抜いて駆け寄った。
入鹿は地に倒れ込みながら叫んだ。
「何をする。天皇の御前だぞ。いったい私に何の罪が」
葛城皇子は剣を片手に天皇に訴えた。
「鞍作臣は皇子たちを滅ぼし帝位を奪おうとしています。そのようなことがあってよいのでしょうか」
宝皇女は無言で眉を潜め、足早に奥へ消えていった。
それを見た子麻呂らは一斉に入鹿に襲い掛かった。
天皇が何も言わなかった。そのことは重要だった。天皇が止めれば葛城皇子は天皇の命令に従わねばならぬ。だが、天皇が何も言わなかったということは、葛城皇子の所業を容認したと言うことになる。これは前もって鎌足が軽皇子経由で宝皇女に指示したことである。葛城皇子を罪人としたくなければ、黙認せよ、と。
皆の刃によって全身斬られた入鹿の遺体の前で、血潮を激らせた葛城皇子は剣を振り上げ、汗の滴を飛び散らし叫んだ。
「皆の者、飛鳥寺へ」
「おお」
入鹿を殺害した後、葛城皇子は兵を集め飛鳥寺に陣を張った。予め巨勢臣や石川麻呂らの家臣の兵を飛鳥寺に召集していた。
葛城皇子は下人を使い、筵に包んだ蘇我入鹿の遺体を甘橿岡にある蘇我毛人大臣の屋敷に届けさせた。大臣には青天の霹靂である。しかし悲嘆に暮れている時間はない。こうなったら葛城皇子と戦うしかない。大臣は即座に家臣や仲間の豪族の兵を集めた。
双方の戦の準備が進み、京の街中は緊張に包まれた。葛城皇子側につくか、蘇我氏側につくか、京にいる豪族は騒めいた。
「戦いましょう。戦わずしてどうします」
蘇我氏の家臣、軍事を担当する東漢氏は他の家臣に訴えた。
だが、嫡男の入鹿を失った蘇我氏にはこの先の未来はない。
「相手は天皇の皇子、葛城皇子ぞ。我らが逆賊となる」
「たとえ勝ったとしても、入鹿臣を失った大臣の家はもう終わりだ。将来のない家の為に戦って何になる」
蘇我氏の有力な家臣軍団は次々と葛城皇子側へ寝返った。孤立無縁となった大臣蘇我毛人は、観念し自邸に火を放ち自害した。
ここに蘇我総本家は滅びた。蘇我総本家の財産は全て没収され、蘇我家の家臣たちは天皇の臣としての忠誠を改めて誓うことで罪を問われなかった。
双方の軍隊が解散し混乱が収まると、蘇我大臣に替わって群臣をまとめる立場となった阿倍臣倉梯麻呂は宝皇女に言った。
「この混乱を収めるには譲位なされますよう。臣下の皆の意見は軽皇子にまとまっております」
阿倍臣も軽皇子も、急病と偽って入鹿殺害の場には居合わせなかった。これは新政権に血の匂いをさせないために鎌足が仕組んだことである。
天皇であった宝皇女は位を弟の軽皇子に譲り、自身は皇祖母尊を名乗った。宝皇女は、皇位を長男の葛城皇子に譲りたかったが、彼は辞退せざるを得なかった。
即位を母から打診された葛城皇子は、鎌足に相談した。
「間人皇女とは関係を終わらせたのですね」
鎌足の問いに、葛城皇子は目を逸らせた。
「いや、だが我が天皇になってしまえばそのようなことはどうにでもなろう」
「それは無理です。豪族たちの同意が得られません。無理に立とうとすれば、貴方様は」
「殺されるのか」
葛城皇子は吐き捨てるように言った。
そうして宝皇女は実弟の軽皇子に譲位した。
軽皇子は皇太子を葛城皇子とし、皇后には葛城皇子の実妹の間人皇女を立てた。左大臣に阿倍臣倉梯麻呂、右大臣には蘇我倉山田臣石川麻呂、また新たに内臣という役職を左右大臣の上に設け、それには中臣鎌足を任命し、新政権を発足させた。
しばらくの後、鎌足が外出から帰ると、葛城皇子が自宅に訪ねて来ていた。
皇子が待つ部屋へ行くと、夕暮れの薄暗い部屋に皇子がひとりで膝を崩して座っていた。
「このような暗い部屋に。家の者も気が利かない。すぐ灯りを持ってこらせましょう」
鎌足が人を呼ぼうとすると皇子は遮った。
「我が望んだのだ。灯りはいらぬ。人を呼ぶな」
皇子は鎌足の腕を掴んだまま、横へ座らせた。
「いったい、どうなさったのですか。何かあったのですか」
いつもと違う様子に、鎌足は心配になった。
「彼女が叔父上の后となるのだと」
葛城皇子の妹、間人皇女のことだ。
「それはおめでとうございます」
鎌足は、宝皇女の判断を賢明だと思った。
京にいる皇族や豪族は葛城皇子と間人皇女の関係にうすうす勘づいていた。葛城皇子が妹と関係を続ける限り皇子は天皇になれない。なんとか引き離そうと宝皇女は考えていたのだろう。そうは言っても、彼女を妻にして葛城皇子を敵に回すような人間は出てこないだろうし、足元を見て恩を売る男などは以ての外である。間人皇女は一生独身で過ごす以外になかった。
しかし、宝皇女の実弟である軽皇子なら、ちょうど皇后に立てる皇女を娶る必要があったし、そういった事情にも目を瞑って彼女を皇后にするだろう。
「めでたくなぞ、ないわ」
葛城皇子の言葉にいつもの力はなかった。
「妹は我のものだ。我のことを一番よくわかっている。ずっと我と一緒にいると言っていたのに、我を捨てていくのだ。我は……」
「また独りだ」
そう言って俯き左袖で顔を覆った。
鎌足は、皇子に体を寄せ、その肩に右手をそっと置いた。
「鎌足がおりまする」
皇子は顔を上げなかった。
「この鎌足が、一生皇子のお側でお守り申しあげまする。この先どのようなことがあっても、この鎌足、決して皇子から離れませぬ」
そうして鎌足は、右手にぐっと力を入れた。
皇子は何も言わず、しばらくそのままでいると、突然顔を上げた。
「必ずだぞ。鎌子。決して我から離れるなよ」
いつもの傲慢な葛城皇子に戻っていた。
「よいか、命令だ。そなたは一生、我の側にいるのだ」