第36話「地下にある、もうひとつのヴィクトリア」
「どういうこと、ですの?」
有栖が、碓氷君の腕の中で呟く。
ボクも茫然として思ったことをそのまま口に出してしまう。
「なんで、ヴィクトリアの街がこんなところに。……もしかして、地上に出ちゃったとか?」
「いや、それはないだろう」
ミクが冷静に諭す。
「あたしたちは地下を進んできたはずでしょ? それに地上にあるヴィクトリアは、今頃は会長の手によって戦闘地帯に変わっているんじゃない」
それもそうだ。
あの会長が押し寄せるモンスターの大群と戦っていて、街の景観が原型を留めているなんてありえない。
「だったら、ここはどこなの?」
「そこまではわからないよ」
ミクが溜息まじりに、扉の向こうに広がっている街並みを見る。
美しい街だ。
特に石畳を敷き詰められたサンマルコ広場は圧巻と言ってもいい。何より、その広場にたくさんの人たちが行きかっているのが、ちょっとだけ懐かしくも感じる。地上のヴィクトリアには、もう住人の姿は見えない。
「姉さま、空をご覧になってください」
有栖が小さな手でこの街に上空を指差す。
何の変わりもない青空だ、……と思ったら何か違う。薄らとだが四方に線みたいなものが入っている。
「あれは、……天井か?」
ボクの代わりにミクが答える。
「えぇ、そうだと思います。そして、街の向こう側にも」
「あ、縦に線が入っている」
ということは壁があるのか。
どうやら、この街並みはどこまでも続いているものではなく、大きな空間に作られた箱庭みたいなものなのだろう。
「それにしても、なんでこんなものを作ったのでしょうか?」
「……アーニャの趣味だろ」
ミクが苦虫を噛んだような表情になる。
彼女の言うことには納得できる重みがあった。確かに、この風景は思い出がたくさんある。それもいい思い出ばかりだ。
「あの頃に戻りたい。アーニャは、そう思っているのかな?」
ボクが小さな声で言うと、隣の有栖が答える。
「過去を振り返ってばかりでは、未来へは進めません。そして、楽しい思い出に囚われているのでは、これからを生きることもできないでしょう。私たちは、今を生きているんです」
有栖の強い言葉に、ボクは静かに頷く。
そうだ。だからこそ、ボクたちはアーニャの元へと向かっているんだ。彼女にボクたちの言葉を届けるために。
「だったら、早く先へ行こう」
「あ、ちょっと待って―」
扉の奥へと一歩踏み出したミクを、ボクが慌てて止めようとする。
道中の黒い影がいた部屋のように、何があるか分からない。この部屋に一歩入ったとたん、街の住民たちが一斉に襲い掛かってくるかもしれない。
だが、そんな心配は必要なかった。
ミクは平然と、この部屋に広がるサンマルコ広場を横切っていく。
「姉さま。私たちも行きましょう」
「……うん、そうだね」
ボクとコトリ、そして有栖を抱きかかえた碓氷君が部屋に入っていく。
その時に聞こえてきたのは、この街の騒めき。たくさんの人が行きかっていて、いつもの日常を楽しんでいるようだ。道端に風呂敷を広げた露天商。大きな荷台を引っ張っている行商人。今日の晩御飯に悩む主婦。ここに広がっているのは、穏やかで幸せな時間だ。
そんな人たちの網目を縫って、真っ直ぐ広場を抜けていこうとする。
「……ねぇ、有栖。この街が幻術ってことはないの?」
「私もそれを考えましたが、どうやら違うみたいですわ。ここにある風景は人間たちは、確かに実在するものです」
それはそれで怖いものがある。
ボクは歩くたびに肩をぶつけながら、彼らが魂を持たないNPCであることを悟っていた。そうでなくては、こんな閉鎖された空間で平静を装ってなどいられないだろう。
「お、広場の出口が見えてきた」
ミクが宮殿の辺りを指さす。
人込みが激しくて、今のボクの身長では先が見えないけど、たしかにミクの進むほうに道があったはずだ。
「むぅ~、息が詰まる~」
「姉さま、しっかりしてください」
あー、頭がくらくらしてきた。こんな時だけは女の子になった自分が恨めしい。
胸のあたりに手を置いて、人込みに負けないように足元に力を入れる。そして、その勢いのまま、サンマルコ広場から何とか脱出した。
「ぷはぁ! もう、なんだっていうんだよ。髪は引っ張られるし、靴は踏まれるし! ちょっとはこっちのことも考えてよね!」
「……姉さま。女の子言葉になっています」
おっと、いけない。
やっぱり感情が溢れると、自然と口調が変わってしまうらしい。
ボクはそそくさと身なりを整えると、仲間が皆いることを確認する。ミクや碓氷君に抱かれた有栖は平気そうだけど、ボクよりも小柄なコトリは大変だったみたいだ。髪の毛はぐちゃぐちゃになって、尻尾の先がバサバサになっている。
コトリは広場のほうへ振り返ると、とても小さな声で呟く。
「……ちっ、このゴミ共が。召喚魔法で焼き払ってやろうか」
それだけはやめて。
何の罪のない人たちを蹂躙する罪悪感と、再召喚時間が必要な召喚魔法をこんなところで使うべきではないという現実的な考えが、ボクの頭を過ぎる。ちなみに、彼女が召喚しようとしているラグナロクの再召喚時間は40時間だ。
「ほら、そんなこと言ってないで先に進もう―」
ミクが皆を促しながら、歩き出そうとする。
その時だ。
進む先のほうを見ていたミクが、驚愕に満ちた声を上げた。
「……なんで、お前がいるんだ?」
ミクが何を言っているのか分からなかった。
だが、彼女と同じ方を見て、ボクも驚きのあまり言葉を失いそうになる。
「な、なんで、あなたが!?」
その言葉は、広場の雑踏に負けないくらい、辺りに響き渡っていた。
「随分昔に、知人から質問されたことがあります。夢を見続けて毎日を生きることと、眠って幸せな夢を見ているのでは、どちらがより幸せなのか、とね」
とても穏やかで、静かな口調だった。
「その時、私はこう答えました。そんな在りもしないことを考えるなら、その時間をもっと有意義に使いたまえ。そのほうがいくらかマシだ」
コツ、コツ、と石畳に革靴が鳴る。
灰色の髪と、同じような色の瞳。頭部からは山羊を連想させる角が生えていて、ちょうど耳のあたりでくるりと回っている。そして、彼の手には漆黒のステッキ。『有翼の獅子』というヴィクトリアの紋章が刻まれていた。
「お久しぶりですね、ユキ殿」
「……どうして」
ボクは彼に声をかけられてもなお、この状況を理解することができなかった。
なぜ、あなたが!?
NPCであるはずのあなたが、なぜここに!?




