第48話「昔の話は、好きじゃないんだ」
昔の話は好きじゃない。
でも、少しだけ喋ろうと思う。
二年前の、中学の屋上のこと。
あたしが初めての恋をすることになった、あの日のことを。
「おらおら、もう終わりか?」
その男は西日を浴びながら、余裕の笑みを浮かべていた。
顔面に何度も殴りつけてやったのに、全然倒れる気配がない。唇を切らし、顔に痣ができても、まったく気にしていないようだった。
「おい、立てよ。俺のダチに手を出したってことは、覚悟ができているんだよな?」
まるでこの状況を楽しんでいるかのように、その男。陣ノ内暁人は笑っていた。
「…はぁはぁはぁ」
あたしは全身の鈍い痛みに耐えながら、膝を地面につける。
放課後。
中学の屋上。
この場にいるのは、あたしと、陣ノ内と、もう1人。
少し離れた場所で倒れている、女みたいに華奢な男子生徒。御影優紀だけだった。
「おいおい、どうしたんだ? ユキをあそこまでボコボコにしといて、もう終わりか?」
「…はぁはぁ」
あたしは肩で息をしながら、陣ノ内という男子を睨みつける。
喧嘩には自信があった。相手が男であったも、負ける気なんかしなかった。
だけど、この男は違う。
明らかに喧嘩慣れしていた。
…この男は、強い。
体の節々が痛い。
女が相手であっても、手加減など微塵もなかった。
「早く立てよ。俺は現実主義者で、無駄が嫌いなタチだ。この後だって、ユキを病院に連れていかなきゃいけないしな」
「…ちっ、くそ」
あたしはちっぽけなプライドを掻き集めて、立ち上がる。
だが、すぐに膝に力が抜けて、コンクリートの屋上に倒れてしまう。
「…あ」
意識が朦朧としてくる。
視界の端には、自分と同じように倒れている男子生徒、御影優紀の姿が見えた。
あたしはしっかりとその男子を目に焼き付けながら、意識をそっと手放した。
…その頃のあたしは、荒れていた。
ずっと続けていた陸上を、唐突に奪われてしまったからだ。
走り高飛びの練習中。老朽化が進んだ測定棒が折れて、背中に突き刺さった。そのまますぐに救急車で病院に連れて行かれ、手術室へと担ぎ込まれた。
傷は大したことないらしい。
だが、刺さった場所が悪かった。
背骨にある、なんとかっていう神経を傷つけてしまったらしく、医者からは絶対安静を言い渡させた。
当然、そのまま入院した。
それからリハビリを経て、何とか歩けるまでは回復した。
だが、退院の日。
医者から告げられた言葉に、あたしは目の前が真っ暗になった。
…二度と、走ってはいけない。
背骨に負荷を与えて、神経を再び傷つけてしまうかもしれない、とそんなことを言われた。
何だかんだ言って、あたしは楽天的だった。
リハビリを終えて退院すれば、また部活に出られるかもしれない。
レギュラーなんて目指しているわけじゃないけど、あの放課後の、楽しい日々は戻ってくるのだと。
そう信じて疑わなかった。
…疑っていなかったんだ。
結局、あたしは陸上部をやめた。
最初こそは、マネージャーの真似事のようなことをしていたけど、他の部員が真剣に走っている姿を見ていると、心の奥がどんどん荒んでった。
見ているだけで辛くなった。
走れない自分を呪った。
そこでようやくわかった。
あたしは、走ることが大好きだったのだと。
…惨めだった。
校門まで親に送り迎えしてもらっている自分が、惨めだった。
松葉杖をついて歩く自分が、惨めだった。
部活を止めて、やることをなくしてイライラしている自分が、あまりにも惨めだった。
荒んだ空気は周囲に伝わり、少しずつ友達が離れていく。
教室では、1人の時間が多くなっていった。
そしてその頃から、あたしは学校に行くのをやめた。
…もう、どうでもよかった。
…あたしを取り巻く全部が、煩わしかった。親も、家族も、学校も、松葉杖の生活も。とにかく、煩わしかった。
…もう、ほっといてほしかった。
二ヶ月も学校に行かなければ、立派な不良だ。
髪を茶色に染めて、耳にピアスを開けた。
昼間は部屋に引きこもり、夜になったら街へ繰り出す。
両親に何か言われていたような気がするが、もう気にもならなかった。
松葉杖をベッドの隅に放り投げ、1人で夜道を歩くのは、そこそこに気分がよかった。
たまに、あたしと同じような奴と適当にダベったり、コンビニで立ち読みをして時間を潰した。金がなくなったら、その辺の弱そうな奴から巻き上げた。渋る奴や、抵抗する奴は、問答無用で殴った。喧嘩もしたし、何人かは病院送りにしてやった。
…あたしは、薄汚い女だ。
そう思うと、なぜか少しだけ気持ちが楽になった。
六月に入った、ある日。
いよいよ、生活指導の先生に呼び出された。
久しぶりの学校は、思っていた以上に息苦しかった。
茶色に染めた髪のせいか無用な注目を浴び、そちらのほうを向くと慌てて目をそらした。
友達だった奴は、新しい友達の輪に馴染んでいた。
その光景に、言いようのない苛立ちを感じた。
そして、放課後。
生活指導の先生から長ったらしい説教を受けた後、あたしは屋上へと向かっていった。
親のこととか、将来のこととか、色々言われたが何一つ心に響かない。
それはそうだ。
あたしの苦しみは、あたしにしか分からない。
イラだった感情のまま、屋上の扉に手をかける。
鍵は掛かっていたが、老朽化が進んでいたのか、引っ張っただけで簡単に外れた。
屋上からの風景は、思っていたより平凡だった。
血のように真っ赤な夕陽が差す、放課後の屋上。
落下防止の柵は錆び付いていて、簡単の乗り換えられそうなほど低い。
…あそこから景色はどうなんだろう。
そう思うと、自然と足が屋上の端へと向かい、何の躊躇もなく柵を越えた。
眼下の校庭を見て、あたしは嘆息する。
やはり、平凡だと。
拍子抜けしたあと、あたしはあることに気がついた。
ここから飛び降りたら、どうなるんだろうか?
やっぱり死ぬのかな?
そりゃ、そうだよね。
不登校になった女子が校舎から飛び降りなんて、どこにでもある話だ。
…ホント、どこにでもある話。
「ねぇ、そこから飛び降りるの?」
そんなとき、背後から男子生徒の声が聞こえた。
振り返って、その男子を見たとき、あたしは少しだけ動揺した。
まるで、少女のような顔つきだった。
中性的というより、女性的な顔立ち。体の線は細く、華奢だ。
「お前には関係ないだろ」
あたしはその男子に戸惑いながらも返事をする。
最近では、自分の外見を見て声をかけてくる者など皆無だった。茶色に染めた髪、着崩した制服、耳に開けたピアス。なにより、あたし自身が他人を寄せ付けないように、威圧的な空気を放っている。
それでも、その男子は話しかけてきた。その物珍しさに、少しだけ会話が続くが、その男子が言った言葉に、全身の血液が沸騰した。
「…自分が幸福であることにすら気づけない『幸せ者』かな」
こともあろうに。
あたしのことを指して、『幸せ者』と言ったのだ。
背中を怪我して。
部活を辞めてしまって。
二度と歩けないかもしれないと宣告されて。
1日1日を過ごすだけで、心が蝕まれて。
そんなあたしに向かって。
…『幸せ者』、だと?
「なめてんじゃねぇぞ! コラァ!」
逆上。
苛立つ感情に身を任せて、その男を殴り続ける。
「何も知らないくせに、偉そうに言ってんじゃねぇぞ!」
心の奥底に溜まった想いを吐き出すように、拳を振るいながら、叫び続ける。
だけど。
それでも。
その男子の眼からは、光が消えない。
「…だから、キミはバカだと言っているんだ!」
あたしのことを真っ直ぐに睨み、切れた唇で叫ぶ。
「泣くほど辛いくせに、独りで抱え込んで。そんなに苦しいなら助けを求めればよかったんだっ!」
「っ!」
そう言われて初めて気がついた。
あたしは、泣くほど辛かったのか。
頬を伝う涙に触れながら、心が震える。
…なんで。
…なんで、わかったの?
「う、うるさいっ!」
…なんで、あたしが苦しんでいるのがわかったの? 誰かに助けて欲しくて、でも言い出せなくて。独りで抱え込んでいるって、なんでわかったの?
「うるさいうるさいうるさい! うるさいって、言っているんだろうが!」
心が震えた。
自分の苦悩していると理解されただけで、こんなにも許された気持ちになれるのか。
拳を振りながら、あたしは自身の胸に生まれた感情に戸惑っていた。
この感情が少しずつ大きくなり、恋という実を結んだのは、およそ半年後。
中学を卒業するころだった―




