第43話「それは、とても綺麗な蜂蜜色だった」
「あれは、…なんだ?」
ジンが呟く。
本棚に叩きつけられて、わずかに形を崩している黒い影。
碓氷の最大魔法が直撃しても、凍りつくことすらない。不撓不屈の狂戦士。あのゲンジさえ氷像にした魔法を浴びて無傷であった。
「…モンスター、…ではありませんわね」
「というか、生き物かどうかすら怪しいッスよ!」
快司は叫ぶと、瞬時に臨戦態勢に入る。
先ほどまで持っていた小型のナイフを左手に、背中に隠していたダガーを取り出して右手に。軽く腰を落としていつでも飛び出せるように構える。
「ちっ!」
ジンも遅れて、戦闘の姿勢になる。
バチンッ、と白い雷が迸り、銀色の鬣が刃物のように鋭くなる。銀郎族の最高スキル『銀狼モード』の準備へと入った。
「涼太!」
「…」
有栖はすぐさま碓氷の影に隠れる。魔法の使用を制限されている彼女は戦闘要員になりえない。そして、最後に十人委員会のギルドマスター。天羽凛だが…
「…ひっ!」
体を竦ませて動けずにいた。
突然の襲撃に頭が追いつけず、短い呼吸を何度も繰り返している。
「…はっ、はっ!」
胸元を握り締めて、苦しそうな表情を浮かべる。
「おい、会長!」
「大丈夫ですの!?」
仲間達の声は、…凛に届かない。
正体不明の『それ』に目を見開かせて、どんどん過呼吸へと陥っていく。
…パニック障害。
急激な変化に心がついていけず、自律神経が息を吸えないと誤認してしまう。突然の襲撃を前にして、彼女の体は彼女自身の命令に背いていた。
…わかっているのに。
…膝をついている時ではないと、わかっているのに。
…体が、言うことを聞いてくれない。
天羽凛の心の弱さが、浮き彫りになっていた。
「おい、かいちょー」
ジンが手を差し出すが、その声は届かない。
「…はっ、はっ、はっ!」
凛の表情が更に険しくなる。
呼吸を頻回にしすぎたせいで、指先がピクピクと痙攣を始める。
脂汗を額に滲ませながら、胸元を掻き毟る。
視界の端にいる影が、焦りに拍車をかける。
「…はっ、はっ。…ゆうな、…たすけて」
凛が諦めたように目を閉じようとする。
…その時だった。
「凛っ! オレ達を見ろ! お前の傍には誰がいる!」
鋭い男の声が、この部屋に響いた。
「…え」
「…いま、誰が」
ジンと有栖が困惑する。
そして、声のしたほうへと視線を向けた。
メンバーの先頭に立つ、お調子者のトリックスターの背中を。…岩崎快司が、凛に向かって叱咤していた。
「…凛。ゆっくり呼吸をしろ。焦らなくていい。今は自分のことだけを考えろ。いつもの紙袋は持っているな。動悸や耳鳴りがするなら紙袋で呼吸をしろ、…ッスよ」
快司が背中で語る。
言葉遣いだけはいつものように戻ってたが、その話し方は普段みられないものだった。
「…はぁ、はぁ」
「そうッス、その調子。落ち着いたら、よく周りを見るッスよ。ここにはジン先輩や碓氷君みたいに、とても頼りになる人がいる。…だから無理して頑張る必要はないッスよ」
快司はそれだけ言うと、ナイフを持った左手で器用に頭をかく。
出すぎた真似をした、と言っているようだった。
「…さて、ここで皆さんに提案があるッス」
くるり、と振り返って、いつもの人懐っこい笑みを浮かべる。
「会長さんもこんな感じですし、ここは戦闘を避けません?」
「…は?」
「戦略的撤退ッスよ。それに、この部屋は世界の支配者のテリトリー。ここで戦っても、あれに勝ち目はないッス」
「…って、おいおい! あの黒い影は世界の支配者の差し金なのか!?」
なんで、そんなことを知っている!?
ジンは驚いたように、快司へと問いただす。
「おっと、ちょっと喋りすぎたッスね」
てへ、と言いながら舌を出す。
そのわざとらしい行動に、ジンはもう何も言わなかった。
「はぁ~、わかったよ。…碓氷、殿を頼めるか?」
「…」
碓氷は黙ったまま頷き、詠唱の準備に入る。
「それじゃ、碓氷先輩の詠唱が終わり次第、行動開始ってことで。…ほら、会長さんも立って」
「…はぁ、はぁ。…でも私は―」
凛が弱々しく言葉を紡ぐ。
だが、快司がその先を言うことを許さない。
「御影優奈はもういない。会長さんだって、わかっているッスよね」
「っ!」
びくっ、と肩を震わせる。
「さぁ、立つッス。今、自分ができることを精一杯やる。反省するのは、その後からでいいッスよ」
そう言って、快司が凛の手を引く。
一瞬、どちらが年上なのかわからなくなってしまう。
「…」
「…準備できましたわ」
碓氷の代わりに、有栖がメンバーに声をかける。
彼の足元には、青白い魔法陣が展開している。
「じゃ、お願いするッス」
「…」
碓氷涼太はわずかに頷いて、手にした大型の魔導杖を前に突き出す。
まだ凍りついた本棚のそばにいる『それ』に向かって、攻撃魔法を発動させた。
「…」
足元に輝く青白い魔法陣。
だが、それ1つだけではない。いくつもの魔方陣が空中に描かれて、その全てに氷の塊が形成されている。その数、20や30では足りない。まさしく数え切れないほどの魔方陣が、宙を埋め尽くしていた。【多重詠唱】と【並列詠唱】の複合スキル【無限詠唱】。多種多様の魔法を同時に、複数使用する固有スキルを前面に押し出す。
「…」
だが、こちらが攻撃を仕掛けよとする瞬間。『それ』もまた、動き始める。部分的に体を平面に変えて、滑るように迫ってくる。
「よし、皆さん。走るッス!」
碓氷が黒い影に氷魔法を浴びせかけると同時に、快司が踵を返した。ナイフとダガーと背中に戻しながら、右手には凛の手を。左手には世界の支配者の日記を持って、走り出す。
「ちっ、仕方ねぇ!」
その後を、ジンが追いかける。
背後では、碓氷涼太の氷魔法による苛烈な迎撃が行われていた。氷の槍や剣、斧といったものが次々に『それ』に突き刺さる。効果的なダメージは見られないものの、氷の飛礫が貫くたびに、わずかに後ろへと仰け反っている。
「…っ」
一撃の威力に頼らず、手数の多さで押し切る。
最後の魔法を撃ち終わった碓氷は、有栖のことを抱きかかえて走り出す。
氷塵と氷の破片が舞う書庫を。
5人のメンバーが全力で逃げていた。
…敗走。
そんな考えは、メンバーの誰も持っていない。
ただひたすら安全な場所を目指して、走り続ける。
本棚の部屋を出て、白い病室を通り過ぎる。
その先の白い廊下を我先と駆けながら、そのままの勢いでヴィクトリア宮殿の廊下へと飛び出した。
「うおぉぉぉぉッ!」
「ぬあぁぁッス!」
「ひぃぃぃッ!」
奇妙としか呼べない叫び声を上げて、それでもなお走り続けていく。
「…」
どれほど時間が経過しただろうか。
凍りついた本棚と漫画の残骸が散らばる部屋に、とある人物が立っていた。
荒れ果ててしまった書庫を見ても感情を沸かせることなく、静かにその部屋の隅にある机を目指す。そのすぐ傍には、先ほどジンたちと交戦した『影』が、主を守るように侍っていた。
「…」
その人物は目を細めながら、机の引き出しを開ける。
そして、そこに入っているはずの日記がないことに気がついた。
「…かえして」
ぽつり、と呟く。
今にも泣き出してしまいそうな声で呟きながら、卓上のキーボードに両手を押し付ける。
風もないのに、その髪がふわりと揺れた。
それは、とても綺麗な。
…蜂蜜色の髪であった。




