第3話 惨めな自分
モノレールに乗り新條駅に到着した勇香と真琴。
スマホの時計を見ると、時刻は一六時五十一分。カラオケの集合時間まで、まだ九分ほどある。
「カラオケはすぐそこだから、もう行ってようか」
「そうだね」
真琴の提案を呑んだ勇香は、二人で目的地のカラオケまで歩いていく。
道中、二人は無言で色とりどりのタイルが埋め込まれた歩道を進む。
「ここだよ」
駅から歩いて徒歩数分、待ち合わせ場所のカラオケに到着した。
カラオケの前には、既に数人のクラスメイトが集まっていた。
クラスメイトは勇香と真琴を見るなり、手を振って呼びかけてくる。
もちろん、勇香にもだ。こんなことありえない。
一度も話したこともないクラスメイトが、勇香に笑顔で手を振っているのだ。
「どうした?そんな悲しい顔して、今日はお前が主役なんだぞ?」
「そうそう、もっと楽しめばいいのに」
そういって一人の少女が勇香の肩をバンバンと叩いてくる。
そんな何気ない動作すら、勇香は悪寒を覚えた。
やがてぞろぞろとカラオケの参加者がやって来る。
ざっと数えるだけでも、揃ったのは三十一名。勇香のクラスが四十名なので半数以上の生徒が勇香の門出を祝うために集まってきたということになる。
「う、うそでしょ……」
「勇香ちゃん気を保って!」
戸惑う勇香を真琴が鼓舞する。
しかし、真琴でさえも、この空間の異常さには度肝を抜かれていた。
その後、クラスメイト三十一人と勇香、真琴はカラオケに入るともう受付は済んでいるようで、エレベーターに乗り、広々としたパーティールームへと足を踏み入れる。
「さぁ!今日は聖ヶ崎さんの送別会だから、別れを惜しみつつみんなぱぁーっとはっちゃけちゃおうねー!」
パーティールームの中央で、マイクを持った女子生徒がその場全員に向けて言い放った。それと同時に周囲から大きな歓声が沸く。
もはやはっちゃけるほうが本音なのではないかと勇香は思いながら、手に握っていたオレンジジュースを一口そそる。
その隣で、真琴は不安げに勇香を凝視していた。
「どうしたの?」
「いや、勇香ちゃん。こういうイベントってあんまり居心地よくないかなあって思っちゃって」
「大丈夫だよ」
そういいつつも、勇香は心の中でため息を吐く。
生まれてこの方、大人数でガヤガヤと騒ぐようなパーティーに参加したことのない勇香にとって、現在進行形で行われている送別会の居心地の悪さは度を逸している。
勇香はそんな不快感を紛らわせるかのように、ちびちびとオレンジジュースを飲み干す。
「じゃあ次俺の番な」
「きたー!」
「一発見せちゃってよ!!」
一人の男子生徒が立ち上がると、部屋中からわーと歓声が鳴り響く。
クラスでも屈指の人気を誇る男子生徒、もちろん勇香とは一切の縁もない。
「よっし!聖ヶ崎の門出を祝うために、俺がいっちょかましてやるぜ!」
「アンタに祝われてもうれしくないって!」
「よっ!音痴!」
「うるせえいくぜ!」
男子生徒が流行の恋愛ソングを絶妙に音程が外れた声音で奏でる。
その声に下手だなやうるせえなどとガヤガヤ騒ぎながらムードが最高点にまで沸き上がる。一方、真琴は苦笑いを浮かべながら手拍子を打ち、勇香に至っては男子生徒が自分の名前を吐き出したことに驚き、明後日の方向を向いて現実から目を背けていた。
「みんな聞いてくれてありがとー!!」
「お前二度と歌うなよ!」
男子生徒の独唱が終わり、一時の落ち着きを取り戻した生徒たち。
勇香はふぅと安堵の息を吐くと、張っていた肩の力を抜く。
すると、マイクを持った女子生徒が勇香の元にやって来て、
「じゃあ次は聖ヶ崎さんだね」
「え?」
女子生徒から言い放たれた言葉に、勇香は目を丸くする。
隣の真琴でさえ、冷や汗を流していた。
「聖ヶ崎さん!」
「本日の主役来たー!」
「こいつの声でイかれた俺たちの耳癒してくれ!」
「うるせえな!」
クラス中から一気に視線を向けられ、勇香は困惑する。
流行りの曲など一つも知らないし、逆に自分の知っている曲を知る者など誰もいないだろう。それよりも誰かの前で自分の歌声を披露したこともないのに、こんな大勢の前で歌うなんて。
そんなこと、自分にできるわけない。
(どうしようどうしよう!!!)
顔から血の気が引くような感じがする、はあはあと息が荒げる。
勇香はパニックに陥って過呼吸になってしまう。
「どうしたの?聖ヶ崎さん」
ポカンとする女子生徒に、勇香はぐっと息を呑んでぶるぶると震える手で渡されたマイクを持とうとし──
「あれ?勇香ちゃん顔青白いよ。どうしたの?」
「うっ、えっ?」
パニックが頂点に達して涙ぐんでしまった勇香。
そんな勇香の顔を伺った真琴は、勇香が握ったマイクを無言で掴む。
「ごめん、勇香ちゃん体調悪そうみたい。代わりに私が歌うから勇香ちゃんは休んでて」
「え、うん分かった」
勇香からいとも容易くつかみ取ったマイクを握った真琴は、マイクを持ってきた女子生徒にそう伝える。
「ごめん、私お手洗い行ってくる」
「うん。長くなるって伝えとくね」
「ありがとう」
そう言って席を立ちあがり、パーティールームを出ていった勇香を横目で確認した真琴は、笑みを浮かべながら生徒たちの前に立つ。
「ん?聖ヶ崎歌わないのか?」
「ごめんね、勇香ちゃん寝不足で体調悪いらしいからトイレに行ってる」
「なんだー楽しみだったのに」
「ちゃんと体調管理位しろよな」
「じゃあ代わりに真琴が盛り上げちゃって!」
「うん。いくよー!」
*
パーティールームから逃げるように女子トイレに駆け込んだ勇香は、化粧台の前に立ち、蛇口を半ば強引にきゅっ、とひねる。そのせいかどばどばと噴き出た水を手ですくいとり、近づけた自分の顔に向けて無造作に投げつける。
ひんやりとした感覚が、顔中に浸透する。
(少し、落ち着いた……)
蛇口を締め、ぴちぴちと水で濡れた自分の顔を、鏡越しに見つめる勇香。
(そうだ、安芸さんが時間を稼いでくれてるけど、どのみち次は私が歌わないといけないよね。何歌うか決めないと……)
濡れた顔をブレザーの内ポケットから取り出したハンカチで拭きながら、何かみんなが知っている曲はないかと考える。
だけど、勇香は流行りの曲など一ミリも聞いたことがなく、知っている曲もアニメの主題歌ばかり。
ましてや自分が見ているコアなアニメの主題歌なんて到底知っているはずもなく……なら、最近流行ってるアニメならどうだろう。
自分も歌詞は曖昧だが、フレーズを聞けばなんとなくわかる気がする。
問題は歌唱力だ。
勇香自身、自分の歌唱力がどのくらいかは全くと言っていい程分かっていない。
そもそもカラオケという場に来ることが実に十年ぶり。
最後に行った時など自分がまだ幼稚園を卒業する前のことだ。
なら自分のわずかな可能性を信じるしかない。
せめて歌いやすい曲を、そう考えた勇香はハンカチをしまい、スマホを取り出そうとするが、
(なんでこんなに惨めなんだろう……)
スマホを掴んだ手を緩め、化粧台に硬く手を乗せる。
なぜ自分は、こんなに弱いんだろう。
なぜ自分は、こうもうまくいかないことだらけなんだろう。
自分の意見をはっきりと伝える事ができず、いつも笑みを浮かべて誰かを肯定してきた。
誰かの頼みを断ることもできず、それで理不尽を押し付けられたこともあった。だけど、それで反論することもできない。
いつしかそれが仇となり、~さんの犬、ロボットなどと罵られることもあった。
それで自分を変えたいと思いつつも、結局行動に移すことはできなかった。
なんでこんなに、自分は惨めなんだろう。
(そろそろ戻らないと……)
勇香は吹き上がる気持ちを押し殺し、女子トイレを出た。勇香は早足で流行りの曲が流れる廊下を歩き、パーティールームに戻る。
そんな勇香の鼻腔をツンと刺すような臭いが、どこからかしてきた。
(なんだろう、このにおい……魚を焼いているような……)
だが、勇香は特に詮索することもなく歩き去った。
パーティールームの扉の前に着いた勇香。
扉の奥からはかすかに真琴の歌声が聞こえてくる。さすがうまい、と感心しつつも、勇香はドアノブを握る。しかし、その手を一瞬だけ躊躇してしまう。
すると、真琴の歌っている曲が勇香の耳に入って来る。
なんだろう。どこかで聞いたような……っ!
その曲は勇香のよく知っているアニソンだった。
もしかしたら真琴は、自分が次に歌いやすいようにわざとアニソンを歌ってくれているのだろうか。
そう考えた勇香は、ドクドクと鳴る胸を手で押さえ、気持ちを落ち着かせる。
勇香はぶるぶると体を震わせて、自分の重心をすべて手にかけるように扉を開いた。
「あっ、勇香ちゃんおかえり!」
「長かったから心配したぞ」
勇香が入ってきたことで歌うことを放棄してしまった真琴が、マイクを持ちながらぶんぶんとこちらに手を振ってくる。同時に、クラスメイトの視線も一気にこちらに向けられ勇香はたじろいでしまうが、なんとかもちこたえ自分の座っていたソファに戻った。
「じゃあ次はいよいよ聖ヶ崎だな!」
「転校しちゃうんだからさ、自分の知っている曲をぱぁーっと歌っちゃって!」
「そうだよ遠慮すんなよ!これは聖ヶ崎の送別会なんだから!」
クラスメイトから、口々にそんな言葉か飛び交ってくる。その声に、胸の中から淡い淡い何かが飛び出してくる。勇香は皆の暖かい激励に押されながら、真琴が持ってきたマイクを受け取り──
「なぁ、そういえばさ」
一人の生徒が多くの生徒たちの声をかいくぐり、口を開ける。
「聖ヶ崎ってどこに転校すんだ?」
その生徒は、音程の外れた歌声でクラス中をどよめかせていた男子生徒。
男子生徒が放つその声は、クラスメイトの注目を勇香から一気に彼に移した。
「そういえばどこだろうね」
「しらないなそういや」
「ねぇ教えてよ?」
「えっ……」
クラスメイトから次々に放たれるその疑問に、勇香は目を白黒させてしまう。
至極単純な質問。だがもちろん言えるはずもない。
「きっと私立のめっちゃ偏差値の高い高校とか?」
「聖ヶ崎さんって成績良かったっけ?」
「いつも物静かだし頭よさそうだよね」
自分の性格も知らない生徒たちから口々にそのような言葉が飛び出してくる。
だが、勇香にはひたすら沈黙に徹していることしかできなかった。
その学校名を発しただけで、どのくらいの生徒たちに馬鹿にされるだろうか。
いや、もしかしたら今朝の両親のように受け入れてくれる可能性もある。
しかし現実逃避をしたい勇香に名を出せるはずもなかった。
「勇香ちゃん、どこなの?」
ついに真琴からも尋ねられてしまった。
勇香は口をもごもごとさせ、小さな拳を握り締める。
「え、えぇと」
そうして、勇香が口を開こうとした、その時──
ビービー
突如、サイレンのような音が鳴り響く。
その音は、先ほどの生徒たちの騒ぎ声とは比べ物にならないほど部屋中に響き渡り、
当の生徒たちは驚き、皆口を塞ぎこんでしまった。
そしてサイレンが鳴り止むと、次に聞こえたのは、
《火事です、火災が発生しました》
無機質な機械音声で告げられたその知らせ。
しかしその声がどのような意味を示すかは、十代も後半に迫る彼らなら容易に判別つくだろう。
「火事!?」
「う、うそでしょ……」
「え、ガチでいってんの?」
生徒中からどよめきが走る。
「うわっ!」
瞬間、部屋の天井につけられていたスプリンクラーから、霧雨状の水が一気に発射される。再び警報が鳴り響き、部屋は騒然と化す。
「ど、どういうこ……」
何が起きているか分からないと唖然としていた勇香だが、あることを思い出す。
女子トイレに寄った帰り道、廊下を過ぎ去る勇香の鼻にかすかに臭ってきた、何かが焼けるような臭い。
「あれって、もしかして……」
「おい外!!!」
一人の生徒が、扉の外を覗き込む。
「も、燃えてる!!」
「ほんとに火事なの!?」
部屋の中から見渡せるほど、ごうごうと廊下中に燃え広がる火の海。
それを一目見た生徒から負の知らせは一気に連鎖する。
「ねえ消火器は!?」
「こんな部屋にあるわけねえだろ!!」
「逃げようよ!扉開けて!!」
「馬鹿!今外に出たら危ないだろ!!!」
「だからってずっとここにいるわけにはいかないでしょ!」
「消防車は、誰か電話して!!」
どこかしこから聞こえてくるざわめき声。
「死にたくないよぉ……」
「三咲落ち着いて!!」
「なあ外の人に声かけて飛び込めば!」
「何考えてんだここ五階だぞ。だいたい、窓開かねえし」
当然その声は送別会の楽しさを交えたものは一切なく、今の状況を悲観的にとらえているものばかり。そう、下校中の勇香がしていたように。
勇香には座って、そのような生徒を黙って見ていることしかできなかった。