第12話「ちょっと、お花を摘みに」
「ちょっと、疲れたね」
「そうだね。ボクも疲れたよ」
リアルト橋を散策しただけで、ボクの足は棒のようになっていた。慣れていないメイド服のせいもあるかもしれない。少し休憩したいところだった。
「どこか、カフェでお茶にしない?」
「そうね。じゃあ、こっちに来て。顔なじみの店があるから」
アーニャはそう言ってボクの手を引っ張る。
橋を渡りきったところに、お洒落なカフェがあった。店内にも座席はあるが、店の外にあるテラス席にアーニャが座る。ここからだと、大運河が一望できる特等席だった。
「ユキは何にする?」
「じゃあ、ボクはコーヒー。ブラックでお願い」
「いいの? ここのコーヒーは苦いわよ」
「大丈夫だよ」
ボクは笑って答える。
コーヒーはブラック派だ。砂糖もミルクもいらない。あの芳醇な香りと、口に広がる苦味がいいのだ。
アーニャは心配そうにボクのことを見ていたが、そのまま女性店員に注文する。しばらくすると、香り高いコーヒーが目の前に差し出された。
「良い香り。いただきます」
ボクが芳醇な香りを楽しみつつ、真っ黒なコーヒーを口に含んだ。
…そして、吐き出しそうになった。
「ぶっ、むぐっ!」
口に手を当てて、むせ込むのをなんとか我慢する。
…に、苦すぎる!
予想以上の苦さに、ボクは目を白黒させていた。
「ほらぁー。だから言ったじゃない」
アーニャが呆れたような目でボクを見てくる。
「この店のコーヒーは苦いので有名なのよ。女の子なんだから、そんな苦いものを飲まなくても」
「なっ!?」
…そんなはずはない。
ボクの頭は混乱していた。
確かに、この店のコーヒーは苦いのかもしれない。
でも、だからと言って。こんな飲めないほど苦いわけがない。口の中に残る苦味が、いまだにボクの味覚を苦しめている。
「ほらっ。砂糖とミルクを貰ってきたから。これで飲めるでしょ」
そう言って、コーヒーにミルクと砂糖を大量に入れていく。
「あっ、そんなに入れたら…」
「いいのよ。女の子にとってブラックコーヒーなんて悪魔の飲み物よ。こうやって甘くしないと」
アーニャがスプーンでくるくる回していると、黒かったコーヒーが乳白色に染まっていく。
「はい、どうぞ」
差し出された白いコーヒーを恐る恐る口にふくむ。
「…あっ、おいしい」
「でしょ。女の子の半分は、甘いものでできているの。だから、甘いものを食べれば幸せになれるのよ」
アーニャは女性店員に声をかけて、二人分のケーキを注文する。目の前に出される甘そうなチョコレートケーキ。甘いものが苦手なボクだったが、なぜか手を伸ばさずにはいられなかった。
「…はむ」
舌の上でとろけるケーキの食感。
口の中に広がる甘さで、ほっぺたがほころぶ。
「あまーい」
思わず手を頬に当ててしまう。
アーニャの言うとおりだった。甘いものを食べただけで幸せになってしまう。甘いものが好きになったり、可愛い小物に興味を惹かれたり、ボクの心は少しずつ変わってきているようだった。
まるで女の子のように。
「…よかった」
「え?」
「やっと、ユキが笑ってくれた。どうしたら笑顔になってくれるのか、昨日の夜必死に考えたんだよ。やっぱり、甘いものに勝てるものはないよね」
アーニャが嬉しそうに目を細めてくるので、ボクは思わず目をそらしてしまう。顔が赤くなっていくのを感じながら、別の話題を探す。
「そ、そういえば、このお店は女性の店員ばっかりだよね。男性店員が一人もいないよ」
ボクの言葉に、アーニャはピクリと手を止めた。
少しだけそわそわしながら、誤魔化すように口を開いた。
「そ、そうかな?」
「そうだよ。そういえば、さっきのガラス細工のお店も女性店員だけだったような」
「き、気のせいじゃない?」
アーニャは明らかに動揺しながら、カフェラテを口に運ぶ。
それっきり黙ってしまう。少しだけ気まずい沈黙がボクたちを包む。
「…ちょっと待ってて。私は席を外すから」
「えっ? どこに行くの?」
このまま置いていかれるのかもしれない。そんな考えが頭をよぎって、思わず引き止めてしまった。
すると、アーニャがゆっくりと振り返った。
珍しく顔を赤く染めている。
「お、お花を摘みにいくのよ。置いていったりしないから、そのまま待ってて」
恥ずかしそうに視線をそらして、アーニャは店内へと消えていった
「え、あぁ、うん」
曖昧に返事をしながら、恥ずかしさのあまり俯いてしまう。女の子に何を言わせているんだ、ボクは…
「…はぁ。この世界に来てから、もう一週間か。みんな、どうしているかな」
カフェで一人になると、いろんなことを考えてしまう。…現実の世界のこととか。
みんな、心配していないだろうか。
ボクが突然、いなくなってしまって、迷惑をかけていないだろうか。親友のジンなんか、ボクのことを捜そうと手を尽くしているかもしれない。そう思うと、少しだけ胸が痛い。
ーじゃあ、今日から俺たちは親友だなー
あの放課後の夕陽を思い出す。
肩を並べて歩いた帰り道と、口の中に広がった鉄の味。遠い思い出。ジンだけじゃない。御櫛笥さんや、コトリも。他のメンバーも元気だといいんだけど。
…いや、もしかして。
…この世界にいるのは、ボクだけじゃないのか?
「そんなこと、あるわけないか」
ミルクたっぷりのコーヒーが。
ぐるぐると黒と白の渦を作って、この世界の空と、女の子になったボクの顔を映していた。




