第6話「最後の戦いの前に③(御櫛笥青葉)」
「将来のこと? そんなこと、あたしは全然考えてないよ」
正午過ぎ。
多くの人で賑わうリアルト橋で、ミクが気だるそうに答えた。大理石の欄干に頬杖を立てて、ゆっくりと流れる大運河をじっと眺めている。
そんな彼女のことを、ボクも欄干を背に寄りかかって見ていた。燃えるように真っ赤な髪は、ゆったりとポニーテールに縛ってある。この世界に来た頃はショートヘアーだったので、ミクの髪も随分と伸びたものだ。
「あたしって、中学の頃に怪我したじゃない? 医者からは、走ることを禁止されてたし。元の世界に戻っても、すぐには動ける体じゃないと思うんだよね」
はぁ、と白い息をはく。
今日は雪は降っていないが、それでも身に染みる寒さだった。
「だから、まずはリハビリだよね。自分の足で立って、自由に歩けるようになってから、その先のことを考えようと思ってる」
「陸上はしないの?」
「ははっ、どうかな? 体を動かすことは好きだけど。やっぱり、走ったり跳んだりすることはできないと思う。だから、全力で体を動かせるのは、この世界で最後だと思っているよ」
ミクの表情に暗いものはない。
活発な彼女らしく、迷いのない澄み切った目をしていた。
「……それでも、元の世界に戻りたいと思っている?」
「あー、どうかな。正直に言っちゃうと、どっちでもいいかなー。向こうの世界でやりたいことがあるわけでもないし。こっちの世界がずっと続くのなら、こっちで生きていくのも悪くない」
その返答は、ボクにとっても意外なものだった。
元の世界に帰ることだけが、正しい答えではない。彼女は暗にそう言っていた。
「でもね。ユキや他の連中のことを考えると、絶対に元の世界に戻らなくちゃな、って気分にもなってくる。不思議なもんさ。自分のことなんてどうでもいいのに、仲間のことになると黙って見過ごすことはできないなんて」
ははは、とミクは苦笑する。
ボクもやんわりと笑みを浮かべる。この世界に来たばっかりの頃と比べると、ミクも随分と変わった。仲間たちとの間に溝と感じて、一緒にいることに葛藤していた頃の彼女は、もういない。
「まっ、これからのことはユキに任せるよ。あんたが元の世界に戻るって決めたなら、あたしもそれに従うよ。もし、この世界に残りたいって言うなら―」
「言うなら?」
彼女の言葉を続きを聞きたくて、ボクは催促するように聞き返す。
するとミクは、顔だけこちらを向いて。にかっと笑った。
「無理やりにでも、元の世界に戻りたいって言わせてやる。あんたは元の世界に戻るべき人間だからな」
その笑顔は、どこか凄みのある笑みだった。
「それに、コトリも言っていたじゃない。『誰が助けを求めているのか、ちゃんと考えてほしい』ってさ」
ミクが言葉を続ける。
「あれって、アーニャのことでしょ? あいつは世界の支配者になって、この世界を作った。そして、あたしたちを連れてきた。助けを求めるために」
「……」
ボクは黙って、ミクの言うことに耳を傾けた。
「アーニャはきっと、怖いんだ」
「怖い?」
「あぁ。あいつの正体が何なのかはわからない。だけど、ずっと一緒に暮らしてきたんだ。あいつが何を感じてきたのか、なんとなくわかる気がする」
アーニャと暮らしていたころを思い出しているのか。ミクは遠くを見ながら目を細める。
「……ただ、怖いだけなんだ。このままじゃダメなことはわかっている。でも、自分ひとりじゃ何もできない。誰かに背中を押してもらいたい。励ましてもらいたいし、逃げ出しそうな自分を叱ってほしい。……そんなことを考えているんじゃないかな?」
ミクの問いかけるような言葉に、ボクは何も言えなかった。
アーニャが助けを求めていることにさえ、自分では気がつかなかった。そんな自分が恥ずかしくなるけど、後悔なんかしていられない。頭を軽く振って、弱くなりそうな自分の心を追い出す。
「……アーニャは。どうして、そんなに苦しんでいるのかな?」
「さぁな。そればっかりは、本人が話さないとわからないさ」
ミクが肩をすくめながら答える
「でも、これだけはハッキリしている。あいつが助けを求めた相手に間違いはない。だってそいつは、あたしたちを一人残らず救ってきた人間なんだからな」
そういって、ミクは真剣な目でボクのことを見てくる。
その視線の強さに、思わず目を反らしてしまうほどだった。
「……ボクは、そんな人間じゃないよ」
だけどね、と続ける。
「やれることは、やってみるつもりだ。アーニャのことは助ける。もちろん、皆も元の世界に返す。誰も悲しまないように全力で頑張っていくよ」
「よし、よく言った! さすがはあたしの惚れた男だよ!」
ばんっ、とミクが背中を叩く。
女の子の姿なのに、男と言われるのも変な気がするけど。元の世界に戻ったときのことを考えると、今のうちに慣れておいたほうがいいのかもしれない。
そんなことを考えていると、ミクが思い出したかのように口を開いた。
「あー、そうそう。そういえば言い忘れてたけど」
まるで何でもないことかのように言った。
「今は棚上げにしているけど、あたしはユキのことが好きだから。あんたのことを誰にも渡すつもりはないよ」
「え?」
「だって、そうでしょ? こんなにいい男を他のやつに譲るわけがないじゃない。……まぁ、女の子でも譲らないんだけどね」
頬を赤らめながら、ぼそぼそと小声で呟く。
「……そもそも、あんたたちのせいじゃない。こっちの世界に来るまではノーマルだったのに、ユキとアーニャと暮らしていたせいで―」
「……そんなこと言われても」
「なによ。自分は悪くないっていうの? 最近じゃ、女の子にしか反応しないんだから。ちゃんと責任をとってよね」
不貞腐れるように唇を尖らせる。
どう答えたらいいのか戸惑っていると、ふいにミクが笑い出した。
「ぷっ、ははっ。そういうことだからさ。もし、アーニャがあたしたちと同じ世界の人間なら、元の世界に戻ってから勝負だからね」
そう言って、悪戯な笑みを浮かべる。
「逃げちゃダメだよ、未来の旦那さん」
ばん、と人差し指で胸のあたりを撃つ真似をする
そんな彼女の仕草にさえ、ボクはわかりやすく動揺してしまっていた。




