第94話 惨めな自分(3)
「逃走かんりょ♪」
それを使用し、瞬間移動した先。そこは教室が立ち並ぶ廊下を抜けた、ステンドグラスの窓が張り巡らされている廊下。現在位置は学院棟と連絡棟と境界付近だろう。
(本当はもう少し遠くへ逃げても良かった。でも道半ばで体力を浪費するのはマズイし、一体回避できただけマシ)
草資との距離はそうは離れてはいない。一切の足跡を残さずにここまで移動してきたわけだが、勘づかれる前に一歩でも先に進みたい。
(これ以上晒せば勘繰りを入れられるかも……しばらくは控えよう)
勇香の手を握りながら足を運んだ矢先、重たい顔をした勇香が突然陽咲乃の手を引っ張った。
勇香が床を強く踏んだことで、キュッという音がした。
「待って」
「なに!?」
「私戻る」
「は?」
勇香の発言に思考回路が停止する。即効性のゲシュタルト崩壊ってやつだろうか、勇香の言葉の意図が全くもって理解できない。
「お先真っ暗な気がして」
「何いってんの?地獄は嫌だって嘘だったの?」
「嘘じゃない」
「ならなんで」
陽咲乃の疑問に対し、勇香は恐怖に震えながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「陽咲乃は、確かに強いよ。強い、けど、先生との差は天と地って言うか……勝てっこないよ」
そんなもの、他人に忠告される以前から、自問自答が脳内をピンボールのように駆け回っている。わかりきった指摘への鬱憤は、言語として即日返済された。
「あんた、曲がりなりにもアタシに『助けて』とかお願いしといてその言い方はないんじゃない?」
「でも……でも……」
「お先真っ暗なら自分で光を灯せばいい。運命を自分の手で描くってそういうこt……って、あー、あんたに神託与えても無駄か」
「……」
「四の五の言わず、アタシについてくればいいの。それがアンタのためになるから」
陽咲乃はそう言い捨て勇香の腕を引っ張るが、勇香は後ろ脚に重心を落とし、その場を離れようとしない。いつもなら雰囲気に流されて歩き出すのに、ここぞという時に意地っ張りな態度を示すのは勇香らしい。心なしか呼吸を荒げていて、運命に焦っているようにも思える。
「なに?」
「運命は自分の手で描け、でしょ?」
「は?」
「……このままじゃ、陽咲乃に握られると思って」
「なっ、バカなこと言ってないで早く」
「いやだ!!!」
勇香は握られた陽咲乃の手をスパッと放し、同時に突き放すように叫んだ。
「は?」
「ごめん……でも……これが、最善だと思ったから」
「意味わかんないこと」
「私が行動しなきゃ、誰かがいなくなる」
「ちょっと、どこ行くの?」
勇香は踵を返すと、老婆のいる学院棟に足を降ろした。
「言ったよね。私の説得次第では、陽咲乃の罪をもみ消すことだってできるって……私、頑張ってみる」
「だからそれは……」
「陽咲乃のおかげで私、ようやく目が覚めたの。ようやく罪の重さが実感できた」
「え?」
勇香は自分の胸に手を当てて、潤んだ瞳をこちらに向けながら零した。
「霧谷先生も、藤堂さんも、学長先生も、カズラノ村の人たちも、みんな私が、『言う通りにしていれば強くなれる』と思ったせいでいなくなった」
「──っ!」
「すべて私の意思の弱さ、私への甘さが原因だった。思考停止して、現実から目を背けていたから、みんな失った」
「違う」とは否定できない。否定すれば、それは勇香に「逃げ」を強制させることになる。
「私、あの先生が私たちの前に現れて、向こう側の思惑を確信できた」
「思惑?」
「陽咲乃は学長先生を失って、絶望しても諦めなかった。いや、絶望したからこそ、初めて現実を受け入れられた。だからこそ運命を自分のものにできるんだよ。多分、普通の人はみんなそうなんだと思う」
「……っ」
「絶望しても、逃げ続けていたのは私だけ」
「向う側は最初から私の“逃げ”を見越してて、私を絶望するように仕向けていた。私を隔離したのも、みんながいなくなったのも、私が逃げないように、現実を見せるための必然だったんだよ。考えすぎだけど、私を生徒会に加入させたのだって……向う側は私が後退を止めるまで止まらない」
「今だって、先生以外誰も私たちを追ってこないのが不思議だった!向う側にとって、私たちの逃走劇は計画の一部、ただの茶番なんだよ!」
「茶番……」
「もうわかるよね?このまま逃げ続けたら、私は惨めを積み重ねるだけ」
勇香は陽咲乃に背を向けて、歩み出した。
「もう誰も失いたくない、私は前を向きたい」
それは精一杯の決意だったように思える。足は震えているし、だんだんと歩調が狭まっている。陽咲乃はしばらく傍観した後歩き出すも、先回りして勇香の進路を妨害することは簡単にできた。その背中は、『私を止めて』と助けを求めているようだった。
「ふーん、じゃああんたを変えようと努力してきたのは、アタシだけじゃなかったのか」
陽咲乃は勇香の前立仁王立ちし、鋭い視線で睨むと、勇香は心臓が跳ねあがったようにするりと身を縮めた。目を泳がせる勇香を一瞥すると、陽咲乃は勇香の襟袖を掴んだ。
「ひぐっ!」
「そんじゃ、アタシじゃ力不足って言いたいワケ?」
勇香は狼狽えたが、涙を漏らしながら小さく頷いた。
「綺麗事並べてたけど結局のところ、アタシより環境も人員も揃ってる委員会を取るってことね?」
「そんなこと言ってn……」
陽咲乃は勇香の襟袖を掴んだまま、壁に向かってぶん投げた。
「いッッッ!?」
「沸騰しすぎ、少し頭冷やしな」
投げつけられた勇香は壁によりかかったまま放心していた。次第に、肩がピクピクと鼓動すると、瞼から濁流のような涙が溢れてきた。
「もう……やだぁ」
「また噴き出す……」
陽咲乃の目も気にせず、勇香は子供のように泣きじゃくった。
自身の弱さの悔しさか、それとも──
「ひぐ……ごんな惨めなの……いやだよぉ」
陽咲乃は寄り添うわけでもなく、勇香を静観していた。
数分後、涙が枯れてきた勇香は、瞼を赤くしながら老人のようによろりと立ち上がった。
そして、学院棟へとゾンビのように歩み始める。
「はぁ……はぁ……」
陽咲乃は嘆息を吐いてまた先回りすると、勇香の両肩を掴んで壁際へ寄せ、座らせる。勇香の身体は風船のように軽く、動かすのも容易かった。陽咲乃は膝立ちして瞼を赤くする勇香と目線を合わせる。
「現実視るってんならさ、後のこと予想してみ」
「うぇ?」
「断れる見込みあんの?って聞いてんの。アタシ、あんたの決心一ミリも信用できないんだ」
陽咲乃が淡々と問いかけると勇香はしゅんと眼下に顔を下ろした。陽咲乃は卵色の両頬を握り、勇香の顔をクイっと上げて目線を合わせた。
「メンタル高野豆腐のあんたがあの舐めプ婆に中指立てるルートマップ、試しに描いてみてよ」
そう言いながら、陽咲乃は自身の頭に人差し指を当てる。
「……っ」
「無理?じゃあ土下座してみる?そんなの惨めだよね?惨めはいやなんでしょ?」
「じゃあ……どうすればいいの?」
「そんなの自分で考えてよ。アタシに運命握られるの嫌なんでしょ」
「……卑怯だよそれは」
勇香は陽咲乃の腕を掴んで自分の頬から離し、そのまま力が抜けたように壁に背中を預けた。できることなら勇香の顔の両端に付属した焼きたてのチーズケーキの感触をもう一度味わいたいが、今はそんな状況ではない。
「現実見るって口では簡単に言えるけど、あんたひとりで視点変えられたことあんの?その決意に中身はある?」
「……」
「もう一度聞くよ、『アタシの罪を軽くしろ』と一言伝えられる度胸、あんたにあんの?」
意地悪をしすぎたようだ。涙を流さまいと唇を巻いている勇香がそこにはいた。
「はぁ……で、アイツなんなの?」
陽咲乃があの老婆と対面したのは、いつの日か勇香と食堂で昼食を摂っていた一度きりだ。あの時は老婆の腹の内に潜む“何か”に警戒してはいたが、勇香の怯えようを見るに、その何かは中指を立てるだけでは物足りないようだ。
「橘草資先生、私の、元専属の先生」
「もしや、件の体罰教師?」
声に出さずともコクリと頷く。
「なるほどねぇ……勇香が啖呵を切るわけだ」
チャリチャリチャリ
「じゃあ、死ぬ気で助けなきゃな」
何かはまだしも、その強さは身をもって体感した。本人の実力、そして勇者としての魔法の引き出しの多さは、敵とはいえど脱帽する。この先あのレベルの刺客が立ちはだかると考えるなら……「逃走」を第一に考えていたとはいえ、もう少し覚悟を決めるべきだろう。
「さて……どうするか……」
「陽咲乃は、迷惑じゃないの?」
「迷惑だよ。だからと言って見捨てないのは、もうわかるでしょ?」
「でも」
「……強いて言うなら、あんたを助けて悪政を打ち倒せば、アタシは晴れて革命の乙女になれる。そしたら名声を得て勇香を生徒会から蹴り飛ばせる日が近づく。そういうチャンスの芽を、少しでも掴み獲りたいから、かな」
視覚遮断結界は対象以外の視覚を遮断するのみが趣旨のため、通常の結界のように世界を隔離されているわけではない。そのため、逃げようと思えば草資の目を盗んで逃走できる。
「だけど……陽咲乃は、惨めが怖くないの?」
「……ん、っえ?」
「だって、これで捕まったら」
「だからって、静観してたらどのみち惨めになるからね」
草資が何をもってわざわざ逃走可能な視覚遮断の結界で自分たちを奇襲したのか、陽咲乃には草資の胸中をだいたい推測できる。
「手の届く先にある理不尽を見過ごすことは、アタシにとって最大の屈辱だから」
教師として、プロとして隔離結界に頼るまいとする矜持か、はたまた“茶番”に関わる別の目的があるのか。どのみち、そう易々と逃走させてはくれまい。もしできたとしたても、委員会の思惑にまんまと嵌っただけでは真の意味で逃走とはいかないだろう。
「選んだ道の先が同じなら、アタシは悔いが残らない惨めを選ぶだけだよ」
「……陽咲乃はすごいね」
「あんたも『助けて』って言ったよね。なら大人しく頼り……いや頼り死ぬまでとことんアタシを利用しなさいよ」
思惑話にしろ、隔離結界を展開されたらいよいよ逃げ切ることは不可能となる。
元よりこの方法でなければ幾重にも巻きついた魔法縄を打破することはできなかった。隠密の魔法具はまだ機能しているうちに、ゴールまで突っ走るのが最善だ。
「じゃあ……あの」
「なに、さっそく?」
「いや、その」
「どうした?」
「その、トイレ……」
「へ?」
会話の隅で計画を吟味していた陽咲乃も、勇香の突拍子のない告白で思わず声を張り上げてしまう。あまりの緊張のなさに陽咲乃は脱力感に襲われ、膝ががくりと折れそうになった。
「しょうがないじゃん!!」
「はいはい、怖くてチビった?ちょっと待ってね、タイミング見て駆け込むかr……」
チャリチャリチャリ
「っ!?」
ドシャッッッッッ
「──っ!!!!!」
「陽咲乃ッッッ!?」
(同じ轍はふませねぇよ!!!!!)
空から解き放たれた衝撃破は、陽咲乃が咄嗟に展開した防御の魔法具をいとも容易く破壊する。
「ぐっ!!!!!!!!」
全身を揺るがすその衝撃に、陽咲乃は数メートル吹っ飛ばされ、地面に叩きつけられた。しかし、陽咲乃は即座に身体を起こす。
「はぁ……はぁ……」
その瞬間、自身の前方に夥しい轟音と熱波を感じ、顔を上げた。
「……っ!!!!!!」
轟轟と燃え滾る隕石のような無数の火球が、陽咲乃に向けて次々と猛襲している光景。
「──焔驟雨」
「チッ、舐めやがって!!!!!」
老婆は『焔驟雨』などと聞き覚えのない魔法を口にしたが、あれは草資が勝手につけた必殺技の名前だろう。あの老婆は見かけによらず、家庭科のドラゴンエプロンを未だにカッコいいと信じる人種なのかと邪推に持っていかれるが、今はそんな状況ではない。
その中身は機能付加【複製】を初級魔法の「ファイアボール」に付与しただけのこと。
火球ひとつは運動会の大玉転がしに使用される球程の大きさで、ファイアボールにしては巨大すぎる。おそらく機能付加【巨大化】でも付与しているのだろう。
【複製】は単が複数に増えた状態で出現するだけで、その出現位置は完全ランダム。強いて言えば、一粒直径十メートルを超える小雨が降り進む奇妙な状況なだけだ。つまり、これらの火球は陽咲乃を標的にしているわけではない。これなら回避できる。
陽咲乃は火球ひとつひとつを鋭い目で捉えると、地面を勢いよく蹴って火球の先の草資を目指す。火球に迫ると瞬時に身体をひねり、飛び跳ね、転がりながら、横殴りの時雨に舞う。
(ていうか、明らかに空間拡張してるよねこれ!!!)
迫りくる火球に視線が吸い取られても、これだけははっきりと解った。
背景が浅葱色に変色していると。
火球が陽咲乃をかすめるたびに、熱波が肌を焼いた。その度に陽咲乃の心臓が止まりそうになる。
眼前には、まるで地獄を優雅に傍観しているように冷笑する草資がいた。その冷笑が陽咲乃を奮い立たせた。
陽咲乃は草資の目前までたどり着いたところで短剣を構え、傍らで手を突っ込んでいたポーチから魔法具を取り出す。
陽咲乃が魔法具を地面に叩きつけると、瞬く間に濃密な煙幕が立ち込め、草資の視界を完全に奪い取る。
煙幕の中で、陽咲乃は素早く別の魔法具をばら撒き、陽咲乃の形を成した三体の分身を作り出す。煙幕を突き破り、陽咲乃とその分身たちは一斉に一直線に突進し、草資に迫った。
草資に近づくにつれ、どこからともなく吹き始めた向かい風が一層強まった。
草資は再び炎の魔法の発動を試みたが、陽咲乃の圧倒的なスピードに追いつくことはできない。陽咲乃の左手に握られた刃が、まるで閃光のように草資の頸筋へと──。
ズブッッッッッ!!!!!!
肉薄した瞬間、目を塞ぐほどの暴風が吹き荒れた。それはまるで視認できない障壁のように草資を護り、陽咲乃は立ち止まってしまう。
「くっ……!!!」
いや、閉鎖された空間に風が吹いているわけではない。そもそも、草資は風属性の魔術師ではないはずだ。では誰が──
行き着いた状況は、陽咲乃にとっては理解し難いものだった。
「違う……これ」
陽咲乃は物理的な暴風に阻まれたのではなく、草資から放たれた、最大瞬間風速百キロメートルを超えるハリケーンのような圧に、足が竦んで動けないのだ。
草資を見つめるうちに、まるで金縛りに遭ったかのように身体がビリビリと硬直し、心臓が高鳴る。まさに生命の危機を知らせる暴風警報。
(ビビるな!!この感情は克服しただろッッ!!!)
一方の草資は、陽咲乃を見て目を丸くしていた。
「何驚いてんだよ!?」
「いえ、さすが、本物は殺意の格が違いますわね。天照」