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第8話「初めてのお風呂」


――◇――◇――◇――◇――◇――◇―― 


 …朝が来る。


 太陽が東の海から昇って、そして西へと沈んでいく。

 そんなこと、カーテンで締め切っていても変わらない。

 それでもボクは、現実から目を背けるように真っ暗な部屋で丸くなっていた。


「…もうやだ。帰りたいよ」


 カーテンの隙間から零れる太陽を見ていると、思わず涙ぐんでしまう。


 ボクがこの世界に迷い込んでから、すでに数日が経っていた。

 おそらくこの異世界は、オンラインゲームである《カナル・グランデ》と関係があるのだろう。本来であれば、積極的に町に出て情報を集めるべきなのだ。


 そんなこと、ボクだってわかっている。


「…でも、こんなんじゃ」


 パジャマの上から、そっと自分の体に触れてみる。

 柔らかい膨らみがボクの指を押し返してくる。目が覚めたら男に戻っていた、なんてことは当然なかった。トイレに行くたびに、自分が女の子であることを自覚されられる。その度に恥ずかしくて死にそうだった。お風呂なんて、こっちの世界に来てから一度も入っていない。


 …入れるわけがないよ。


 女の子みたいだって言われるのが嫌だったボクが、女の子そのものになってしまったんだ。もう、自分のプライドがどこにあるのかわかったものじゃない。


「…やだよ。こんな姿じゃ、外にも出られない」


 ボクは涙を堪えながら、膝に顔を押し付ける。

 その時だった。


 バンッ!

 部屋の玄関がものすごい音を立てて開いた。


「いつまでウジウジしてるのよ!」


「ひっ!」


 ボクは恐怖して、部屋の隅に逃げる。


 …あいつだ。

 …あいつが来たんだ!


「ほらっ、カーテンを開ける。朝日が上ったら、起きて行動するのよ。お母さんに教わらなかった!」


 部屋の中にズカズカと入ってきて、締め切っていたカーテンを簡単に開けてしまう。

 蜂蜜色の髪が太陽に反射して、キラキラと輝く。気の強そうな顔立ちが、ボクのことを見つめている。


 そして、にっこりと笑うのだ。


「おはよう、ユキ。今日も良い天気だよ」


 ボクは半ば呆れた視線を彼女に向ける。そんなこと、彼女には無意味だってわかっているけど、それ以外に抵抗する術をボクは持っていない。


 彼女の名前はアーニャ。


 ボクにトイレの場所を教えてくれた大恩人である。

 そのときは感謝してもしきれないくらいだったが、今では出会わないほうがよかったと思えてくる。


「なに? またお風呂に入らなかったでしょう。女の子なんだから、ちゃんと入らなきゃダメじゃない」


 丸くなっているボクを見て、アーニャは呆れたようにため息をはいた。


「もうっ! せっかく毎日来てあげているんだから、少しは私の言うことを聞いたらどうなの?」


 そうなのだ。

 アーニャと知り合った日から、彼女は毎日ボクの部屋に入り浸っている。そして、口のうるさい母親のように、ボクを外に引き釣り出そうとしているんだ。引きこもった経験はないが、こんな世界で似たような状況になるなんて。


「まったく。お風呂嫌いな女の子なんて、聞いたことないわよ」


「…何度も言ってるよね。ボクは女の子じゃないんだよ」


 ボクが独り言のように呟くと、アーニャは呆れたようにジド目で睨んできただ。


「よくもまぁ、その外見で言えるわね。綺麗な黒い髪と綺麗な顔。それに可愛い声。どっからどう見ても、ユキは女の子じゃない」


「それでも、ボクは―」


 そこまで言ってボクは口をつぐんでしまう。

 アーニャの表情が険しくなっていたのだ。蜂蜜色の髪を逆立てて、目つきもどんどん鋭くなっていく。


「じゃあ何? ユキよりも胸が小さい私は、女の子ですらないっていうの!」


 アーニャが声を荒らげながら、ボクの胸に指をさす。恥ずかしくなってボクは反射的に自分の胸に手を当てた。


「どうせ私はツルペタよ! ブラジャーだって必要ないお子様体形よ! 下着屋に行っても、逆に合うサイズがないくらいにね! どうせユキだって、哀れな貧乳とでも思っているんでしょう。自分のナイスバディを見て優越感に浸っているんでしょう!」


「そんなこと思っていないよ!」


「とにかく! 今すぐ、お風呂に入りなさい! ユキみたいな可愛い子が埃まみれでいるなんて、私が許さないわ!」


 アーニャはボクに手を伸ばすと、パジャマのボタンを一つ一つ外し始めた。


「ちょっ、アーニャ! なにやってるの!」


「決まってるでしょう。服を脱がしてあげるのよ。こうでもしないと、ユキはお風呂にはいらないでしょ」


「わっ、わっ! ふ、服くらい自分で脱げるよ。ちょ、ちょっと。どこを触ってるの!」


「ユキが暴れるからでしょ。女の子同士なんだがら、気にしなくていいでしょ」


「わ、わかった! わかったから! お風呂に入ればいいんでしょう!」


 ボクはどうにかしてアーニャから逃げ出すと、そのままバスルームに駆け込んで扉を締める。


「ちゃんと、体の隅々まで洗ってくるのよ」


 扉越しにアーニャの声が聞こえる。ボクはため息をつきながら、バスタブにお湯を溜める。


 パジャマを脱いでいって、下着だけになったところで、ボクの手が止まった。


 バスルームの鏡が、今のボクを映していた。


「っ!」


 長い黒髪の少女が下着姿になっている。

 それだけでもドキドキするのに、それが自分の体だと思うと緊張してどうにかなってしまいそうだ。


「…はぁぁ」


 鏡の中の少女が、恥ずかしそうに少しずつ顔を赤らめていく。

 下着越しに触れた胸は、かすかな弾力と共に沈んでいく。下着を脱ぐという名目で、少ししだけ指を動かしてみる。


「…あ」


 そして、ゆっくりと下着越しに触れた。


「ねぇ、ユキ。朝食は紅茶とコーヒー、どっちが好き?」


「わわっ!」


 ボクは焦って両手を上に上げる。そして、あたふた慌てながら鏡に背中を向けた。バスルームの扉越しに、アーニャが声をかけていた。


「え、えーと、ボクは紅茶で」


「うん。わかった」


 それっきりアーニャの声は聞こえてこなかった。

 ボクは凄まじい脱力感に駆られて、思わずため息がもれてしまう。


「…ボクは何を考えているんだ。サッと脱いで、パッと風呂に入ろう」


 それからボクは鏡を背中に向けたまま、何も考えずに下着を脱いでいく。そして、バスタブに思いっきり飛び込んだ。


 久しぶりのお風呂は、自分でも信じられないくらい気持ちよかった。

 

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