第76話 雨
それは、中学時代の下校中での一言。小学校から下校中だった妹と偶然最寄り駅で出会い、帰りを共にしていた時だった。にわか雨なのか。ぽたぽたと雨が落ちてきた。天気予報では一日中晴れ。当然ながら二人は傘を持っているはずもない。仕方なく近くのスーパーの軒先で雨宿りをすることにした。
それでも、一向に雨は止む気配はない。それよかどんどん強まってきた。仕方なくスーパーでビニール傘を買おうかと模索する勇香の隣で、気の緩むような小さな声がした。
「ねぇお姉ちゃん」
「ん?」
「雨、全然上がらないね」
彼女はそう呟きながら、呆然と空を眺めていた。ずっと待ち続けるのも億劫になってしまったのだろう。
「そだねぇ」
勇香も彼女の呟きに返すと、釣られて空を見上げた。切れ目のない灰色の空。見ているだけで憂鬱になってしまう。
(このまま雨が降り続けて、世界が終わってしまえば、私は私から解放されるのかな……)
勇香は顔を下げて溜息を一つ、じめじめとした空気に零した。そんな哀愁漂う勇香を見ていたのか、彼女はふと左手に空を翳しながら言った。
「あーあ。わたしが神様なら、『やめー』って言っただけで止むんだけどなぁ」
「それは創作の中だけだよ」
冷めたトーンで否定する勇香に、彼女ははにかみながら続けた。
「えへへ、それか水じゃなくてお菓子の雨とか、降らせたくない?」
「夏になったらコンクリートの熱で溶けて大変なことになりそう」
「お姉ちゃんは現実的だなー」
「現実だもん。ここは」
勇香は空を見つめ、憂いながらそう告げた。
「現実でも、いつかはお菓子の雨が降ってくれると思うよ。わたしは」
「どんな気候変動したらそんな現象起こるのよ」
「だからー、神様が空からバスケットいっぱいに入ったお菓子をばら撒くの!素敵でしょ?」
「素敵じゃないし」
雨に濡れ、体中が冷え切ってるというのに、太陽のような彼女のせいで自然と心が温かくなってしまう。勇香は顔をふいっと背けて捨て吐いた。
「ふふっ、いたらいいのになー、神様!」
彼女の声は、降りしきる雨の中にスッと消えていった。
*
長い眠りについているような気がした。目を覚ました時には視界は真っ暗闇で、顔に冷たくてぽつぽつとしたものが、絶え間なく当たる感触がした。
「……雨」
残っている左手で雨を掬う。そのまま見回してみると、周りにあるものはより深部に吸い込まれるように傾斜した土壁と土砂。見上げれば空が遠い。どうやら地面にぱっくりと空いた大穴の内部にいるようだった。何故こんな場所にいるのかはさっぱりだ。記憶が曖昧でよく思い出せない。
「ここは……っ!?」
意識が戻るにつれ、勇香は両足の創傷を知ることになるだろう。
「足が……」
両足が激しく擦り剝け、そこからだらりと流血している。
「はっ!!!」
この状況でそれくらいの傷ならまだ構わない。右足首が不自然に折れ曲がり、腫れて赤黒く変色している。その近くには、血液の付着したバスケットボールサイズの岩が転がり落ちていた。
「こ、ここ……氷の魔法で……」
こういう時に行うであろう応急処置の方法なんて習得してもいないが、昔妹が堤防から転げ落ちた時に母親が行っていた氷で冷やすという処置を行う。
「ぐっ……」
涙目になりながらも必死に堪え、右足をギブス状の氷で纏った。足首の感覚はとうにないので冷感もしない。それと共に、勇香は情報収集に努めた。
穴の中心には、更に横長の大穴が続いており、暗く底は見えない。不幸中の幸いか、傾斜はボコボコと粗いため、こうやって穴の奥底に吸い込まれることなく留まっているわけだが。
「む、村は……」
どうなってしまったのだろう。確か、村の正門にいたはずだ。それが何故だかこんな大穴の中に落ちている。再び周囲をよく見てみると、住居の残骸のような木片やベンチとといった、村でよく見かけたものまで転がり落ちている。
「こ、これって……」
気を失う前に描いた、最悪の未来。上空を見ると暗闇に包まれており、満天の星だけが輝きを放っている。
「う、嘘だよね……そんなことないよね……ありえないよね……だってまだ……」
勇香は考える間もなく傾斜を登ろうとするが、右足が動かない。仕方なく、村人を助けた氷塔と同じ要領で塔を生成し、本来の地面までのし上がる。
「はっ……?」
不自然に隆起や沈降した大地、そしてそこから伸び上がるいくつもの巨大腕。それに大地がとめどなく鳴動を繰り返してしている。中には目を疑うような光景も見て取れた。
そこに村はなかった。それどころか、その空間自体が現実とは考えられない別世界だった。
宙を漂う土塊。そして暗くてよく見えないが、円形広場の方角に直立する謎の障壁。
一連の光景が、既に勇香が数時間前まで見ていた世界のそれではない。
「……魔獣警報は……まだ……」
一体、自分は何時間気を失っていたのだろうか。ふと、何かに釣られるように円形広場の方角に目を向けた。さっきまで障壁のように見えたものが、よくよく目を凝らせば輪郭を持ち手足を鈍く動かしている。
ただの壁ではない。そう察した頃には、満月に照らされ、障壁──魔獣の二つの頭部が明らかになった。
「嘘……?」
勇香が作り出した氷塔の前に佇む、四本腕に二対の頭部を持つ巨人。
「双腕巨人……っ!?」
巨人級、魔獣演習で何度も勇香に臨死体験を負わせた魔獣。
それが今、かつて村であったこの荒野に佇んでいる。
「け、獣級じゃ……っ」
その事実に、勇香は絶望した。
「う、嘘……うそ、うそ、うそ、うそ、うそ、うそ、うそ!?!?!?!?!?」
さっき見た地面から突き出ている幾つもの巨大腕。あれは紛れもなく巨人の腕だ。
恐らく広場の巨人も、勇香が落ちていたような大穴から這い出てきたのだろう。そして巨人の後方には、村人たちの避難塔がある。
「せ、先生は!?!?!?」
勇香は魔法で寄りかかれるくらいの氷の杖を生成し、それを使って右足を引き釣りながら歩く。もう後先何も考えてはいられない。
(先生は……先生は……先生は……ッ!!)
そんなはずない。仮にも元勇者である老婆が、たがだか巨人級の魔獣に殺されるはずがない。今頃、あの巨人と戦って──
(だれ……誰も……誰も死んで……死んで……)
ズガっと氷杖が段差と接触し、勇香はバランスを崩す。歯を食いしばって立ち上がった勇香だが、そこにあったそれに声を失い、身を大きく震わせた。
(……ひぁっ!?!?!?!?!?)
衛兵らしき男の死体。それも衛兵とも、男とも判断できるのは付近にバラバラに砕け散っている鎧だけ。その死体は、全身が殴り潰されたようにぐちゃぐちゃになっている。最早人の形を保ってなどいない。
「嫌だ……嫌だ……」
勇香はもう、それを直視することすらままならなかった。
「嫌だ……やだ……やだ……」
大量の涙を流しながらも、杖を突いて歩き出した。
そんなはずはない。
「嫌だ」
そんなはずはない。
「嫌だ嫌だ」
そんなはずはない。
「嫌だ……嫌だ……」
そんなはずはない。
「いや……いや……やめて……」
そんな──はずは──
「……っ」
広場についた。
「せんせ……」
巨人の足元に、それはあった。
「あっ……あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!」
老婆らしき腕と、地面に滲む血だまり。
絶叫したって、近づいたって、巨人は此方を振り向く気配すらない。
「こっち向けよ……魔獣」
勇香は息を荒げながら、巨人に左手を掲げた。
「こっち向けよ!!向けよ!!!私を向けよ!!!!!」
何も考えられなかった。勇香は詠唱もせずに、我武者羅に目の前の巨人へと炎魔法をぶっ放した。
「殺すなら……私を……私を殺せよぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!」
絶望に委ねられた我武者羅も、巨人にはかすり傷。巨人は勇香が眼中にないってくらいに振り向かない。
「ぇっ……」
それと同時に、勇香はようやくその気配に気づいたのだ。
「……ぁ!?」
地面が疼く。途端に勇香の背後に伸び上がった巨大な土壁。巨人が起こしたものか。しかし、目の前の巨人の目線は巨塔に向いている。
次第に村の各地でボコボコと地面が隆起し、平坦だった土地は峻険な岩石地帯と化した。家々の姿は跡形もなく、残骸だけが雨のように降り落ちていた。
その壁を造ったヤツが、勇香の背後にいた。気付くのが遅すぎた。
(二体目……)
四本腕を持ち、二つの頭部を持ったそれ。しかし目の前の巨人とは大きく異なり、剛翼の生えた黒燐の巨人。
体長はすぐそこにいる巨人を軽く凌駕しており、勇香が創造した氷塔に頭部が軽く届くほど。どう見ても巨人の上位種。
(こ、これくらいの魔獣……余裕で倒せないと……英雄なんて……)
ふと見ると、構えていたはずの自身の左腕を見た。我武者羅に放ったはずが、いつの間にか炎魔法が途切れている。
(手が、動かなくなってきた)
それよかぶるぶると震えている。
(違う、震えてるんだ)
震えた左手を、右手で抑えつけようとした。しかし、そこに右手はない。
(……っ)
双腕巨人は一体のみではなかった。
翼の巨人の前に聳え立つ、巨大な土壁の奥。
1、2、3……5、7……10……壁の上から覗くことができたのだけでも、計二十体の巨人。それが、こんな小さな村に。
双腕巨人が群れで行動するなんて……教本にも乗ってなかった。
「キャアアアアアアアア!!!!!!」
その悲鳴は、勇香の上空からだった。村人の避難所にしたはずの氷塔の奥の崖にも、五体程の巨人が此方を仰ぎ見ていた。
(あれ、私何やってるんだろう)
考えることを拒絶していた。こんなに多くの巨人を倒すことを、諦めてしまった。それもそのはずだ。老婆が死に、付近に勇者隊の気配もない。自分にできることは何もない。
「やめて……」
ふと見ると、氷塔の前で動かなかった巨人が、今まさに氷塔に手を掛けようとしていた。
「やめて……お願いやめて……」
感情が交差する。できることは何もない。このままでは村人が落下死する。
自分には何もできない。大勢の巨人を、自分一人で全滅できるはずがない。
いや、違う。着眼点はそこではない。
巨人は倒せなくとも、村人を誰一人とも死なせなければ──
「嫌アァァァァァァ!!!!!」
勇香は我武者羅に氷を体に纏わせ、ぐんぐんと急上昇する。
(届いて……届いて……)
「……ユーカ」
偶然、その端には憔悴しきった目のロウがいた。
(私の過ちに、私の絶望に……どうかみんなを巻き込まないで)
「ロウくん!!!!!!!!!!」
ロウは、驚愕しながらこちらを見ている。勇者は死に物狂いに左手を伸ばした。
あとちょっと……
あとちょっと……
あとちょっと……
あとちょっと……ッ!!!!!!!
(あと、少しッ!!!)
「ロウくん……こっち!!!!!!」
「……っ」
ロウは勇香の左手が間近に迫っていても、瞳に光が戻ることは、なかった。
それもそのはずである。
頭ひとつ分、届かなかったのだ。
翼の生えた巨人が突き上げた拳。その一突きは、勇香が作り出した氷塔を軽々と破壊した。眼前のロウは、咄嗟に勇香へと手を伸ばす。
けど、その手がロウに届くことはなかった。
(私がこんなにも……子供だから……)
勇香は、真っ逆さまに落ちていく。
(私がこんなにも、ちっぽけだから……)
「がっ!!!」
勇香は、ボコボコに割れた地面と衝突。
地面に落ちても、勇香の意思のままに、氷は拡がり続ける。
(私がこんなにも……弱いから……)
朦朧とする意識の中、勇香はそれを目の当たりにした。
崖の上に構える、何体もの巨人。
(誰も、助けられない……救えない……)
それらが崖から飛び降りたことで大地が崩落。村は原形も残さず、当然、氷塔はバランスを取れず。勇香は見たのは、崩れた氷塔から大勢の村人が落下している光景だった。
(やめて……落ちてこないで……)
大粒の雨と共に、氷塔の残骸、そして人間が次々と落下する。
(人間は雨じゃない……落ちてこない……)
「あっ……あああああァァァァァァ!!!!!!!!!!!」
最初に落ちてきたのは、小柄な少年。倒れ伏す勇香の隣、手を伸ばせば届くような距離だった。
「ロウ……ロウくん……」
声をかけても、何度呼びかけても、ただ雨に打たれたロウだったそれが、無残に転がっている。
ボタッ、ボタボタ。
人間が地面と接触する鈍い音だけが聞こえ続ける。動けることもなかった。ただその音を聞いていることしかできなかった。背後の巨人が降りてきたことで、勇香がいた広場も崩れ始めた。雨に打たれ、沢山の人間だったそれと、勇香が地面の奥底の虚空に吸い込まれるように落ちていく。
(私は、強くなりたい)
それが、勇香の目標だった。
(陽咲乃と戦えるようになりたい)
そのために委員会に縋り、執念とばかりに強くなろうとした。
(英雄になりたい)
強くなろうと……した。
(でも、そうやって努力した結果が……これ)
何度目かの臨死体験。そして、今回が本命だ。
何もできなかった。目の前の巨大な厄災に対し、身を震わせることしかできなかった。これで強くなったなど、能無しの戯言だ。
(ごめん陽咲乃……約束、無理だった)
突然、何かが勇香の身体を掴んだ。
「……っ」
それは、翼の生えた巨人だ。この押し潰されそうな握力が、それを物語っている。もう全身の骨は砕け散っただろうか。朦朧とする勇香の目の前で、巨人の奇怪な眼がギラリと光る。
「あぁ……これが」
──地獄か。
巨人はぎゅっと力を入れ、そこで意識は途切れた。
──事後報告書──
未登録居住区カズラノ。推定住人数約三十七名、全員死亡確認。居合わせた元勇者及び勇者養成学園講師一名、死亡確認。並びに居合わせた勇者候補生一名、死亡確認。
オフィーリア・テミス