第107話 演説
「そなたは、認知バイアスという言葉をご存知ですか?」
舞台袖からこれから立つ舞台を見上げながら、黒髪の女は勇香に言う。
「へ?」
「経験や先入観により、掲示や人伝などでの情報伝達に齟齬が生じてしまう心理現象のことです」
「そ、そうなんですね」
「おそらく今回の演説、彼女らは聞く耳を持たないでしょう」
「え?」
「代表的なものをひとつ挙げるならば……そなたは実の母に言われた『あなたの容姿は平凡だ』と、口八丁なスカウトマンに言われた『あなたは容姿は優れている』との文句。後者が後にでまかせだと判明した場合、そなたは初動でどちらを信頼しますか?」
「えっ、えっと」
唐突に質問されたので、口ごもってしまった。
「失敬、そなたは例外でしたね」
「あの、じゃあどうやって」
「世界の命運はそなたにかかっている。私が伝えたいのはそれだけです」
「……っ」
自己紹介でも登壇したやや広めの講堂では今頃、スーツ姿の老婆たちが壁際に隙間なく立ち並び、ぼつりぼつりと着席していく生徒たちを囲んでいる、珍妙な光景に出会えるだろう。生徒たちは、まるで鳥籠に囚われた小鳥のように。
「なに……この雰囲気」
「重苦しい~」
「委員会の人たちみんな集まってるっぽくね?」
「てか呼ばれたの一年だけ?」
司会を務めるオーシャンブルーのスーツを着た老婆は、ガヤガヤと騒々しい生徒たちに一喝した。
「まもなく委員長がご登壇されます。私語は慎みなさい」
老婆の芯のある声音にいくらか喧噪が止むと、委員長と呼ばれた白髪交じりの黒髪の女が舞台袖から姿を見せた。
「皆は盛大な拍手を」
まばらだが拍手が会場を包む。
「あれが、学園統括委員長」
「私初めて見たかも」
「いい人らしいけど……なんか見た感じ」
「ごきげんよう。この世界の最後の希望、次代を築きし勇者の卵たちよ」
講堂は、重厚感のある女の声音で静寂に包まれた。
「さて、私が登壇することによって、皆の中には肝を据える者もいるでしょう。しかしご心配なく、私はあなたの未来について、一考する時間を設けたかったのです」
疑問を持つ生徒が口々に声を漏らす中、女は何事もなく続ける。
「語りの前にご登壇を。この世界を救う真の勇者を御紹介しましょう」
演台の前に立った女が目配せすると、勇香の足が動いた。
いつもは委縮しそうな足取りも、今日は余計な力が抜けたように軽やかだ。
壇上に上がると、客席からはどよめきと共に鼓膜がジクジク痛むような耳打ちが聞こえてくる。
「えっ、うそ」
「何でアイツが?」
「陰謀説ガチだったじゃん!」
耳を塞ぎた気持ちでいっぱいだけど、女が傍に居る間は指すらもピクリとも動かせない。
顔だって傾けることすら叶わない。勇香に許されたのは眼前の生徒に目を凝らし続けることだけ。
もともと、魔力超過により身体は制御できなかった。これも自業自得である。
「ご挨拶を」
「は、はい!ひ、聖ヶ﨑勇香、です」
咄嗟の自己紹介も、生徒たちから拍手が沸き起こることはなかった。
「アイツ右腕どうしたん?」
「捥げてんじゃんキモ」
右腕代わりの魔戒腕はどういうわけか消失した。いくらか試行錯誤してみたけど復活もできない。生徒たちに惨めを晒すのは何度目だろう。
いつまで経ってもこの地獄には順応できそうもない。
「さて、皆の中には不満を抱いた者も一定数いるでしょう。彼女が正当な手段を一切踏まずに、生徒会に所属した理由」
女が告げると、耳打ちをしていた生徒たちも押し黙った。
「そして黒野妃樺・白百合聖奈の両名が、一年ながら生徒会に属する理由」
生徒たちは大して驚かなかった。その顔には緊張の色が走っている。
「両名はあなたに一度、その才覚を披露しておりますね。聖ヶ﨑勇香が生徒会に所属した際、彼女らに批判が飛び火しなかったのはそのためです」
女は演台に手を掛けながら、語気を強めに続ける。
「このような些末事をいちいち復唱する必要はありませんが、前例がありますのでもう一度。あなたの才とは『魔法を使用できる』事象そのものだと、アリスが説明しました」
向こうの世界でアリスに告げられた魔法の才。
“選ばれた”やら“特権”やらうさn……大仰な言葉の羅列で興味を誘っていたが、売り文句は事実なようだ。
それで驚愕はしない。この学園に入学したその日から、わかっていたことだから。
「なら、勘の優れたあなたなら悟っていますでしょう。そのような形容は、この世界ではもはや通用しないと」
勇香は誰よりも自分の限界を知っている。才能が似合う人間ではないのは、自他ともに共通見解だろう。
それでも、“才能”は宿ってしまった。
「もし、夢に縋り続ける者がいるのなら、此処で誅を」
観客席の生徒らに己の武器を突きつける委員会の老婆たち。
「──私から目を背けるな」
*
「えっ、なに?」
「ちょ本気?」
「裏日本流の演出じゃない?」
残念ながら、この世界に足を踏み入れた時点で、あなたの価値から“才能”は消失しました。
「悪口?」
「なんかムカつく」
「学園長案件じゃね?」
「後で言いつけちゃお」
ではなぜ、万人に共通する異能を“才能”と説いたのか……すべてを語る必要はありませんね。学園長による仕込みです。
「……っ」
直訴するならどうぞご自由に。
本題に入る前に、あなたの生存意義について私が再定義しましょう。
夢、希望、そして幸福の追求。此処に立つあなたなら持ち合わせている“生きる”理由。
例えば部活で全国大会まで行きたい、例えば勉強に励み、有名大学に就職したい。例えば皆を先導し、世界を変革せし長となりたい。
皆、無価値で無益な理由です。抱いてしまった己を恥じなさい。
「何言ってんの……」
「バカ、鵜呑みにしちゃだめだよ」
ただし、抱いた事実に非はありません。
生命の危機が極端に少ない世界に馴染み、“生きる”行為が当然と錯覚し、
絶対的な欲望を自然と忌避してしまった人間活動の結果なのですから。過ちは必然。
「……っ」
──ここで一度、己の胸に手を当ててみなさい。
あなたも感じるでしょう、鳴りやまない胸の鼓動が、燃えるような命の雄叫びが、活力の漲る感覚が。
この世の生命はなぜ生きているのか?なぜ“生”を強制されるのか?
これは持論ですが、生きるという行為が生命にとっての“使命”だから、
と私は考えております。
誰が決めたのかは知りません。目的も知りません。神の戯れか、世界の運命か。
しかし、進化の過程で思考回路を獲得した人類だけが、使命を抑え込んでまで生に理由づけができる。
理由は向こう側でありとあらゆる経験に触れるたび分裂し、それらすべての根源となる絶対的な欲望は霞んでしまう。
ですから私は、無価値だと申したのです。
この世界で勇者となるあなたには、生のため、使命のために“強くなる”以外の理由は要りません。これも魔法討伐のため、大人しく初心に立ち返りましょう。
あなたは生を受けたその瞬間に何を望みましたか?
此処でこの世界における才能についても、再定義してみましょう。
才能とは『魔王を倒すことのできる』力を持つ者。
これこそが真の勇者──英雄と形容できましょう。
もうお判りですね?才能とは、聖ヶ﨑勇香のみに宿る天賦。
残念ながら、あなたに才能はありません。
「……っ」
この事実を受け入れたうえで、あなたが成るべき勇者とは何か?
一言、“価値ある勇者”です。
価値ある勇者とは、戦いの中で己の“死”を自覚し、覚醒に至った者。
簡単でしょう?ただ経験すればいいだけの話なのですから。
「死ねってこと?」
「じ、冗談よね」
この価値に手が届かなかった木偶人形は、英雄の凱旋道はおろか、勇者の成長をも妨害する可能性がある。此処であらかじめ伝えておきましょう。
木偶人形は勇者という括りには邪魔な存在。よって、我らの前から消えていただきます。追い返すわけではありません、文字通りの意味です。その点を履き違えないように。
「「……っ」」
あぁ……処刑に関しては。我々は既に三名ほど、あなたのお知り合いに然るべき手段を実行しております。ぜひお見知りおきを。
ですが心配はいりませんよ。あなたが聖ヶ﨑勇香を含めた生徒会を“夢”と位置づけるのであれば、これくらいは獲得に容易いでしょう。
なぜなら生徒会役員は皆、価値があるのですからね。
本筋に戻します。
真の才能たる彼女が現れた今、あなたが“強くなる”ために取り組むべき指針とは……
そのための教育目標を、たった今宣言しましょう。
明朝より、あなたには夢・希望・幸福。邪な理由の数々を排除し、“生きる”の最後の砦となる絶対的欲望──生存本能をゼロから開放していただきます。
つまりは彼女が魔王のお膝元へたどり着くための、“脇役”として価値を見出す教育。
将来的には生徒会役員をトップとした魔王討伐部隊・人界防衛部隊を組織し、あなたは歩兵として何れかの下位組織へ配属を目指していただきます。
脇役……と過少な表現ではございますが、この世界の未来のためにその身を捧げることのできる、この上ない誉れですよ。
あなたはもう、安寧が保証された世界には居ない。
生気を捨て、一歩先には死があると胸に刻み、絶望に身を砕かれて生きよ。
決して才能を超えるなどとくだらぬ理由を抱かぬように。
*
「詰問は受けつけましょう。どちらにせよ明朝、あなたは彼女の才能を目の当たりにしますが」
会場は静まり返っていた。
無能者の烙印を押されたから、それとも。
「一例といってはなんですが、この映像は彼女が日々励んでいる鍛錬を記録に収めたものです。魔獣は贋作ですが、解像度はほぼ等身大です。少しは慣れておきなさい、いずれあなたも同じ舞台に降り立つのですから」
女が演台から一歩身を引くと同時に、ある映像が女の背後にあるスクリーンに投影された。
いつから盗撮されていたのか、勇香の教育課程をビデオにまとめたものだと聞いている。映画さながらの音質と臨場感が、少女たちを震え上がらせる。
十五分尺の映像が終幕し、再び喧噪が戻る。
耳を澄ましてみると、さっきまでの起伏のない雑談とは異なり、いくらか感情が籠っている生徒もいた。
「どういうこと?」
「生存欲って、全然わかんない」
その他は、“演説”の批評を繰り広げる。
「なにあれ?」
「CGじゃない?」
「あたしあーゆーピューピュー血が流れる映画好みじゃないんよなー」
「本当に映画なん?主人公アイツなのワロタ。アイツの右腕捥げてんの原作再現ってやつ?」
「てかあのおばさん前フリ長くね?校長気取ってるつもりかな?」
「それなそれな」
「脇役って何?アタシ御免なんだけど」
「ねー、早く映画行こ」
次々と席を立つ生徒たち。しかし、講堂の入口には老婆がひとり、またひとり。
帰宅を阻まれた生徒たちの渋滞を見下ろしていると、胸が苦しくなる。
「命じる──異空武具廠《開錠》」
女は手前の勇香に目を移すと、勇香の両手を取り、異界から取り出した片手剣を握らせた。
「あの……」
(絶望への到達者三分の一弱。その他の魂はまだ夢を見ていますね)
「どうやって?やり方はそなたと同じですよ。百聞は一見にしかず」
怪訝な顔をする勇香を一瞥すると、舞台袖に目を寄せる。
「アンタら──何をっ!?」
「将来有望な若者よ、」
血相を変えて飛び込んでくる灰髪の少女を、待ち構えていたかのように。
「世界を噛みしめなさい」
瞬間──少女の左腕が、跡形もなく弾け飛んだ。
「え……?」
冒頭の認知バイアスについてはいくつかのウェブサイトを参考にさせていただきました。