第1話 白い封筒
大都会東京といっても、一口にその全てにビルが立ち並び、人々が忙しなく移動している場所というわけではない。
事実、東京の西部に位置するここ月野森市は、都会でもあり田舎味が残る自然豊かな町だ。月野森市には二本の川が流れており、その河川敷でスポーツを楽しんだり土手でウォーキングをしたり。人々は風光明媚なこの町で、自然に包まれながらレジャーや娯楽に身を注ぎ込む。
しかしその美しい自然も、電車一本で一瞬のうちに世界が変わる。
月野森市には市内を南北に分割するようにモノレールが走っており、それに乗って隣の張都市に行けば、そこには大都会東京の喧騒が広がっている。
人々はそうして自然と都会の間を行き来しているのだ。
そんな月野森市で、高校一年生の聖ヶ崎勇香は両親と三人で暮らしている。
チュンチュンと小鳥のさえずりが聞こえてくる朝、勇香はスマホの目覚まし時計が鳴ると同時に重い瞼を開ける。
ガンガンに鳴り響く目覚まし時計を切るために、勇香は寝ぼけ眼のまま腕を伸ばしベットの隣に置いてあるはずのスマホを探る。
しかし、いくら腕を伸ばしても見当たらない。勇香はガバッと身を起こした。
すると、自分の頭部の跡がくっきりと浮き出ている枕の近くに、黒くて細長い何かが見えた。
目をこすりながらそれを見る──イヤホンだ。
そうか、自分は昨日イヤホンを耳につけたまま寝落ちしてしまったのか。ようやく覚醒してきた脳で勇香はそう思考する。
そうすると……
勇香は四つん這いになりながら床を見つめる。そこにはブルブルと振動を立てながら鳴り響くスマホがあった。勇香はスマホを手に取るとワンタップで目覚まし時計を止める。
時刻は六時過ぎ。それを確認すると、勇香はパジャマを脱ぎ捨てて紺色のブレザーとスカートに着替える。
着替え終えると今度はドレッサーの前に向かい、寝ぐせが残る長い黒髪をヘアブラシで整える。
一通り身だしなみが整うと、勇香はやや古めかしい勉強机の前に立ち、そこに立てかけてある写真立てを手に取った。
中の写真には、勇香と一緒に笑う小さな少女が映っている。
「行ってくるね」
それだけを言い残し写真立てをもとの場所に戻すと、勇香は電気を消して部屋から出ていく。
勇香の部屋は一軒家の二階にある。ガタガタという音を立てながら階段を降りると、その足で洗面台に向かい洗顔と歯磨きを行う。
次に向かった先は玄関。勇香はクロックスを履いて外に出ると、目の前には眩しい太陽の光。それを直に浴びながら小さな庭を抜けると、家の前に設置された赤いポストの中身を確認する。
これも勇香の朝のルーティンだ。
ふと中を開けると、新聞の他に横長の封筒が入っていた。
赤い薔薇のようなシールで密封された白い封筒。
──聖ヶ崎勇香様
その封筒には、住所と共にそう書かれていた。
おかしい。宅配サービスで荷物を頼んだ覚えもないし、誰かから手紙を貰うようなことをした覚えもない。
(なんだろう……)
気になった勇香は送り主を確認せずに中身を開ける。
意外にも、中に入っているものは白い紙切れ一枚。
どうりで軽いわけだ。
感心した勇香は、紙切れを裏返す。
──貴殿を、私立勇者養成学園への転校を許可します
紙切れの裏には、パソコンの明朝体でそれだけが書かれていた。
(どういうこと……?)
途端に、勇香は一時の混乱状態に陥った。
おかしい。おかしすぎる。
この春通い始めた高校を、いきなり転校するなどありえない。
そもそも転校のための試験を受けた記憶も勇香にはない。
なにより、勇者養成学園などという馬鹿げた名の学校など日本中のどこを探しても見当たらないだろう。
(ただの嫌がらせかな……)
勇香は深く考えることは諦め足早に家の中に戻っていった。
玄関に戻りクロックスを脱ぐと、鼻腔をくすぐるいい香りが漂ってくる。
恐らく母が朝食を作っているのだろう。
勇香は若干心を弾ませながら一階の台所に向かった。
台所では、予想通り勇香の母が料理を作っている。ジュワジュワと何かを焼く音が聞こえてくる。それを見ながら、勇香はダイニングテーブルでコーヒーを啜っている父に新聞を渡した。
「お父さん、今日の朝刊だよ」
「おおありがとう勇香。ん?その紙?」
新聞を手に取った父はおもむろに勇香の反対側の手に握られている紙を見つめる。
「ああこれはね、ただの嫌がらせだと思うけど……」
「そうかそうか!ようやく来たのか!」
「え?」
勇香は驚きのあまり目を丸くする。そのまま父は貸しなさい、と勇香から紙切れを受け取った。
「やはり、勇者養成学園からの招待状だ!」
「あのお父さん、私そんな学校に行こうなんて言った覚えは……」
「何言ってるんだ!転校はもう明日だろ?」
「えぇ……!?」
父の突飛な発言に驚き、勇香は甲高い声を上げた。
「何を驚いてるの。荷物はもう纏めたの?」
台所にいる母からもそんな声が聞こえてくる。
「に、荷物……?」
勇香にはもう何が何だか分からなくなってしまった。朝っぱらから脳を使いすぎたせいでショートを起こしてしまった勇香は、ダイニングチェアにぐったりとへたり込む。その様子を父と母は何食わぬ顔で見つめていた。
「お父さん、もう一度確認するけど転校するって本気で言ってるの?」
「なんだなんだ?今更したくないなんて言われても変更はできんぞ」
「私、望んだ覚えもないんだけど」
すると、母が湯気が湧いた皿をお盆に乗せて持ってくる。どうやら朝食ができたようだ。今日のメニューはバターロールと目玉焼き。そして野菜サラダとヨーグルト。実に典型的である。
「勇香どうしちゃったんだ」
「また遅くまでゲームでもしてたんじゃない?」
「二人とも聞こえてるよ」
勇香は耳打ちもまともにできない両親に半ば呆れながらも、目の前に置かれた朝食に手を付ける。そうすると、父はダイニングテーブルに置いてあったリモコンを手に取り、テレビの電源をつけた。
『本日未明ごろ、東京都西ノ多摩市の建設現場で原因不明の崩落事故があり……』
漆黒の画面が一瞬で変わると、そこには朝のニュース番組が映っていた。
「またあったの?原因不明の事故……」
「最近多いよなー。この前は確か路上に止めてあった車がいきなり発車して事故を起こしたんだろ?」
「勇香も気をつけなさいよ」
「わかってる」
勇香は無言でニュース番組を見つめながらバターロールを頬張る。
思えば最近、まるで魔法のような出来事が起こるようになった気がする。勇香は節々にそう感じていた。
ニュースで報道されている事故はもちろん、勇香の身の周りで起こっていることも、不思議だなと感じるものが増えてきた……気がした。
例えば一週間前、勇香が張都市に向かうためにモノレールに乗っていた時のこと。
モノレールが急に停止したのだ。
不審物を発見したとか、電気設備が故障したとかではない。
そもそも安全面に一層の気を配っているモノレールがそう簡単に止まるはずがない。
車内のアナウンスには、原因は調査中と繰り返されるばかり。
その後、何事もなかったかのようにモノレールは再び発車し、その後当然ダイヤが乱れた。
他にも、近くの動物園でゾウが檻を突き破って逃げ出したり、晴れているにも関わらず、家の近くを流れる川が氾濫しそうになったり。
極めつけは今朝届いた謎の学校からの招待状だ。
その事実に、勇香は軽微な頭痛に襲われる。
勇香はそれを紛らわすためにも、喉の奥にバターロールを一気に放り込んだ。
朝食を食べ終わると時刻は七時を回っていた。
勇香は再び歯磨きをした後、自室に戻りリュックサックを背負ってから家を出る。
勇香の通う東京都立月野森東高等学校は勇香の家からモノレールで一本の場所にある。
第一、私立はお金がかかるからやめろと言われたから家から割と近いこの学校を選んだのに。
登校中、モノレールに揺られながら勇香はそんなことを考えた。
教室についても、まだ人はまばらだった。
スマホの時計を確認すると時刻は七時半頃。この学校の一時間目は九時からなので、まだ一時間半もの時間がある。
しめたと、勇香は自席に座ってリュックを降ろすと、スマホの漫画アプリを起動する。
(昨日読んでた少年漫画の続きを読もう)
今朝の沈鬱な気持ちを紛らわすかのように、勇香は漫画を読み耽た。
「勇香ちゃんおっはよー!!」
「わっ!?」
突然、勇香を呼ぶ声と共に肩を叩かれた勇香はびっくりして後ろを振り向くと、そこには見慣れた生徒の姿が。
安芸真琴。勇香の隣の席の少女だ。
よく見れば教室にもちらほらと生徒の姿が増えてきた。
真琴は興味深そうに勇香の見ていたスマホを見つめる。
「何見てるの?」
「え、これ?最近流行ってるファンタジー漫画だよ」
「えー面白そー」
「一話は無料だから安芸さんも読んでみたら?」
「どうしよーかなー」
真琴が揶揄い紛れに首をうねらせ、勇香はそれに微笑する。二人の毎朝のたわいもないやり取り。そんなやり取りでも、勇香はほっと肩の力を抜いてしまう。
よかった、学校は普通だった。今朝の妙な一件で少しは身構えていたけど、そんなことする必要はなかったようだ。そう考えすっと緊張を解いた、その時──
「聖ヶ崎さん」
ふいに自分の名前が呼ばれ,勇香は声の主の方へ向くと、そこには話したこともない女子生徒が立っていた。女子生徒は怪訝そうな顔つきで勇香を見つめている。
「えっと、あなたは……」
「今日で、転校しちゃうんだよね」
「え?」
女子生徒に言われた事を、勇香は理解できなかった。
否、理解することを拒んだのだ。
いつもは内心行きたくないと思っていた学校でも、この日だけは嫌な現実から逃避できる絶好の場所だと思っていた。
しかし、時間というものは否応なしに過ぎていく。
勇香の周りには、女子生徒に導かれたように、続々と他の生徒たちがやってくる。
その様子を、真琴は何事かというような表情で眺めていた。
「なあ聖ヶ崎、今まで話さないで悪かった。転校するんだろ?」
「聖ヶ崎さん、何かこの学校で嫌なことでもあったの?」
「ごめんね、私たち気付いてあげられなかった」
そう口々に発する生徒たちに、勇香は悪寒すら覚えた。それもそのはずである。
勇香はあまり他人と関わることのない、内向的な性格だ。
クラスの中でも隅にいるような目立たない存在。
たまたま隣の席になった少女以外、友人と呼べる者もあまりいなかった。
それなのに、会話を交わしたこともない生徒たちが、自分が転校してしまうことを悲しんでいるのだ。
「え!?勇香ちゃん転校しちゃうのー!?」
真琴の嘘偽りのない純粋な驚き。その声に、勇香の表情はぱぁっと明るくなる。
それはまるで違う世界に迷い込んでしまった勇香に、同じ境遇の仲間ができたかのように──
「なんだ、安芸は知らなかったのか?」
お願い、やめて──彼女を違う世界の住人にするのはやめて──
勇香の心の中はそれだけでいっぱいだった。
「ねえ、このまま何もしないのも良くないし、最後に何か思い出でも作れないかな?」
「そうだ、放課後に聖ヶ崎の送別会するか!」
「いいね!じゃあ聖ヶ崎さんも連れてカラオケ行こ!カラオケ!」
生徒たちは勇香の送別会の計画を立てるためにさらに盛り上がる。
高校生らしい、しかし不自然極まりない彼らに、勇香の心はパンクしかけていた。
「勇香ちゃん大丈夫?」
「う、うん。平気だよ」
そんな勇香を心配する真琴。
ただ一人、自分の心情を理解してくれる真琴に、勇香は心配させまいと平常心を保つ。
「じゃあ聖ヶ崎さん。放課後いつものカラオケに集合ね」
「聖ヶ崎知らねえだろ」
「そうだった。安芸さん場所知ってるよね。悪いんだけど連れて行ってあげてよ」
気が付いたら、話し合いは終わっていたらしい。
「う、うん。分かった」
真琴は苦笑いのまま女子生徒の頼みを受け入れた。
「勇香ちゃん。よくわからないけど、パァーっと楽しもうね!」
「そ、そうだね……」
勇香の顔は、若干引きつっていた。
「ほら、授業始めるぞ。みんな座れー」
時刻は既に九時過ぎ。
ガヤガヤと騒がしさの残る教室内も、教師の一声で静寂に包まれた。
*
(はぁ……いったいどうしちゃったんだろう)
放課後。HRが終わると、一目散に教室を出た勇香。
下校中の勇香の足取りもおぼつかないままだった。
正直、自宅へ帰りたくない。家に帰ると、またあの話を聞かされる。
かといって学校に戻っても、見知らぬ生徒から気遣われるだけ。
だったらいっそ、下校というこの時間を大切にしたらいい。
心なしか見慣れた下校中の風景も、今日は一層美しいものに見えた。
勇香は無心で川辺の土手を歩く。歩き続ける。
やがて石の階段で下界に降り、住宅街の道を行く。
モノレールの駅にたどり着くと、リュックサックからイヤホンを取り出して耳に装着する。
エスカレーターに乗りながら、お気に入りのアニソンを流して乱れた心を落ち着かせる。
ホームにつくと、今度はただひたすらにスマホのパズルゲームに勤しむ。
勇香は必死に、辛い現実から逃げようとした。
いや違う。夢だ。これはただの夢なのだ。
でないと、両親やクラスメイトの言動に納得することなどできない。
ゲームに夢中になってモノレールが到着していたことを恥ずかしむ必要もない。
後ろに並んでいた人に迷惑がかかったことを心の中で詫びる必要もない。
──だってこれは夢なのだから。
そうだ、カラオケもドタキャンしてしまおう。
自分ひとり来なくたって、糾弾してくる人は誰もいない。
──だってこれは夢なのだから。
きっとあと少しで、目覚まし時計のけたたましい音が鳴って現実に引き戻されるだろう。
勇香はそれを信じて待ち続けた。
モノレールが自宅の最寄り駅に到着し、勇香は駅のホームへと一歩足を踏み出す。
地上へ続く階段を降り、交差点の赤信号を待つ。
いっそのこと信号を無視して車に轢かれたら、強制的に夢から覚めるのかな。
流石の勇香も、その考えだけは心の中にしまい込んだ。
住宅街の路地に入っていく。
そこで、勇香の足取りはだんだんと遅くなる。
もうすぐで自宅にたどり着いてしまう。
あの話をまた聞かされる。
早く、早く夢から覚めて。歩きながら、目を瞑って神頼み。
しかし、それが命取りだった。
ププー
突如、至近距離でクラクションが鳴り響き、勇香は慌てて瞼を開ける。
すると目の前には、今まさに自分に突っ込んでくる車が──
死ぬ。死ぬのかな?
でもちょうどいいや。これでやっと、目を覚ませる。
勇香は諦めたように、ゆっくりと瞳を閉じた。
ガシャン!!!!!
*
──夢から醒めたのかな?
勇香は恐る恐る閉じていた瞼を開ける。すると、視界は一気に眩しい光に包まれる。
自分は、ベットで寝ているのだろうか。
さっきまでのは全部夢だったのかな。
もしかしたら、あの子も……
次第に、眩しさがだんだんと和らぎ、景色が見えてくる。
しかし、見えてきた景色に、勇香は唖然として口をあんぐりと開けていることしかできなかった。当然である。
「うそ……」
──真っ白な髪をした少女が、勇香を轢いたはずの車を片手で停止させているのだから。
少女は勇香が目を覚ますなり、赤と紫の瞳を勇香に向けながらこう呟いた。
「やっと、見つけた」