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第28話「アリーシャ・マリ・ドージェ・ヴィクトリア」

――◇――◇――◇――◇――◇――◇―― 


 深夜。

 アーニャが連れていった場所は、古びた教会跡だった。


 放置されて何年も経つのだろう。ヒビだらけの壁に、朽ちた蔦が絡み付いている。アーニャは中には入らず、教会前の階段に座った。


「ユキ、隣に座って」


 ボクはアーニャの言うとおりに、彼女の隣に座る。

 そして、そこから見えるの景色に

 …思わず言葉を失った。


「わぁ」


「どう、綺麗でしょう」


「うん。すごく綺麗…」


 ボクたちが座っている場所からは、夜のヴィクトリアが広がっていた。


 煌びやかな街灯に彩られたサンマルコ広場。

 大運河に沿って、いつくもの松明が揺らめいている。運河に掛かる光の橋は、商業区のリアルト橋だろうか。視界に映る全てのものが、美しく輝いている。


 …美しすぎて、涙が出そうだった。


「ここは、私の特別な場所なんだ。ヴィクトリアの夜景が一望できるでしょう」


「…うん。すごい綺麗だ」


『海洋国家ヴィクトリア』

 オンラインゲームであった《カナル・グランデ》も、美しい町並みだとは思っていたが、ここまでだとは思わなかった。


 数年前。この国王が倒れて、その後に王女も行方不明になっている。

 その頃から、この国は荒れ始めたらしい。警備隊は機能しなくなり、犯罪は増えている。そんなことを言ったのは、アーニャだった。


 アーニャ。

 彼女の名前は、アーニャ・マリ・ドージェ・ヴィクトリア。

 この国と同じ名前を持つものが、そう何人もいるとは思えない。


 そして、彼女の部屋には。

 この国の紋章である翼をもつ獅子があった。


 王族の人間にしか許されない、有翼の獅子の紋章。ここは行き場を失った人たちが辿りつく『忘れられた島』。あの部屋は、アーニャを匿うために用意された部屋だったのではないのだろうか?


「この国の王女様は、生きているの?」


「さぁ。生きていたとしても、二度と人前には姿を現さないんじゃない?」


 ボクの問いに、アーニャは他人事のように言った。

 どこか、哀しそうな目をして。


「…昼間の警備隊たち。連中は誰かを捜しているようだった。そして、君のことを執拗に連れていこうとしていた。まるで、…君が何者なのか、知っているみたいに」


「……」


 アーニャは答えない。

 静かに、目の前の美しい風景に想いを馳せている。


 だから、ボクは。

 その問いを、彼女にぶつけた。


「アーニャ。君は、…この国の王女様なの?」


 穏やかな風が、彼女の頬を撫でる。

 綺麗な蜂蜜色の髪がなびき、アーニャの横顔を露わにする。


 彼女は、…困ったように笑っていた。


「ユキには、わかっちゃうんだ。すごいね、本当にすごいよ」 


 アーニャが小さな声で答えた。

 ボクは少し間を置いて、彼女の方を見る。


「ふふ、こんなことを言っても信じられないと思うけど。私の生まれた場所はね、この国で一番大きな建物。ヴィクトリア宮殿だったんだよ」


 彼女の金色の瞳が、ボクを見る。

 その瞳には、わずかに。涙が浮かんでいた。


「…ごめんね、ユキ。私は嘘をついてた。…私の本当の名前は、アリーシャ・マリ・ドージェ・ヴィクトリア」


「本当の、名前?」


「そう。ドージェとは『統治者』、ヴィクトリアとは『この国』を意味しているの。私はね、ユキ。数年前に亡くなった前国王、アーサー・ヴィクトリアの一人娘。…次期女王になるはずだった人間」


 アーニャが目をそらす。

 煌びやかな町並みを見ながら、囁くように言う。


「…でも、それだけなんだ。元・王女だっただけで、それ以外には何もない。今は、忘れられた島に住んでいる、ただの女の子よ」


 涼しげな風がボクの頬を撫で、長い髪を舞い上がらせる。


「…でも、この国は。アーニャを放っておかなかった。君がいなくなったその日から、警備隊が君のことを捜し続けている」


「ユキは頭がいいね。その通りだよ」


 アーニャは体育座りをするように両膝を抱える。


「私はね、お父様とは険悪の関係だったの。いつも厳しくて、大きな声で怒鳴りつけて。お母様も世間体にしか興味のない人でさ。周囲の大人たちは、誰も信用できなかった。…私の味方は、おじいちゃんだけだった」


「おじいちゃん?」


「うん。現実に耐え切れなくて、自分の部屋で引きこもっている時だって。おじいちゃんだけは私の味方でいてくれた。優しい言葉をかけてくれた。楽しいことをいっぱい教えてくれた」


 そこまで言って、アーニャは。

 辛そうに目を閉じる。


「でも、お父様はそれを良くは思わなかったの。そんな遊び、将来には何の役にも立たない。もっと立派な人間になりなさい。それから、おじいちゃんとも会えなくなって、私は本当に一人になってしまった」


 そして、彼女は。

 顔を上げる。涙を浮かべたまま、この国を、この世界を見渡す。


「だから、私は逃げ出した! あんな場所から逃げ出して、自由になりたかったの! 宮殿には私の味方はいなかったけど、執事のハーメルンだけが手を貸してくれた。お父様の容態が悪化した混乱に乗じて、あの宮殿を抜け出したんだ」


 くすり、と彼女は笑う。

 純粋無垢な彼女には似合わない、自分を嘲笑っているような笑みだった。


 …無理をしているのが、すぐにわかった。


「はは、幻滅したでしょ? 私は自分のためだけに、あの宮殿を抜け出した。お父様が病に倒れたときだって、見舞いにもいかなかった。…でも、お父様が亡くなってからは、元老院の人間がこの国を操ろうとした。そのためには、国王の一人娘である私が、どうしても邪魔だったのよ」


 アーニャがこうして隠れるように暮らしているのは、そんな理由があったのか。


「この忘れられた島の人たちは、私のことを知っている。知っていて、私を匿ってくれている。『いつか、本当に大切なものが見つかるときまで。貴女をこの島で匿います』って。脱走に手を貸してくれた執事のハーメルンが、この島の人たちを説得してくれたの」


 本当に大切なもの?

 正直、ボクにはそれが何なのかわからなかった。けれども、彼女が抱えている葛藤や苦悩は、ちょっとだけわかる気がした。


 …ボクも、一人になった過去があるから。

 …突然の交通事故で、たった一人の家族を失った。時間が経って、傷跡にかさぶたができても。心の傷は、いつだって不安にさせる。


 それでも、ボクは。

 彼らと出会った。ジン、御櫛笥さん、コトリ。そして、『十人委員会』の仲間たち。彼らがいたから、ボクは心の孤独を抱えながらも。


 こうして、笑うことができるのだ。


 そして、今のボクなら。

 彼女を救えるかもしれない。そんなことを本気で思ってしまっていた。


「アーニャ。君は一人じゃないよ」


「え?」


「ボクも一人だった。でも、友達がいた。仲間ができた。それからは本当に楽しい日々が始まった。大切なことはね、アーニャ。一人で考えることじゃなくて、誰かに話を聞いてもらうことだ」


 愚痴を聞いてもらえる。

 それだけで解決する問題だってある。


「今度、ボクの仲間を紹介するよ。どれも一筋縄じゃいかないクセ者ばかりだけどさ。笑って、泣いて、一緒に騒げば。きっと、楽しいことが待っている」


 だから、とボクは続ける。


「あまり自分を責めちゃダメだよ。君の選択が正しいものだったのかは、ボクにはわからないけど。その結果、ボクたちはこうして出会えた。それは、とても嬉しいことなんだから」


「…ユキ」


 アーニャがすがるように手を伸ばす。

 子供のように不安で、震えながら伸ばされた、その手を。


 ボクは、しっかりと抱きとめた。


「アーニャ。君はひとりじゃない。ボクがいる。だから、何か辛いことがあったら遠慮なく言ってほしい」


 君の助けになりたいんだから。

 そう言って握りしめる、その手を。彼女は涙を流しながら笑った。


「ユキ、ありがとう。一目惚れした人が、私が好きになった人がユキで、本当によかった…」


 彼女は笑う。

 女の子の小さな手に、救いを求めるように。


 …だけど、ボクは気づかなかった。

 …彼女の抱えている闇は、想像以上に深く。決して、ボク一人では救えるはずもなかったことに。

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