<第01話>
天智八年(西暦六百六十九年)九月、中臣鎌足は病床にあった。
軽皇子(孝徳天皇)が天皇となった時に内大臣に任ぜられて以来、三代の天皇に仕えてきた鎌足であったが、長年の苦労と寄る年波とともに、ここ数年は体の不調を感じていた。そんな折、風邪をこじらせた鎌足は天皇(天智天皇)に休暇を申し出た。
天皇は田村皇子(舒明天皇)と皇后宝姫王(皇極天皇・重祚して斉明天皇)の長男、葛城皇子である。長らく皇太子の地位にあって政治を摂っていた葛城皇子だったが、昨年即位した。軽皇子亡き後は葛城皇子に仕えた鎌足の尽力が、ようやく報われたのだ。
葛城皇子は鎌足を自分の師と崇め、また父のように兄のように慕い、鎌足もまた皇子に様々なことを教え、信頼関係を築いてきた。葛城皇子は政敵や自分に意見するものは皆、粛正してきたのに、鎌足だけはずっと近くに置いていた。鎌足は特別扱いだった。
その鎌足の病の報せを聞いて、天皇は驚いた。
「鎌足が病気で休暇を取るとは。そんなに具合が悪いのか」
天皇は口に出して気づいた。いつもどんな時でも自分の側にいた鎌足がいなくなるなど、一度も考えたことがなかったと。
天皇はブルっと身震いした。
「まさか鎌足がこのままいなくなってしまうなどあるまいな」
言いながら天皇は自分の気持ちが高揚してくるのを感じた。
「鎌足がいなくなってしまったら、我はどうしたらいいのだ。おお、鎌足よ、まさかいなくなったりしないだろうな」
天皇の頬が紅潮していた。
近江京の天皇の宮から近い鎌足の屋敷では、南に面した部屋で鎌足が床についていた。琵琶湖の近いその屋敷、窓から見える庭の木々が若々しく茂っている。
病床の老いた鎌足はその青葉にすら嫉妬した。
「もう私には何もできることはない」
鎌足が起きた気配を察した侍女が縁から声をかけた。
「天皇からお見舞いの品が届いています」
「天皇から」
「滋養のつくようにと鹿肉と果実、それから薬も」
「天皇が、この私に……なんという、ありがたいこと」
「今、召し上がりますか」
「いや、……後にしよう」
「天皇が、この私に……なんという、ありがたいこと」
鎌足は力なくそう言って、目を閉じた。
鎌足がまだ若かった夏の日、舒明天皇の第二皇子である葛城皇子と初めて言葉を交わした。蒼い槻の木の下で快活に笑う齢十六歳の葛城皇子。鎌足のまぶたの裏に、その時の光景が鮮やかに蘇ってきた。