第1話「『家なき子』の臭い」
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小学校の帰り道。
夕陽。
地面に伸びる影。
遠くから聞こえてくる蜩の鳴き声。
俺は、この時間が嫌いだった。
一歩、一歩。
自分の足で家に帰るのが、すごく嫌だったのが記憶に残っている。
家に帰っても、いいことなんて1つもない。
煙草の臭い。
床に転がるビールの空き缶。
酒を飲んでは暴力を振るう父親。そして、母親ではない女を連れ込んでは、散らかったリビングのソファで絡み合うのだ。
…気持ち悪かった。
…人間が、気持ち悪かった。
幼心から、自分は必要のない人間だということは気がついていた。
望まれずに生まれてきた子供。
育児などできない若い母親は、現実から逃げ出して。
子供など育てる気のない父親は、俺の存在を煙たがった。
酒を飲んでは喚き。
気に入らなければ酒瓶で殴り。
情交の後始末までやらされる。
…そんな、毎日だった。
「あはは。じゃあ、おれんちでゲームしようぜ」
「いいぜ。おれ、まけねーし」
「おれもまぜてよー」
遠くから聞こえてくる同級生の声。
彼らは家に帰ったら、ゲームとやらで遊ぶらしい。そして、お腹がすくまで遊んだら、母親の作った暖かいご飯を食べて、テレビを見て、風呂に入って、布団で寝るのだろう。
…羨ましいとは思わない。
…羨ましいと思えるほどの幸せに、触れたことがないから。不幸しか知らない人間は、自分が不幸であることに気づかない。
頭を低くして、淡々と毎日を消化していく。
不幸ではなかった。
ただ、不自由だった。
背中を丸めながら近くのスーパーに立ち寄っていく。
そして、ポケットの中のわずかな小銭を数えては、買えるものはないのかと探し歩く。
あんぱんは105円。
コロッケは82円。
大好きなチョコ棒は21円。
手のひらにあるのは、10円玉と1円玉がふたつ。
…お金が、足りなかった。
結局、何も買うことができずスーパーから出る。ぐーっという空腹が妬ましかった。
夕陽。
伸びる影。
蜩の鳴き声。
俺はこの時間が嫌いだった。
どうしようもなく、泣きたくなるから。
…泣いても無駄だ。
…意味のないことは、必要ないことだ。
この頃から、俺の考え方は屈折していて、自分に必要なことか必要ないことなのか考えるようになっていた。
それこそが、俺の生きるための知恵だったのだ。
家への帰り道。
いつものように、背中を丸めて歩いていた。
…それは偶然だったのか?
…今にしても、それが偶然なのか必然なのか判断できない。
…背中を丸めて歩く俺に。
…話しかけてくる奴がいたのだ。
「ねぇ。もしかして、おなじクラスの『じんのうち』くん?」
俺は驚いて、声のするほうへ振り向いた。
もじもじとした両手に、肩口まで伸びた髪。最初は女子かなと思ったが、ランドセルの色で男子だと判別できた。後ろにいるのは、こいつの姉だろうか。何歳か年上の女子が、興味津々といった感じで覗き込んでくる。
「あれ? 優紀の友達?」
「うん! おなじクラスなの」
その女みたいな男子は、俺のことを見てはにこにこと笑うのだった。
「ねぇ、じんのうちくん。いっしょにかえらない?」
正直、その笑顔が煩わしいと感じた。
だが自分でも不思議なくらい。
すんなりと、そいつのことを受け入れてしまった。
自分と同じ臭いを感じたのかもしれない。
『家なき子』の臭いを―




