第40話『…あの時の借りを、返させてもらおうかな』
「なんで、ここがわかったの?」
「えーと。なんとなく、かな」
橋の石段を登りながら、ミクの問いに答える。
「なんとなく、ミクは自分の好きな場所にいるんじゃないかって。そう思ったんだ」
「…そう」
ミクは呟くと、視界を大運河へと向けた。リアルト橋から一望できる大運河は、圧巻の一言である。ここからの景色を眺めるために、この橋を作ったのではないのか。そう思わせるほどだった。
だが、陽が沈み、街灯すらないこの場所は、昼間のような絢爛さは微塵もない。
ただひたすら、暗く、深く、飲み込まれそうな不安が渦巻いている。
「ミク。昼間はありがとうね」
「え?」
「時計塔のことだよ。助けてくれてありがとう」
「あー。別に、いちいち感謝されるほどじゃないよ。時計塔のてっぺんから落ちてきたら、誰だって助けるよ」
ミクは遠くの見るように目を細める。
「…ユキこそ大丈夫?【瞬動】を使ったから、ユキへの反動がすごかったでしょ?」
「うん。でも、すぐ気を失っちゃったから、よくわからなかったよ」
「…そう」
ミクは目を合わせてくれない。
それが、…なぜかとても哀しい。
「…じゃ、あたしは行くから」
目を伏せたまま、ミクが逃げるようにこの場から去ろうとする。
そんな彼女を、ボクは引き止めた。
「待って、ミク」
「…なに?」
ミクが訝しそうに振り向いた。その赤い瞳には、不安と、戸惑いの色が見て取れた。
そんな彼女の目を見つめながら、ボクは静かに告げる。
「…喧嘩、しよっか?」
「…は?」
「喧嘩だよ。ボクたちは、ちゃんと本音でぶつかったほうがいい。いや、本音じゃないとダメなんだ。でないと、もう友達にもなれない」
ボクの言葉に、ミクは戸惑ったような表情を浮かべる。
だが、すぐにいつもの気だるそうな顔つきに戻ってしまう。
「…断るよ。なんで、あたしがユキと喧嘩しなくちゃいけないわけ?」
ミクが視線を外して、再び俯いてしまう。
「それに喧嘩とか、中学で卒業したんだよ。そんな意味もなく、争うなんて面倒臭いこと…」
瞬間、黒髪が舞った。
風のように優雅に、疾風のように獰猛に。
赤髪の少女の懐へと潜り込む。
そして、彼女が気づくより早く。
その握り締めた拳を、顔面に叩き込んでいた…
「がぁっ!」
ミクの体が吹き飛ぶ。
顔面を思いっきり殴りつけて、大理石の欄干に叩きつける。
パッ、と飛び散る赤い雫。
鉄の匂いを撒き散らしながら、白い石橋に染みを作っていく。
「…はぁはぁ、…何で」
痛みに顔を歪めながら、ミクが睨みつけてくる。頬は真っ赤に腫れ上がり、鼻血が溢れてぽたぽたと垂れる。
「…何で、殴ったの?」
「何でって。…ボクは言ったよね。喧嘩をしようって」
「はあ? それは本音を言い合うってやつでしょ?」
「うん。でも、こうでもしないとミクは本音を言ってくれないから」
ボクはにっこりと笑う。
足元に転がっている友達を見下ろしながら。
「ほら、ちゃんと立って。じゃないと喧嘩ができないよ?」
「…だから、あたしはそういうことは卒業したんだって」
よろよろと顔を上げながら、袖口で鼻血をふき取る。片手を欄干に添えて、なんとか立ち上がろうとする。
だが、そんなミクに容赦なく殴りつける。
左の拳が、もろに顔面に入った。
「ぐぅっ!」
小さな嗚咽を吐きながら、後ろに吹き飛ばされる。
ガッ、と欄干に衝突して、膝から地面に崩れ落ちていく。それよりも早く、斬撃のような蹴りが首筋に突き刺さった。
「がはっ!」
顔面を石橋に叩きつけられて、その勢いのまま石段を転がり落ちていく。
一段、一段。
全身を打ちつけながら、ミクの体が人形のように転がり落ちる。
「ぐううっ!」
最後に石の支柱に頭を打ちつけて、ようやく止まった。
まるで死んだように、ぴくりとも動かない。
口の中を切ったのか、血液まじりの唾液が零れている。
体中、擦り傷と切り傷で覆われ、周囲には真っ赤な斑点が散乱していた。
「さあ、立ちなさい。これくらいで気絶するようなヤワな人間じゃないでしょ?」
リアルト橋の一番高いところから、死人のような友達を見下ろす。
すると、しばらくしてミクが、薄っすらと目を開けた。
「…あんた、…正気なの?」
蚊の鳴くような小さな声だった。
「…普通の人だったら、…死んでるとこよ。…一体、何を考えてるのよ」
「だから、言ってるでしょ。喧嘩をしようって」
「…あたしには、喧嘩する理由なんて―」
「あら。まだ、そんなことを言うんだ」
くすり、と笑う。
夜風にスカートを揺らしながら、長い黒髪をゆったりと靡かせる。
「喧嘩をする理由なんて、最初から持ってるじゃない。『私』のことが気に入らないんでしょ。御櫛笥青葉さん?」
そして私は、旧友を見下しながらやんわりと微笑む。
「私もね、言いたいことが山ほどあるの。でもね、ミクが心を開いてくれないから、何も言えなかったんだよ。…でも、まぁ、とりあえず」
拳を鳴らし、険しい表情で睨みつける。
「…中学の屋上。あの時の借りを、返させてもらおうかな」




