第58話『…だから、姉さんに任せなさい』
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
どうしよう。
体が動かない。
さっきまで身体が燃えるように熱かったのに、今は何も感じない。指先の感覚もなくなってきて、意識がどんどん薄れていく。
「……あ、あぁ」
せめて彼女の名前を呼ぼうとするけど、声さえ絞り出せない。
サン・ジョルジョ教会の地下迷宮。その一番深い場所で、ボクは致命傷を浴びて動くことができなくなっていた。
「……ユキ」
頭上から、アーニャの声がする。
先ほどまで命の取り合いをしていたとは思えないほど、穏やかで慈しみのある声だった。返事をしようとするけど、喉の奥から、ひゅうとか細い音がするだけで、やはり声にならなかった。
……ボクは、負けた。
霞んでいく視界の中、先ほどの戦闘を振り返る。
思えば、最初から勝てる可能性なんてなかったのかもしれない。相手はアーニャで、世界の支配者だ。この世界の頂点に立つ人間で、その力や能力は他を軽く凌駕している。戦闘が成立していたように見えたのは、彼女が気づかないうちに手加減をしていたからだ。
アーニャのことを、ぶん殴りに来た?
ははっ、笑えてくる。
だって文字通り、ボクは彼女に指一本として触れることができなかったのだから。
「……ぁ」
あ、ダメだ。
もう、意識すら保てない。
体の感覚なんてとっくにないし、目にはもう何も映っていない。
……死ぬのかな?
ふいに込み上げてきた、恐怖という感覚。呼吸が止まり、全身が酸素を求めて悲鳴を上げる。トクン、トクン、といっていた心臓が弱くなっていって。
ついには、その鼓動を止めた。
……終わった。
ボクは最後の一瞬に、これまでのことを振り返っていた。走馬燈、といってもいい。メンバー一人一人の顔が思い浮かび、楽しかった記憶が脳裏を駆け巡る。その中でも、一番思い出していたことは、やはりアーニャの笑顔だった。
……ぁだ。
……ぃやだ。
このまま彼女を永遠に会えないなんて、それだけは絶対に嫌だっ!
死の間際に灯った想いは、もう誰にも届かない。
―そう思っていた。
『やれやれ。キミは最後まで世話を焼かせるねぇ』
その声はどこからでもなく、ボクの胸の内から聞こえてきた。誰の声だったか思い出す時間も与えず、声の主は続ける。
『本当はウチの出番なんて、無いほうがいいんだけどね。……まぁ、いいか。これが本当に最後さぁ。ウチも好きなようにやらせてもらうよ』
あぁ、思い出した。
この人の名前は―
『だから、姉さんに任せなさい』
ボクの意識が肉体から剥がれると同時に、あの人が、御影優奈が笑うのが見えた。
――◇――◇――◇――◇――◇――◇――
「……ばいばい」
私はそっとユキの傍から離れた。
土の剣の一太刀を背中に浴びて、彼女は動かなくなった。私は震える手で剣を握っていたが、ユキが動かなくなったと同時に、するりと指の隙間から落ちた。カランッ、と乾いた音を立てた土の剣は、光の粒になって消えていく。
もう、二度と目を覚ますことのない少女。
長い黒髪がとても綺麗で、意志の強そうな瞳が大好きだった。彼女と共に過ごせたこの一年は、本当に幸せだった。
できることなら、ずっと一緒にいたい。
ユキの一番近くで、彼女の幸せを願っていたい。この気持ちが溢れそうになるのを必死に堪えて、ユキに背中を向けた。
「……これで、良かったのよ」
私は自分に言い聞かせるように呟いた。
ユキは、……とても良い人だ。
彼女だけじゃない。他のメンバーだって、良い人ばかりだった。こんな私のために、ここまでしてくれるなんて。人生の最後に、これほど素晴らしい友達に囲まれるなんて、私はとても幸せな人間なのかもしれない。
でも、だからこそ。
彼らを現実に帰さなくちゃいけない。
私の自分勝手な行動で、この世界に引き留めていたんだ。これ以上、彼らの現実の人生を邪魔したくない。私のことを友達だといってくれた人たちの、足を引っ張るようなことだけは止めよう。
「……皆も、現実に帰さないと」
私は自分のやるべきことを思い出す。
この迷宮の上層で戦っている、ユキの仲間たち。彼女が倒れた今でも、勝利を信じて戦い続けている。そんな彼らに、……引導を渡してやらないと。
「……風の剣、シルフ」
私は『王の剣』を発動させて、魔法陣から風の剣を引き抜いた。
それは美しい日本刀で、羽のように重さを感じない。まるで私の心のようだ。これから友達を殺しにいくというのに、何の感情も湧いてこないのだから。
「……みんな、……いま行くよ」
抜き身の太刀を片手に持って、この礼拝堂のへ向かう。
コッ、コッ、と自分の足音がいやに大きく聞こえた。
「……ちゃんと現実に帰してあげるから、……だから、おとなしく、私に殺されてね」
この部屋のすぐ上層にいるのは、ミクとコトリちゃんか。
その次は、有栖と碓氷君。
そして、ゲンジ社長と副会長さん。最後に会長さんを手にかければ終わりだ。この世界で死を迎えた人たちは現実に戻り、私だけがこの世界に残る。あと二週間ほどで崩壊する、この世界に。
コッ、コッ、と足音がする。
友達を殺しに行く死神が、足音を鳴らして歩いていく。
……その時だ。
……何かの気配がして、私は歩みを止めた。
……いや、正確には。誰かのの気配がして立ち止まったのだ
「っう?!」
私は怖くなって、立ったまま振り返られなかった。
そんな。
ありえない。
だって、私の後ろには。
……死んでしまったユキしかいないのだから!
「そんなこと、あるわけがない」
私は呟きながら、その気配の正体を確かめることに躊躇した。
もし、ユキが生きていたとしたら。
死んだはずの彼女が生き返ったとしたら。
―私は、どうすればいいのだろう?
「ありえない。あるわけがない。だって、ユキの心臓は確かに止まっていた! 息だってしてなかった! それなのに生きているわけが―」
彼女が生きているかもしれないという恐怖に駆られて、私は後ろへと振り返った。
そして、そこに立っている黒髪の少女を見て。
心の底から凍りついてしまった。
……彼女は立っていた。
……まるで何事もなかったように。
「ひぃっ!」
私は声も出さずに立っているユキを見て、短い悲鳴を上げてしまった。
お化けか幽霊を見ている気分だった。
今では、自分の見間違いだと思いたいくらいだ。
だが、いくら現実を疑っても、目の前に彼女は立っている。
「……」
ユキは何も言わない。
黙ったまま静かに立ち尽くしている。
俯いていて顔はよく見えない。目をそらしたら消えているんじゃないか、そう思えるほど存在が希薄に感じた。その姿は、闇夜にひっそりと咲く、黒い百合のようだった。
「ゆ、ユキなの?」
思わず、私は声をかけてしまった。
ユキは死んだという事実と、目の前に彼女が立っているという現実に、理性が耐えられなかった。
怖くなった。
逃げ出したいほどだった。
彼女を殺した自分を呪いにきたのではないか、と真剣に考えたほどだ。
「くっ、……亡霊め」
しかし、その迷いもわずかな時間だけだった。
私は世界の支配者だ。この世界のことは何でも知っている。誰よりも強く、何よりも正しい。そんな私が、幽霊なんかに怯えている場合じゃない。
サンッ、と風の剣を構える。
突風のように駆け巡り、烈風のように切り裂く。この剣があれば、たとえ幽霊が相手だって倒してみせる!
「消えなさい! この化け物!」
叫ぶと同時に、強く地面を蹴りだした。
体が風に乗る。
まるで旋風のように駆けていき、一気に彼女の亡霊までの距離を詰めた。そして、一切の迷いもなく、真横から薙ぎ払ったのだ。
「はっ!」
サンッ、と空気が震えた。
振りぬかれた太刀が、空気と共に少女を切り裂いた。
絶対に当たる距離。
逃げられない間合い。
例え高速移動のスキルを使ったとしても、回避すら許さない時間であった。
……その、はずだった。
「なっ!?」
私は驚きに目を見開いた。
なぜなら、黒髪の少女は何も変わらず立っていたからだ。私の放った一撃を、ギリギリ避けられる場所に。
「……この」
ぎゅっ、と風の剣を握りなおす。
何かの間違いだ。この距離で、この速さで、私の攻撃が当たらないわけがない。
「やあっ! たあっ!」
息をつかせぬほどの二連撃。
これなら躱せはしない。そう思った。だが、彼女に刃が届くことはなかった。私の放つ一撃一撃を、ギリギリの間合いで見切っていくのだ。
なんで。
なんで当たらないの!?
「はぁ、はぁ」
苛立ちに我を忘れて、剣を振り回し過ぎてしまった。
息は荒くなって、羽のように軽い剣が重く感じる。
「く、このぉ!」
それでも力を振り絞って、ユキの姿をした少女の斬りかかった。
「もう、その姿を見せないで! だって、だって、……ユキは死んだんだからっ!」
ザンッ、と気迫をこめた白刃。
この空間さえ裂いてしまうほどの一閃は、しかし彼女には当たらない。
そして、逆に。
剣を振りぬいた腕を、彼女に捕まれてしまった。
「……そうだね。優紀は死んだ。でも、それはキミが殺したからじゃないかい?」
「ひいっ!?」
亡霊に捕まれて、私の背筋は凍りつく。
だけど、思っていたより、その少女の手は温かった。
「キミとは初めましてになるのかな? ……アーニャちゃん?」
私の腕をつかんだ幽霊は、親しい友達のように問いかけてきた。恐怖に震えそうになるのを必死に堪えて、私は答えた。
「あ、あなたは、ユキじゃないの?」
「うん。優紀の魂はここにはない。この体にいるのは、……ウチだけさぁ」
にやっ、と彼女が笑った。
その笑みは、ずっと見てきたユキのものとは明らかに違った。
「……ウチの名前は、御影優奈。二年前に死んだ優紀の姉だよ」
「ユキの、お姉さん?」
「うん、初めまして。これからよろしくね」
そう言って、悪戯好きの子供のように笑う。
だが、彼女はそのまま私の手首を捻ると、態勢が崩れたところを狙って大筒の銃を突きつけたのだ。
「えっ?」
「そして、……これで最後だ」
優奈と名乗った彼女は、敵意のない目で引鉄を引いたー




