<第10話>
ひと月後、飛鳥に戻った鎌足は、葛城皇子が同母妹の間人皇女と近親相姦の関係を持ったことを知った。
「母上が悪いのだ。妹を古人大兄の妃にしようなどと言い出すから。そのようなことはさせまいと、我が妨害してやったのだ」
父親が同じでも、母親が違う異母兄妹ならば婚姻は許される時代であったが、同母兄妹の近親相姦は重罪である。
鎌足は、昔の歴史、木梨軽皇子の話をして聞かせた。
允恭天皇の皇太子、木梨軽皇子は、允恭天皇と皇后との間に生まれた第一皇子であった。しかし同母妹の軽大娘皇女と近親相姦の関係を持ち、皇太子の地位を剥奪された。二人は罪人として伊予国へ流され、自害した。
「よいですか、他の人間に知られないうちに関係を断つのです。人に知られたら天皇になる資格を失うばかりではなく、罪人として処罰されるのですよ。これきりになさいませ」
葛城皇子と別れての帰り道、鎌足はまたしても自分の計画が葛城皇子に腰折られ、落胆した。
「二人の関係はいずれ采女の口から他人へ漏れるだろう。これで葛城皇子を天皇にするのは難しくなった」
それでも作戦は進めなければならない。ここで止めたら今までのことが全て無になる。
軽皇子と鎌足は更に仕掛けた。二人は采女や舎人らが側にいる中でわざと噂話をした。
「それにしても上宮一族皆滅ぼされるとは、なんと悲しいことか。入鹿臣はやりすぎではないのか。なぜこのようになったか、そなたは知っておるか」
「はあ、元々、入鹿臣の進める政策の強引なやり方に上宮大兄が苦言を呈したことがあったとは聞いております」
「それだけか」
「上宮大娘女も、入鹿臣の天皇を天皇と思わぬ傲慢さを注意したとか。豪族の間では、入鹿臣はお身内の古人大兄を利用して、本当はご自分が天皇になるつもりなのではないか、と噂されています」
「なんと、入鹿臣は自分が天皇になるつもりだと」
軽皇子はわざと声を荒らげた。
給仕する女官たちが、すました顔で聞き耳を立てているのは承知の上である。彼女らの父親は皆それぞれ各地の有力な豪族だ。皇室の内情や政治の情報を実家に伝える役目を密かに担っているはずだ。
「入鹿臣がどのような御人なのか、私は詳しく存じ上げませんが、この国は天皇あってのもの、そのような邪心を抱いている御人が次の大臣でよいのかと思う時があります」
鎌足は、親しい豪族同士の歓談でも「このような噂話を聞いた」と広めた。
そうした二人の尽力の甲斐あって、やがて巷では蘇我入鹿の悪い評判が囁かれるようになった。
この先、入鹿を滅ぼすにあたって大切なことは「入鹿臣は誅されて当然。入鹿臣を滅ぼしたが正義」という印象を民衆に与えることだ。特に地方の豪族に与える影響は大きい。そのために入鹿を使って上宮家を滅ぼさせた。軽皇子側からすると、即位の障害となる上宮家と蘇我入鹿、両方共を抹消することができる。
さて、次の作戦を実行に移すには、もっと協力者が必要である。
鎌足は、常々親しく交際していた蘇我倉山田臣石川麻呂を仲間に引き入れようと思った。彼は大臣蘇我毛人の従兄弟であるが、妾腹の生まれであることもあって、蘇我総本家の毛人や入鹿との差を感じ、少なからず不満に思っていた。鎌足は、皇子たちに石川麻呂の娘を娶り縁戚関係を築くことを勧め、石川麻呂の娘を軽皇子、葛城皇子とそれぞれ引き合わせた。他にも蘇我毛人、入鹿親子に不満を持っている豪族に声をかけた。
そういった動きの鎌足に礼をする気持ちだったのか、軽皇子はある日言った。
「あの采女、そなたにあげようぞ。そなたの妻にせよ」
以前、接待を受け、それからは軽皇子と共有していた采女のことである。
皇子からの恩賞、断ることなどできない。
「なんとありがたき幸せ」
鎌足は頭を下げるしかなかった。
鎌足は皇子の命令で彼女と結婚し、やがて彼女は子供を産んだ。生まれた男子を、鎌足は自分の初子として育てることとなった。
その後も鎌足と葛城皇子は南淵請安の塾に通うふりをしながら、頻繁に帰り道に密談した。鎌足は、皇子の不満を焚きつけ、計画を説明した。
そんな中、病を抱えていた請安の病状がいよいよ思わしくなくなった。
鎌足は他の弟子たちに先立ち請安に呼ばれ「形見分けだ。書物を好きなだけ持っていくがいい」と言われた。鎌足は、それまで請安が書いた本、全てを選んだ。唐から持ち帰った他の本には目もくれず、請安の著書だけを選んだ。
「これらの本には私に必要なものがある。自分以外の人間に学ばせてはならない、誰の目にも触れさせてはいけない」
鎌足はそう思ったのである。
請安の著書全てを持ち帰ろうとする鎌足を、請安は満足げな目で見ていた。
「これからそなたが何を成し遂げるか楽しみだな。俺が見ることができないことだけが残念だ」
それからしばらくした秋の日に請安は死んだ。
請安の弔いの帰り道、鎌足は葛城皇子の後を黙々と歩いた。
稲淵の田舎道で、突然葛城皇子が顔を上げた。
「おお、見てみよ、鎌足」
皇子の視線の先を見ると、水田の土手に咲き誇る曼珠沙華の群生だった。
「美しいな。我は曼珠沙華が好きだ。ああやって咲き誇っているのを見ると、まるで血飛沫がそこいら中に飛び散っているようで妖しく見えないか、鎌足よ。まるで請安先生の吐いた血のようだ」
「血飛沫とは……。皇子は悪趣味ですな。我には美しい女人の紅に見えまする」
鎌足は不吉な予感が喉元に上がってきた。
そして、天皇宝皇女が古人皇子へ譲位を約束した期日まで、残り二年を切った。そろそろ本来の計画を実行に移さねばならぬ。