第8話「初めてのお風呂」
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…朝が来る。
太陽が東の海から昇って、そして西へと沈んでいく。
そんなこと、カーテンで締め切っていても変わらない。
それでもボクは、現実から目を背けるように真っ暗な部屋で丸くなっていた。
「…もうやだ。帰りたいよ」
カーテンの隙間から零れる太陽を見ていると、思わず涙ぐんでしまう。
ボクがこの世界に迷い込んでから、すでに数日が経っていた。
おそらくこの異世界は、オンラインゲームである《カナル・グランデ》と関係があるのだろう。本来であれば、積極的に町に出て情報を集めるべきなのだ。
そんなこと、ボクだってわかっている。
「…でも、こんなんじゃ」
パジャマの上から、そっと自分の体に触れてみる。
柔らかい膨らみがボクの指を押し返してくる。目が覚めたら男に戻っていた、なんてことは当然なかった。トイレに行くたびに、自分が女の子であることを自覚されられる。その度に恥ずかしくて死にそうだった。お風呂なんて、こっちの世界に来てから一度も入っていない。
…入れるわけがないよ。
女の子みたいだって言われるのが嫌だったボクが、女の子そのものになってしまったんだ。もう、自分のプライドがどこにあるのかわかったものじゃない。
「…やだよ。こんな姿じゃ、外にも出られない」
ボクは涙を堪えながら、膝に顔を押し付ける。
その時だった。
バンッ!
部屋の玄関がものすごい音を立てて開いた。
「いつまでウジウジしてるのよ!」
「ひっ!」
ボクは恐怖して、部屋の隅に逃げる。
…あいつだ。
…あいつが来たんだ!
「ほらっ、カーテンを開ける。朝日が上ったら、起きて行動するのよ。お母さんに教わらなかった!」
部屋の中にズカズカと入ってきて、締め切っていたカーテンを簡単に開けてしまう。
蜂蜜色の髪が太陽に反射して、キラキラと輝く。気の強そうな顔立ちが、ボクのことを見つめている。
そして、にっこりと笑うのだ。
「おはよう、ユキ。今日も良い天気だよ」
ボクは半ば呆れた視線を彼女に向ける。そんなこと、彼女には無意味だってわかっているけど、それ以外に抵抗する術をボクは持っていない。
彼女の名前はアーニャ。
ボクにトイレの場所を教えてくれた大恩人である。
そのときは感謝してもしきれないくらいだったが、今では出会わないほうがよかったと思えてくる。
「なに? またお風呂に入らなかったでしょう。女の子なんだから、ちゃんと入らなきゃダメじゃない」
丸くなっているボクを見て、アーニャは呆れたようにため息をはいた。
「もうっ! せっかく毎日来てあげているんだから、少しは私の言うことを聞いたらどうなの?」
そうなのだ。
アーニャと知り合った日から、彼女は毎日ボクの部屋に入り浸っている。そして、口のうるさい母親のように、ボクを外に引き釣り出そうとしているんだ。引きこもった経験はないが、こんな世界で似たような状況になるなんて。
「まったく。お風呂嫌いな女の子なんて、聞いたことないわよ」
「…何度も言ってるよね。ボクは女の子じゃないんだよ」
ボクが独り言のように呟くと、アーニャは呆れたようにジド目で睨んできただ。
「よくもまぁ、その外見で言えるわね。綺麗な黒い髪と綺麗な顔。それに可愛い声。どっからどう見ても、ユキは女の子じゃない」
「それでも、ボクは―」
そこまで言ってボクは口をつぐんでしまう。
アーニャの表情が険しくなっていたのだ。蜂蜜色の髪を逆立てて、目つきもどんどん鋭くなっていく。
「じゃあ何? ユキよりも胸が小さい私は、女の子ですらないっていうの!」
アーニャが声を荒らげながら、ボクの胸に指をさす。恥ずかしくなってボクは反射的に自分の胸に手を当てた。
「どうせ私はツルペタよ! ブラジャーだって必要ないお子様体形よ! 下着屋に行っても、逆に合うサイズがないくらいにね! どうせユキだって、哀れな貧乳とでも思っているんでしょう。自分のナイスバディを見て優越感に浸っているんでしょう!」
「そんなこと思っていないよ!」
「とにかく! 今すぐ、お風呂に入りなさい! ユキみたいな可愛い子が埃まみれでいるなんて、私が許さないわ!」
アーニャはボクに手を伸ばすと、パジャマのボタンを一つ一つ外し始めた。
「ちょっ、アーニャ! なにやってるの!」
「決まってるでしょう。服を脱がしてあげるのよ。こうでもしないと、ユキはお風呂にはいらないでしょ」
「わっ、わっ! ふ、服くらい自分で脱げるよ。ちょ、ちょっと。どこを触ってるの!」
「ユキが暴れるからでしょ。女の子同士なんだがら、気にしなくていいでしょ」
「わ、わかった! わかったから! お風呂に入ればいいんでしょう!」
ボクはどうにかしてアーニャから逃げ出すと、そのままバスルームに駆け込んで扉を締める。
「ちゃんと、体の隅々まで洗ってくるのよ」
扉越しにアーニャの声が聞こえる。ボクはため息をつきながら、バスタブにお湯を溜める。
パジャマを脱いでいって、下着だけになったところで、ボクの手が止まった。
バスルームの鏡が、今のボクを映していた。
「っ!」
長い黒髪の少女が下着姿になっている。
それだけでもドキドキするのに、それが自分の体だと思うと緊張してどうにかなってしまいそうだ。
「…はぁぁ」
鏡の中の少女が、恥ずかしそうに少しずつ顔を赤らめていく。
下着越しに触れた胸は、かすかな弾力と共に沈んでいく。下着を脱ぐという名目で、少ししだけ指を動かしてみる。
「…あ」
そして、ゆっくりと下着越しに触れた。
「ねぇ、ユキ。朝食は紅茶とコーヒー、どっちが好き?」
「わわっ!」
ボクは焦って両手を上に上げる。そして、あたふた慌てながら鏡に背中を向けた。バスルームの扉越しに、アーニャが声をかけていた。
「え、えーと、ボクは紅茶で」
「うん。わかった」
それっきりアーニャの声は聞こえてこなかった。
ボクは凄まじい脱力感に駆られて、思わずため息がもれてしまう。
「…ボクは何を考えているんだ。サッと脱いで、パッと風呂に入ろう」
それからボクは鏡を背中に向けたまま、何も考えずに下着を脱いでいく。そして、バスタブに思いっきり飛び込んだ。
久しぶりのお風呂は、自分でも信じられないくらい気持ちよかった。




