第69話 惨めな私
『ガルッ!ガルルルッ!!!』
いつの間にか、口内が鉄のような臭い一色に染まった。
口内を鉄臭で埋め尽くした液体は、それだけには留まらずに口の中から漏れ出してくる。
「プハッ!!!」
溢れ返った液体を吐瀉する。地面に生えた淡い緑色の雑草に、どろどろとした深紅の飛沫が吹きかかった。
同時に手に付いた液体をまじまじと見た。紛れもなく、それは血液だ。
口だけではなかった。耳、鼻、瞳、全身の穴という穴から大量の血がブクブクと湧き出る。見えている景色も、紅色に補正されている。
「あっ、あがっ、ああぁぁ、あああぁぁぁぁ!!!!!」
身体が不自然にガタガタと震えてくる。体温が一気に低下したのか悪寒を覚え、ブワッと鳥肌が総立ちした。
「はっ、はぁッ……はぁッ!」
激しい動悸、そして首を絞められたような窒息感。
目まぐるしく動く視界で手足を覗くと、紫紺に変色し血脈が浮き出ていた。
次第に、目がチカチカと点滅する。瀬戸際で保っていた紅色の視界もぼやけてきた。
「あっ……ブハッ!!」
喉の奥からは絶え間なくと血がどッと込み上げてくる。そのせいで、何かを考える間もない。死を実感することもできない。
「ぃえ……」
そんな時にも関わらず、ぼやけた視界の奥に、幼げな少女が鮮明に映っていた。
「あっ……えっ……」
次には、勇香は自らの足を動かしていた。
勇香は少女を目指した。一歩進めば倒れてしまう程、ぐわんぐわんとして身体は重いし、平衡感覚も保てない。なのに、少女を目指さずにはいられなかった。
「あっ……ブハッ……ゆッ……」
時折足を止めては、口に溜まった血を吐く。そうすると、再び歩き出す。
少女は、勇香に背を向けてこちらを振り向かない。顔も見えない。
それでも、少女の腰まで届く特徴的な黒髪で、勇香はその人物を確信してしまったのか。
──違う。
遠くから、その少女が呼びかけてくるのだ。
お姉ちゃん、お姉ちゃんと。
顔を見えないのに。向き合えもしないのに。
「ゆ……ゆぅ……ゆう……」
勇香は、少女に向けて手を伸ばした。少女はもう、手に取れるくらい目の前にいる。
けどなんでだろう。少女は近くにいるのに、手に触れることもできない。
「あっ……あれっ」
その理由は直ぐに分かった。自分の手、手首から先が、ぽっかりと千切れ落ちていた。腕からは鮮血がポタポタと滴っている。
気がつくと、勇香は地面にうつ伏せになって倒れていた。背中は誰かに押さえつけられ、立ち上がることもできない。その誰かは、喉を震わせるようにグゥグゥと低く唸っている。
首元に、冷たくて鋭利な何かが突き刺さった。ガッと皮膚が抉られる。
少女だと思っていた捕食者は、今まさに、勇香の背中にいて。
「あなた様!!!」
見知った誰かの悲鳴。そして、ビュワンッと耳元に鳴り響く風切り音。
背中を、太陽を思わせる高熱の何かがすり抜ける。
朦朧とする意識の中勇香が見たのは、勇香を地面に押しつけていたはずの蛇狼が、炎弾に吹っ飛ばされる光景。
「もう大丈夫です!!今治療いたします!!!」
「父ちゃん……ねぇ父ちゃんは……?」
「残念ですが、彼女が優先です。さぁいまっ……右手が!?」
見知った声は、自分の右手の先を見るなり今までにないくらい声を張り上げた。その背後には、知らない誰かが泣きじゃくっている。まるで昔の自分のようだ。
「ゆっ……ゆう……な……は……」
「ご心配なさらずに、あなた様は必ず生き残ります。我らが死なせるものですか」
「と、父ちゃん……父ちゃんは……」
「防御結界を展開しました。あなたは此処から一歩も動かないでください」
「い、嫌だ……父ちゃんが……父ちゃんが……!!」
「出てはいけません。死にますよ!!」
老婆が誰かを必死に説得している。でも、その誰かを確認できるほど息は長くない。
「背中の創傷を中心とした皮膚の変色。そして右手の欠損を確認。また、魔力欠乏を要因としない全身硬直。これは双顎蛇狼の蛇尾由来の魔法毒」
老婆の言葉の後、背中にひんやりとした物体がポトッと落とされた。そうかと思えば、電撃に撃たれたような衝撃が身体中に奔る。けれど痛みは感じない。
「うがぁ!!」
「ヒュドラーの毒を利用した解毒薬です。その手の代物としては最高で、今のところ裏日本に蔓延るどのような魔法毒でも解毒可能な万能魔法具でございます」
そうすると、投下された箇所を中心として、じわじわと変色が元の薄ピンク色に戻っていく。
ぼやけていた視界も鮮明になる。
「命じる──癒光」
老婆が放った治癒魔法で、荒れまくっていた息がすっと静かになる。
「はぁ……はぁ……」
「勇者養成学園の制服は、表日本の弾丸くらいならば軽く往なしてしまう耐魔法・耐物理性能がございますのに、やはり魔獣は脅威でしかないですね」
「と、父ちゃ……ッ!!」
ガシッ!!
老婆と共にいたのは、赤髪の十代前半くらいの少年だった。涙目で走り出そうとするの少年の手を、老婆が掴んで止める。
「この結界から出てはいけません」
「離して!!おれだけでも助けに行く!!!お願い!!!お願いだからぁ!!!!!」
何事かと思いながらも、勇香はゆっくりと立ち上がる。だがそれよりも、勇香は立ち上がれたことに驚いて自分の身体をちょこちょこと見まわしてしまう。左手を握ったり、足を動かしたり。
口内は鉄臭は残るものの、血が込み上げる様子はなかった。
「もう大丈夫ですよ。これで双顎蛇狼の毒は身体から綺麗さっぱり無くなりました」
人体の内部に直接作用する魔法具は、血管を通り抜けながら対象に影響を及ぼす。
弱毒化されたヒュドラーの毒素が注入された魔法具は、血管内の毒素に対する免疫力を急激に上昇させ、自らも抗体となって毒素を破壊する。
「わ、私、双顎蛇狼の尾に毒があるなんて知らなくて……」
双顎蛇狼はその構造上、戦闘の際は暴走してしまうというデメリットがある。そのため、攻撃する前から第二第三の攻撃手段を持っているのだ。それは群れの小隊然り、蛇のような尻尾から対象へ噛みつかせることで、そこから対象の動きを止める毒を注入させる。
傷口から体内へ入り込んだ毒は体内を巡り、各組織を侵食して対象を腐食させる。
その後は脳内を浸食し、幻覚や幻聴で対象を身体、意識においても動きを鈍化。最後に筋肉等に入り込み対象の行動を停止させる。その時間、内部の浸食約十秒ほど、意識の浸食約二十秒、動作の浸食は約三十秒。毒が浸透した対象は約一分ほどで瀕死状態となり、蛇狼の格好の餌食となる。
そもそも背後の蛇狼すら、勇香は気付くことができなかった。今回はたまたま老婆が傍にいたから助かったが、もし戦場となれば……
(手、なくなっちゃった……)
勇香は、自分の右手を見る。右手といっても、今そこにあるのは空気だけ。
老婆の魔法で血は止まったけれど、荒々しく蛇狼に千切り取られた手首の断面が露わになっている。
その瞬間、何故だろう、治癒魔法で傷は癒えたというのに、涙腺から液体が漏れ出してくる。
(私なんかが、生き残れる……いや、ち、違う……も、もっと、もっと、が、頑張らないと……強くならないと……でも……なくなっちゃったし……)
利き手である右手を失った今、勇香は慣れてもいない左手で魔法を放つことを余儀なくされる。
ブレブレの左手で撃つ魔法なんて、現役の勇者の足手まといになるのは必須だ。
(もう私……戦うことさえ……でも……でも……)
「と、とうち、とうちゃ……」
少年は、呟きながら森の奥を見ている。
視線の先、ガサガサと草木が揺れており、蛇狼たちが此方の様子を伺っているようだ。
「──っ!」
呆然としていた少年は、またもや限界が来たのか一人走り出した。
その手を老婆が掴み、さっきよりも声量を強めて忠告する。
「行ってはいけません!!あなたが死にますよ!!!」
「離ッせよ!!ずっと楽しみにしてたんだ!!!こんなところで、終わりだなんて……いいはずないだろ!!!!」
「えっ……あの……」
状況を呑み込めず困惑する勇香に、老婆は少年を取り押さえるよう促す。
バタバタと暴れる少年を勇香が取り押さえると、老婆は魔杖を眼前の蛇狼に向けた。
その目は色を変える。蛇狼を根こそぎ燃やし尽くさんとする煉獄に。
「まずは目の前の脅威を取り除くことが先決!!!!!」
瞬間、老婆の身体に幾重もの炎が渦巻いた。次第にそれは老婆の顔を除いた全身を覆いつくし、辺りに熱気がムンムンと漂った。
「命じる──ファイアアーマー」
中級の炎属性魔法。炎をその身に纏うことで魔獣を寄せつけないだけでなく、魔法による炎の威力を底上げする付与魔法のような役割も併せ持つ属性魔法。
「あなた様は、彼を決してこの結界から出さぬようご尽力ください」
「わ、私も加勢を……」
「このような群れにも満たない獣級魔獣。私一人で事足ります故」
老婆は一人、結界から双顎蛇狼に姿を現す。
「さぁ、かかってきなさい!!!」
『グラァ!!!!!!!!』
その戦いは、まさに圧巻。
戦いとも言い難い。何故なら、老婆による一方的な蹂躙なのだから。
炎鎧は、老婆の魔力に順応した蛇狼をも本能で寄せつけず、魔術師の弱点である近接攻撃もその身に受け付けない。
蛇狼は遠距離から攻撃する手段はない。せいぜい尻尾の蛇狼を数メートル伸ばすのが精いっぱい。故に攻撃できずに、ひたすら物陰から老婆を伺っている。
老婆は距離を取ると、蛇狼に向けファイアボールを乱射。地面を焼き焦がしながら蛇狼を翻弄するも、学習したのか先程の火球ようにはうまくいかず、攻撃は易々と回避されてしまう。しかし、老婆の魔法はそれからが本領。
「す、すご……!」
炎弾は地面に着弾すると、炎は周囲へ拡散し、そこから大地を伝って延焼する。雑草のような着火剤もない焦土に、炎が燃え広がるのは魔法のおかげか。
蛇狼は森の中まで後退を余儀なくされ、逃げ遅れた一体は炎に包まれあっけなく消失。
暴走した蛇狼の一部は、行く手を阻む炎の海をも軽々と飛び越えるほどの跳躍で、老婆を襲う。
だが、跳躍したところで空中に逃げ道はない。老婆は再びファイアボールを放ち、蛇狼を見事撃墜。
流石の蛇狼も、ここまで突破口を炎が塞いでしまっては襲撃しようがない。勇香たちを喰らうのは諦め、大人しく引き下がろうと森の中に消えていく。
「勇者の存在意義は魔獣撃滅。誰が逃がすものですか」
老婆に纏った炎が、さらに激しく揺れ動く。
「命じる──機能付加【放出】&【追躡】!!!」
炎は、老婆から解放され天空に登っていく。そして、空中で大きな一つの塊となり、やがては竜のように空を舞い落ちる。森に吸い込まれ、逃げた蛇狼を追尾する。
数分後、森の奥から四本の炎柱が噴出。対象を仕留めた証左だ。
「これが、現役の勇者……」
「私は既に引退した身でございます。現役はもう少し、蹂躙できると思いますわ」
「とりあえず、倒したってことでいいんですか?」
「まぁ、そうですね」
「……っ!!!」
老婆の声を聞いた少年は、勇香の手を振り払って父がいるはずの森に走っていく。
「あっ!」
「待ちなさい!!そちら側にはまだ魔獣がいる可能性があります!!」
老婆が呼びかけるも少年は此方を見る素振りすらない。勇香と老婆は互いに頷きあうと、少年を追いかける。
森の中に入るなり、勇香と老婆は歩調を緩める。少年は地面を見下げて止まっていた。
「あ、あの……父ちゃんって……」
「うっ……うぁ……ぅわ……」
後ろからでは少年の顔を拝めない。しかし、少年は泣いていた。
その視線の先には──
「へっ……?」
魔獣に喰い荒らされた人間の遺体は、肉片すら残っていなかった。
「治してよ……」
少年は、嗚咽を交えた声で老婆に縋った。
「その姉ちゃん……みたいに……おれの……父ちゃん……アンタら、勇者なんだろ」
「残念ながら灯が潰えてしまっては、治癒魔法の施しようがありません」
老婆は、あくまで冷静に非常な現実を突きつける。その言葉で、少年は父親の亡骸に大粒の涙を零した。
「なんだよ、それ……」
老婆は無言で、少年の肩に手を添えた。だが、少年はその手を振り払う。
「なんでだよ……いっぱい勇者がいる学校を見せてくれるって……約束してくれたじゃんか」
少年は、父親と勇者養成学園を見に行く途中だったらしい。
「……なんで嘘、吐いたんだよ」
「……っ」
「勇者……護ってくれないじゃんかよ」
少年は、腫れぼったくなった瞼で老婆を睨む。そして、弱弱しい拳で老婆を叩いた。
「なんで父ちゃん助けられなかったんだよ!!!!!」
何回も、何回も。叩くうちに、その弱弱しさは際立ちを見せる。
戻っては来ないのだ、もう何も。
「勇者も神ではありません。彼女が成長を遂げるまでは、救えぬ命も……」
少年は老婆に縋るように、崩れ落ちた。
──あ、あれ
──これって……
──私のせい、だよね。