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夏休みの補講

時代背景は2000年ころと思ってください。

出てくるテレビはおそらくブラウン管です。


 呼び出しチャイムで、あたしは目を覚ました。ピンポンピンポンうるさい。どうしてあの音は、あんなに耳障りにできているんだろう。かまわずまた寝ることにする。チャイムは六回ほど鳴っていたけれど、そのうち諦めたのか静かになった。

 今度は、テーブルの上にあった携帯電話が鳴る。これも耳障りだ。椎名林檎なんてもう絶対歌ってやらない。CDもかけてやらない。あたしは唸りを発しながら半開きの目で電話を取った。頭が重い。

「……はい」

「やっぱり寝てたのか。いまおまえんち前にいるんだけどよ、呼び鈴鳴らしても出てこないから……」

 そこまで聞いて携帯から耳を離した。電話の向こうで、まだ何か話をしている。どうせまたあたしが高校に行かないことについて、そろそろやばいよ、とか、なんで来ないの、とかそんなことを延々しゃべっているのだろう。聞く気にもならない。あたしは重い身体をなんとか動かしてドアの前まで行って、鍵をあけてやる。

 そのままドアを細くあけると、携帯を手に持ったままの男の子が見えた。いや、男の子というには大人すぎるかもしれない。あたしと同い年で、小中高とずっと一緒の学校に通っている子だ。

「おう」

「……なにしにきたの」

「べつに。最近顔見てねえなあ、生きてんのかな、と思って」

「……ふうん」

 それだけ言うと、あたしは部屋に取って返した。冷蔵庫の中からトマトジュースを取り出して、ペットボトルにそのまま口をつけて飲む。つめたくて、しょっぱくて、ここちいい。寝起きで乾いていた口、のど、内臓に、つめたい粘液が降りていくのがわかる。

「おまえ、なんて恰好してんだよ」

 あたしがひっこんでから、勝手に家の中に入ってきた彼が言った。

「……寝苦しかったから」

 ひとこと答えて、またトマトジュースに口をつけた。湿り気のあたえられた舌に、トマトと食塩の味が伝わる。

 あたしは、薄いティーシャツとショーツしか身につけていない。学校に行かなくなってから、ずっとこの恰好で暮らしている。唯一の肉親である母親は、そんなあたしについて、何も言わない。いや、何も言えない。滅多にこの家に帰って来ないんだから。芸能人のマネージャー、というのはそんなに忙しいものなんだろうか。たまに帰ってきても、すこし眠って着替えだけもってまた出ていってしまう。会話は、ない。あっても、「あ、帰ってたんだ」「ちょっと着替え取りにね」くらい。着替えくらい、事務所に置いとけばいいのに、といつも思う。あの人にとって、あたしが高校に行っていようがさぼっていようがどうでもいいことらしい。

「寝苦しいとかじゃなくて、すげえ色の組み合わせ」

 あたしは彼の言葉に自分の姿を見下ろした。目の痛くなりそうなくらい明るい黄色のティーシャツの真ん中に、黒で文字が書かれている。そして真っ黒のショーツ。

「工事現場みたいだな」

「そう?」

「ああ。工事中キケン、って看板みたいな配色だよそれ」

「……ふうん」

 言われて自分の服を見下ろすと、確かに、黄色、黒、黄色、黒、のストライプだった。でも、言われるほどすごい恰好だとは思わない。

 あたしはもうひとくちトマトジュースを飲もうかどうしようか迷っていたが、結局やめて冷蔵庫に仕舞った。

 一学期、突然高校がつまらなくなった。それまでも、けっしておもしろいと思っていたわけじゃないけれど、受験勉強を必死でやっているクラスメイトの渦に、入れなかった。いや、入りたくなかった。

 国立受けるとセンター必須だし、とか、早慶に入れればあとはどうでもいい、とか、そんな話題が増えてきた。あたしも勉強はやればできたから、いい子ぶってクラスメイトに英語や数学を教えていたけれど、いい大学に入ってなにをするのかわからなかった。遊ぶため? 自慢するため? それともあたしの母親のように、とてつもなく忙しい時間を手に入れたいから?

 それが逃げの思考だとわかっていても、大学に入ったあとのことを考えてしまうと、どうしてもやる気がでなかった。なんのためにあたしは存在しているのか、なんであたしは生きているのか、あたしはなにをやりたいのか、なにもかもわからなかった。目の前のことに目を向けるのが、とてつもなく億劫だった。遅刻しがちだった高校は、ついに一週間前から無断で欠席している。

「三浦が、電話しても繋がらない、って心配してたぞ」

「で、なんできみがあたしの家に来るわけ。クラス違うじゃん」

「誰かが三浦に言ったんじゃねえの。帰りのSHRでおれ三浦のとこ行けって呼び出されて」

「誰だろ」

「さあな。おまえのこと知ってるか、って訊かれて、小学校から一緒だ、って言ったら様子見てきてくれって」

「……ふうん」

 あたしは冷蔵庫に凭れかかるようにして立ちあがった。彼はため息をつくと、工事現場色の服に身を包んだあたしを見て言った。

「おまえさあ、おれだってとりあえず男だぜ。服着ようとか思わないのか」

「思わない」

 彼はもう一回ため息をついた。「きみが幸福に寝てるあたしの邪魔したんじゃん。あたしいつもこんな恰好で寝てるんだから関係ない」

「理由になってないし、さっきと言ってること違う」

「いいの。それよりきみこそあたしの下着姿見て興奮しないの」

「うちじゃ、姉貴も妹も風呂上りにずっとそんな恰好でうろうろしてるから、おれには免疫がある」

 彼は、キッチンの椅子に腰を下ろした。

「ふうん」

「そんな黒いパンツは履かないけどな」

「くろー」

 あたしはティーシャツをまくりあげて彼の前にショーツをさらけ出した。彼はすこしあたしを見たけれど、すぐに目をそらせた。

「ばか」

「あ、かわいい」

「胸見えてんだよ」

「えっちー」

 あたしは笑いながら彼の向かいに座る。

「どうでもいいよ。それでさ、おれ報告しなきゃいけないから聞くけど、学校どうすんだ」

 彼があたしの目を見た。あたしも彼の目を見てみる。綺麗な黒だな、と思う。

「んー、どうしよう。べつに行かなくてもいいな」

「いいわけねえだろ。おまえ卒業できなくなるぞ」

「……だって、つまんないし。……起きれないし」

 彼はまたため息をついた。

「それじゃ、そうやって三浦に報告しとくからな」

「どうぞ」

 あたしがそう言うと、彼はあきれたように部屋の中を見まわした。

「しかし、おまえんち、どうなってんだ」

「……どう、って」

 部屋の隅には、ごみ袋が五つたまっている。このテーブルも、もう何日も拭いた覚えがなくて、汚い。奥の部屋には、敷きっぱなしになった布団が見えている。さっきまであたしが眠っていた布団だ。枕元にはティッシュが散乱している。あたしは寝起きに鼻が詰まるので、どうしても枕元にティッシュがないとつらい。そのおかげで、布団の横に丸めたティッシュが散乱している。

 確かにひどい状態かもしれないけれど、あたしの家ではこれが普通だ。彼が続けた。

「最近、なにやってんの」

「……寝てる」

「食い物は」

「……トマトジュースとツナ缶」

「それしか食べてないのか」

「だって、食べる気しないし」

 食べる気がしないというより、何もやる気がなかった。何もしたくなくて、一日中布団の中で横になっていた。喉が乾いたらトマトジュースを飲んで、おなかがすいたらツナ缶を開けて、退屈になるとゲームをつけて過ごした。でも今日は、突然の闖入者のおかげで、また眠る気にもなれなかった。あたしは伸びをしながら、奥の部屋に向かって、テレビのスイッチを入れた。年代もののテレビで、電源を入れてから画面が明るくなるまでに時間がかかる。

 そのあいだ、彼は下を向いて何かを考えているようだったけれど、何も考えていないようでもあった。

「きみ、これからどうするの」

 あたしはキッチンを振り返って、彼に向かってすこし大きい声で尋ねた。

「……帰る」

 彼は振りかえりもせずに、ただそう言った。あたしはゲーム機の電源を入れた。やけに角々しいパルス音楽がテレビから流れる。

「……ふうん」

 あたしは、テーブルの横にあぐらをかいて、コントローラーを握った。ゲームをはじめると、キッチンからこっちを見ていた彼が言った。

「それ、なんのゲーム」

「バルーンファイト。知らない?」

「知らない」

「あたしこれ、アイスクライマーに匹敵するアクションゲームだと思うんだけど」

「……おまえ、アクションゲームって意味、わかって言ってる?」

「詳しくは知らない」

 彼はしばらくあたしのゲームする姿を眺めていたけれど、それじゃ、おれ行くわ、と言って立ちあがった。

「えー、行っちゃうの。一緒にゲームしようよ」

 そう言った途端、雷にやられてキャラクターが死んだ。

「……いや、帰らなきゃ。勉強しないと」

 そう言って席を立った。あたしは彼を見送ろうと、コントローラーを置いて、キッチンに戻った。

「受験するの」

「するよ。……おまえ、しないのか?」

 ポーズをかけていなかったゲームは、とっくに敵にやられて、オープニングのデモ画面が流れている。

「わかんない」

「わかんない、って、おまえ成績いいんだろ」

「……うん。でも」

「なに?」

 彼と目が合った。彼はあたしが言葉を発する前に続けた。「家庭の事情か」

 一瞬返事に詰まった。彼はあたしが片親だということを知っている。彼の顔は、まずいこと聞いたかな、というのが半分、あたしに同情しているのが半分、というように見えた。

「ううん、そんなことない」

 全然、考えたことはなかった。あたしには、父親がいたことはなかったけれど、お金で不自由したことはなかった。母親の稼ぎはそこそこあったし、住まいだって都営住宅だ。収入を申告して、暮らしに影響ない、と都が判断したぶんしか、家賃は持っていかれなかった。それに、どうしても大学に行きたい人は、奨学金制度がある。だから、家庭の事情なんて大層な言葉で表現してもらわなくてもいい。高校をずるやすみしているのも、大学に行きたくないのも、全部あたしの怠慢なんだから。

 けれど、あたしの出した声は、思ったよりちいさかった。

 だめだ、これじゃ、同情してくれ、って言ってるようなものじゃない。案の定彼は、玄関前で立ち止まったまま、あたしの顔をみつめている。何を考えているんだろう。

「あの、」

 彼が何かをしゃべりだす前に、あたしから口を開いた。憐れまれるのはいやだった。かわいそうだとか大変だとか同情されるのはいやだった。あたしは小さいときからずっと、大変だね、と言われ同情されてきた。けど、そもそも父親はずっといなかったから、あたしには父親のいない大変さ、というものがわからない。片親だということで有利になるよう配慮されたとき(ごめん、ご飯作らなきゃいけないの、と言えば夜遅くまでかかる部活も文化祭の準備もなにもかも簡単に早退できたし、親子面接や家庭訪問は大抵、まずあたしたちの都合のいい時間に、と言ってもらえた)はその権利を当然のように受け取ったけれど、本当はなんとも思っていないのだ。そういうわけで、触れた途端に相手の気分も沈みこませてしまうこの環境は、本当にめんどくさかった。

「……しない?」

 キッチンで突っ立っていた彼は、あたしに向かってあきらかに疑問の顔をした。

「なにを」

「えっち」

 子供の遊ぶ声が聞こえる。外は曇っているのか、部屋の中が妙に薄暗く感じた。彼の顔がはっきり見えなかった。

 あたしは何のためらいもなくその言葉を口にした。けれど、言ってから体温がすうっと下がっていくようだった。

「どうして」

「……わからない。きみとならしてもいいかな、って思っただけ」

 いままで気にならなかった冷蔵庫の音が、ぶーんと低く唸っているのが聞こえる。

「いままで、したことあるの」

 あたしは何も言わなかった。ただ、彼の顔をじっと見つめていた。「やめといたほうがいいよ」

「どうして?」

「だって、おまえいま、普通じゃないし」

 彼は、ゆっくり言葉を切ってしゃべった。あたしが普通じゃない、と。それはどういうこと? あたしのどこかがおかしくて、彼にそれがわかる。普通じゃない、変なとこのあるあたしなんか、抱きたくない、っていうことなのか。

 彼の言葉に対して、あたしはしゃべりだした。

「なんで? きみ、あたしの普通をどこまで知ってるの? あたしが普通じゃないから、セックスしたくないの?」

「そんなにいっぺんに言われても」

「それとも、あたしとじゃ嫌なの、そうなんでしょ」

 本当は、そんなこと、ひとことも言うつもりはなかった。こんなこと、全然思っていなかった。自分がこんな、お昼のドラマみたいなせりふをしゃべっているなんて信じられなかった。でも、彼から「普通じゃない」というせりふが出た途端、あたしにはあたしをとめることはできなくなった。ねえ、どうして嫌なの、あたしはじめてなのに、はじめての子がきみとしたいって言ってるのに、どうしてしてくれないの、きみに他の子がいてもいい、その子にもちょっかいださない、だからしてよ、きょう一回だけでいいから、ねえ、おねがい、行かないで、帰らないでよ、そんなにあたしとするのが嫌なの。

 断られたことがとても寂しかった。だから、そこから目を離すように、あたしは勢いよくしゃべった。どこからが自分の思考で、どこからがあたしの口から出た言葉なのか、もうわからなくなった。ちょっと待てよ、という彼の声が聞こえた。でも、彼の声もあたしを遮ることができず、一旦流れ出したあたしの言葉は止まらなかった。

「ねえ、して。してよ」

 気付くとあたしは彼に抱きしめられていた。あたしから抱きついたのかもしれない。あたしが落ち着くまで、彼はずっとそうしていてくれた。あたしは泣きながら彼の身体をおもいきり抱きしめた。


 次の日、あたしはまた呼び鈴で目を覚ました。あーい、と言いながら無理やり身体を起こすと、宅急便だった。母親が服を送ってきたのだ。ああ、ハンコ、と寝惚けながら言うあたしの姿を、宅急便の人がやけにじろじろ見ている。あたしがやっとのことで印鑑を押すと、小柄なその男のひとは、お休みのところ失礼しました、と言って出ていった。自分の服装を見下ろすと、今日は白いキャミソールにえんじのショーツという組み合わせだった。ブラジャーもしていなかったから、朝から大サービスだ。

 あたしは、ここ数日そうしているように、トマトジュースを飲んだ。喉を鳴らしながらそのつめたくて赤い粘液を流しこむ。そうして、くはぁ、と一息ついてから、ダンボールを彼女のへやに押しこんだ。

 高校についたのは昼休みだった。

 あまり来たくなかったけれど仕方ない。家の中にひとりでいる方が、遥かに不健康だし、非建設的だ。それが一週間学校をさぼってわかったこと。きっとそんなことは、誰もが知っているんだろうに。

 でも、あたしの目指すものはやっぱり何も決まっていない。やりたいことがないから、大学も決まらない。高校三年の夏になって、まだ学部すら決めてない受験生は、そういなかった。


 昨日は彼がずっと一緒にいてくれた。

 どれくらいの時間、彼に抱きついていたんだろう。あたしが落ち着きを取り戻したとき、外はすでに暗くなっていた。あたしの頭をゆっくり撫でていた彼は、あたしが落ち着いたことがわかると、身体を離して、大丈夫? と聞いた。あたしは、頷いたりするのがなんだか恥ずかしくて、彼の胸を見ながら、おなかすいた、と言った。

 じゃ、うちで食べるか? と彼が言ったのであたしはびっくりして首を振った。そんなつもりじゃなくて、と咄嗟にあたしは身体を離して彼を見た。彼はいつの間にこんなに背が高くなっていたんだろう。高校でも会えば話はしていたけれど、幼稚園や小学校の頃のイメージが強くて、あたしのなかでは「男性」というよりも「男の子」という感じがしていた。

 そして、結局なりゆきで彼の家でごはんをご馳走になった。よく知っているはずの彼のお母さんが、いつでも来てちょうだいね、なんて言うので、不思議な気持ちになった。


「おい、聞いてるのか」

「えっ」

「えっ、じゃないだろ。おまえんち大変なのはわかるけど、これ以上さぼるようだと、教員会議通らなくなるぞ。おまえ、遅刻も多いし」

「あ、はい、はい。来ます。きっちり。……なるべく」

 あたしは職員室に呼ばれていたんだった。目の前には担任の三浦が座っている。

「なるべくじゃないだろ。とにかく、一学期はあと二週間しかないんだから、ちゃんと一時間目から学校に来ること」

「えー」

「えー、じゃないだろ。いいか、来いよ。大学受かっても卒業させねえぞ」

 あたしはしぶしぶ、わかりました、と言った。

「おい、知ってるとは思うが、明日から期末テストだぞ。さぼっても追試なんて受けさせねえからな」

「えー」

「だから、えー、じゃねえ、学校出てこいよ、わかったな。返事は」

「……はい、でもあの」

「なんだ、まだ言い訳あるのか」

「いや、言い訳じゃないんですけど」

 あたしは三浦の顔を見た。「あたし、行きたい大学、ないんです」

 三浦は一瞬、不思議そうな顔をした。そのあと一呼吸おいてから、進路や家庭のことで相談があるんなら話は聞く。でも来ないと卒業させないからな、と言った。あたしは、わかりました、ありがとうございます、と言って職員室を出た。

 彼にしても、三浦にしても、やさしいんだ。どうして人間は、ひとにやさしくできるんだろう。

 期末テストはなんとか全部受けた。

 すぐに結果が返ってきて、あたしは二百四人中、五十三番だった。二年の最後は二十番だったから、かなり落ちていることになる。あたしがさぼってたのもあるんだろうけど、まわりが必死になりだしたんだろう。あたしはうまく頑張れない。やっぱり必死になれない。

 勉強、嫌いじゃない(偽善や説教ばかりで辛気臭い古文だけは好きになれなかった)。でも、やっぱり必死になれない。そんなことを考えているうちに夏休みになって、あたしはすぐにまただらだらした生活に戻ってしまった。

 高校で補習やってるから来いよ、と彼から連絡があった。暑い日が続いていた。あたしはブラウスを着るのがめんどくさくて、白いティーシャツに制服のスカートを履いて高校に向かった。

 あの日から彼はあたしのことを気にかけてくれている。あたしもなんとなく、彼に甘えてしまっていた。

 そういうことには目ざとい人というのがどこにでもいるように、あたしも彼とのことに詮索を入れられた。でも、そのたびに適当にはぐらかしていた。噂が立とうが立つまいが、あたしはどうでもいい。

 あたしは、高校に行くべくだらだらと自転車のペダルを漕いでいる。道路はすいていた。平日の十一時だ。通勤時間を外れると、あたしの通学路は、みごとに人通りがなくなる。あたしは道の真ん中に自転車を走らせた。

「あついなあ、もう」

 ひとりでに声が出ている。アスファルトの照り返しとクーラー室外機のせいで、本来の暑さが増幅されているみたいだ。ハンドルを握るてのひらはとっくに汗でぐちゃぐちゃになっていて、鼻の頭にも汗をかいているのがわかる。空は健康的なほど青い。雲は憎らしいほど白い。

 ちっくしょう、とまたあたしはひとり呟いて、自販機の前で止まった。ポケットから小銭を出して、銀色の缶を選ぶ。ごとん、鈍い音がして出てきたそのプルタブを、間髪いれずにあける。かしゅ、しゅー、出てきた泡をこぼさないように吸ってから、一気に黄金色の冷えた液体を喉の奥に流しこむ。おもわず目をつぶってしまう。冷えた液体が喉から胃に降りるのがわかる。体温も一気に二度くらい下がったんじゃないか。

 あたしは自転車に跨ってから、もうひとくち胃に流しこんだ。今度はビールの苦味があたしの何も入っていない胃に心地よく染み渡った。ふう、と一息ついてから、また自転車を漕ぎはじめる。

 高校についたとき、あたしはみごとに酔っぱらっていた。久しぶりのアルコールというのは身体にこたえるらしい。それともただ不摂生がたたったのだろうか。あいかわらず主食はトマトジュースとツナ缶だった。

 駐車場のベンチでぼんやりしていたら、彼から電話が入った。学校来てないのか、と聞かれたので、外にいる、と答えた。どうした、と聞くので、酔い冷まし、と答えた。暫くすると、構内の自販機で買った烏龍茶を持って、彼がやって来た。やっぱり、彼は、やさしい。

 彼の買ってくれた烏龍茶を飲みつつ、ふらふらしながら彼のあとをついていった。校舎に一歩入ると、ひんやりとした空気があたしをつつんだ。暴力的な日差しのなかから日陰に入って、一瞬目の前が真っ暗になる。いままでうるさかったあぶらぜみの鳴き声も急に遠くに聞こえた。

「今日はベスト8だから、授業どころじゃないよ。みんな共通履修室でテレビ見てる」

 人はまばらで、あたしのクラスの教室に、違うクラスの人がいて、隣のクラスの彼も、あたしの前の席にいた。

「ベスト8?」

「高校野球だよ。今日準々決勝なの」

「へえ」

「興味なさげだなあ」

「だって、野球ルール知らないんだもん」

 ゆっくり烏龍茶を飲むあたしを見つめて、彼が言った。

「もしかして、打ったあと三塁に走っちゃうタイプ?」

「なにそれ」

 烏龍茶はもうそれほどつめたくなかったけれど、うすい苦味が胃を締めて、気持ちがよかった。

 あたしたちは午後の講義を受け(長文英語。受講者は十人しかいなかった)、ふたりしてゆっくり自転車を走らせた。野球は勝ったらしい。彼が、明日は補講に出ないで野球応援に行こうか、と言った。

 朝起きるのだけでもめんどくさいあたしなんかをどうして誘うんだろう。

「だってほら、高校最後だろ。制服着て応援するの、今回が最後になるんだぜ」

 あいかわらず道路には人がいない。セミだけが気持ちよく夏の音を発している。公園の横を通りぬけるときなんて、耳の横で大量の鈴を鳴らされているみたいだ。

「いいけど、あたし行ったことないし、制服で行かなきゃ行けないの?」

「制服でなくてもいいけど、制服だったら、生徒割り引きで安く入れるよ」

「そうなんだ」

 公園にも誰もいない。こんな暑いときにわざわざ外に出るひとなんていないんだろう。でも、あたしがちいさかったころは、暑かろうが雨に降られようが、夏休みには誰かが公園にいた。

 あたしは、じゃ、いいよ、行こう、と言った。どうせ補講なんて問題集を解いているだけだ。むしろ彼に呼ばれなかったらあたしは補講にすら出る気はないのだけど。

 彼は、待ち合わせ時間を決めようとしていたが、あたしに何を言っても確実性がないと思ったのか、結局最後にはあたしの家まで迎えに来ることになった。

 あたしたちはなんとなく別れづらくなって、彼があたしの家について来た。鍵を開けたとたん、閉じた空間の空気が、むっと流れ出した。あたしは、奥の部屋に入って手早く窓を開けていく。風が流れるようになると、一息つく前に制服を脱いで、ハンガーにかける。

「この部屋、暑いでしょ、ごめんね」

 あたしが言うと、すでにソファに座っていた彼は、

「暑いのはいいんだけど、その恰好はなんとかならないのかよ。おれだって男なんだけど」

 と言った。スカートを脱いだあたしの姿は、ティーシャツとショーツだけだった。

「このまえよりティーシャツ厚いし隠れてるじゃん」

「その見えそうで見えないほうが、男としてはむらむらくるんだよ」

「……そういうもんなんだ」

「そういうもんなの。見えたときのありがたみが違うね。うちの姉貴にも教えたいとこだけど、ぶん殴られそうだからさ」

「ありがたみ、って」

 言いながらあたしは吹きだした。彼も笑っていた。あたしは奥の部屋からショートパンツを引っ張り出してきて、履いた。

 あたしたちはやることもないので、たまには受験生らしく勉強をしよう、ということになって、ふたりで問題集を広げた。英語のイディオムをぶつぶつ唱えながら紙に書いていき、長文和訳で辞書を繰った。二学期からはじまる有機化学の部分を教科書から書き出して、整理した。

 途中、喉が乾いて、あたしは冷蔵庫の前で、ペットボトルのままトマトジュースを飲んだ。

「……あ、何か飲む?」

 彼に聞いた。「トマトジュースしかないけど。あとはカルピスの原液が」

 あたしは冷蔵庫の中を見ながら言った。

「あ、それじゃ、それ、そのままでいいや」

 彼は、あたしの持っているペットボトルを指差した。

「うん、トマトジュース、って久しぶりに飲んだ」

「へえ。どう?」

「悪くない」

 あたしは彼から受け取ったペットボトルにまた口をつけた。つめたさとしょっぱさが混じって喉を通る。気持ちいい。

 外で、五時のチャイムが鳴った。その音を合図になんとなくあたしたちは一息ついた。普通の家だったら、ここでケーキやアイスが出てくるんだろうけれど、いま、あたしの家にそんなものはない。念のため冷凍庫も開けてみたけれど、いつ作ったのかわからない氷とアイスノンがあるだけだった。

「どうする?」

 あたしは冷蔵庫に寄りかかりながら聞いた。もう帰る? というニュアンスをこめて。

「おまえさあ、どこ受けるの」

 けれど彼は伸びをしながら、あたしの聞いたこととは全然違うことを言った。あたしは下を向きながら答えた。

「……あたし、まだ決まってない」

「そうか」

「やりたいこととか、得意なこととかないし」

 彼はただ黙って指を伸ばしたり首を回したりしていた。

「おまえなら、受験直前に進学先決めても、大抵なんとかなるだろ」

「うん、みんなそう言うんだけどね。本心はどう思ってるのか知らないけど。……ほら、志望校教えたがらない人、っているじゃない」

「ああ……」

 彼はぼんやり呟いた。いつのまにか、外から聞こえるセミの声がまばらになっている。セミたちは、昼や夜をどうやって判断しているんだろう。

「どうしたの。そうだ、きみはどこ受けるの」

「都立大の建築」

 彼は、すっ、と呟いた。

「へえ、もう決まってるんだ」

「でもまだ一度も合格ラインに達してない。A判定どころか、C判定も出ない。やっぱ無理かな」

 彼は、ばたっと倒れて、テーブルとソファのあいだに横になった。

「でも、目標があった方が、勉強する気になるでしょ、きっと」

 あたしはキッチンから自分の座っていたところまで戻って、彼の頭を叩いた。「あんまり掃除してないから、そんなとこに寝転がると汚いよ」

 彼はゆっくりと身体を起こした。

「勉強してもしても、頭に入らないっていうのか、成績に出てこないっていうか」

「そんなことないって。いままではきっとヤマが外れてるような感じなんだよ。そのうち結果出てくるから、やめちゃだめだよ」

 あたしは知っている。勉強ほど、期待を裏切られないものはないことを。世の中には、努力しても我慢しても、期待を裏切られっぱなしのことなんて、たくさんある。勉強は、すればするだけ、結果が数字で表れてくれる。多少のばらつきはあるけれど、努力が確実に表れてくれるものなんて、他にないじゃない。あ、だからあたし、勉強するの、嫌いじゃないんだ。

 あたしは、やりたいことの決まっている彼に、その進路を諦めてもらいたくなくて、がんばらなきゃ、そう言った。

「うん、がんばらなきゃな」

「そうだ、あたしもそこ受ける」

 彼はびっくりしたように、どうして、と言った。あたしは彼の目を見ると、言った。

「きみと一緒のとこ行けたらいいな、と思って。ほら、せっかく小学校から一緒なんだから」

「そんなんで志望校決めちゃっていいのかよ」

「いいの。あたしどうせやりたいことないんだから。きみと一緒のとこに入る、っていう目的だけでもあった方がいいでしょ」

「そりゃ、そうかもしれないけどさ」

「だから、あたしの目的のためにも、きみは絶対に受かること」

 彼は、わかった、と笑った。

「でも、おまえ、この前より大分よくなったな」

「なにが」

「ほら、この前、おれが三浦に様子見て来いって言われたときはぎりぎりみたいな気がしてさ。あのときより、明るくなった」

「あ、うん。……きっときみのおかげ。気を遣ってくれたり、一緒にいてくれたりしたから」

 ひとりでいると、どうしようもなく沈んでいってしまうときがある。誰かと話をしたくても、うちには誰もいない。誰かにすがりたくても、あたしには誰もいなかった。あたしがどうしようもなく沈んでいたときに来てくれた彼は、あたしを救ってくれた。もう今は、このまま目が覚めなくてもいい、なんて思いながら眠りにつくことはなくなった。「……そう、きみのおかげ。だから、ありがと」

 あたしはそう言うと、彼の唇に、さっとキスをした。

 一瞬固まったあと、真っ赤になった彼を見て、あたしまで照れくさくなってしまった。

「なに赤くなってんの。こっちまで恥ずかしくなるじゃん」

「え、や、だって」

「あたしのパンツ見てるくせにキスで赤くなるなんて」

「……ん、なんか、いいじゃんかよ。ちょっとどきどきしたんだよ。見るなよ」

 彼が顔を隠すように手で覆っているのがおかしかった。

「やだ。見る」

「なんだよやめろよ、俺見ると恥ずかしいんだろ」

「でも見る」

 あたしは笑った。

 そういえば、彼といるようになってから、あたしは、笑うようになった。

 一息つきすぎたあたしたちは勉強道具を片付けて外に出た。シャープペンの調子が悪かったので、新しいものを買いに行く、と言ったら、彼も一緒に行く、と言うので、ふたりで小学校の前にある文房具屋に寄った。いくつか試し書きをして、シャープペンをひとつと、消しごむをひとつ、色ペンを赤、緑、水色、と三色買った。彼もつられたのか、色ペンをふたつ買っていた。そのままあたしは、トマトジュースとカルピスしか入っていなかった冷蔵庫を満たすためにスーパーに行き、彼は家に帰った。

 次の日、彼は予告通り、野球観戦のために朝からあたしを迎えに来た。あたしはといえば、そのことをすっかり忘れていて、またもや呼び鈴で目を覚ました。というより、野球の話はしたけれど、帰り道のそれきりで細かい話はなにもなかったから、本当に応援に行くつもりだと思っていなかったのだ。

 えー、なんでこんな早くから来てるの、まだ九時じゃん、と寝ぼけながら言ったあたしに彼は、野球応援行くって言っただろ、ほら、早く制服着ろ、と言った。

「ほんとに行くのー?」

 寝起きのあたしは、彼の顔を見ながらぼんやり言った。

「いいから。今日はちょっと気晴らし。相手優勝候補だから、今日で終わっちゃうかもしれないし」

「なんであたしまで一緒に行かなきゃならないの」

 あたしはぶつぶつ言いながら彼を家の中に入れ、制服に着替えるために奥の部屋に向かった。ちなみに今日は、ティーシャツにショートパンツを履いていた。やっぱり寝るときにショートパンツはいらない。こんなものでも、履いて寝ていると暑いし、服が汗になってしまう。

「あー、タオル持ってった方がいいぞ。あと、飲み物と帽子」

「飲み物? 何か持ってきたの?」

「途中で買ってくつもり」

「じゃ、あたしもそうする。あと、帽子?」

 あたしは制服を着て、彼の前に行った。

「できればね。炎天下だから。おれは持ってかないけど、そういうの弱いなら」

「うーん、帽子、どこにあるかわかんない」

 あたしはまた奥の部屋に入って押入れを開けてみたけれど、役に立ちそうなものはなかった。結局、ハンドタオルだけを持って、あたしたちは家を出た。

 朝といっても、もう九時を過ぎると一歩部屋から外に出たら暑くてまぶしくて、あたしと彼は、セミがちからいっぱい鳴いている中を、あついよう、と言いながら駅に向かった。日差しが首や腕を焼くのがわかる。野球観戦なんてしたら、一日だけですごく日に焼けそうだ。帽子がいる、ってそういうことなのかもしれない。

 電車に乗って冷房の中でほっとしたのも束の間、あたしたちはほどなく球場についた。駅前のコンビニでつめたい飲み物を買い、アルプススタンドに入った。あたしははじめてだったので、全く勝手がわからなくて、彼のあとをただついていっただけだった。

 試合開始は十時で、球場に入ったのが十時十五分。試合はちょうど一回の攻防が終わったところで、スコアボードにまだ点は入っていなかった。応援団の人に黄色いメガホンを渡され、空いている席を捜した。

「野球のルール、全然知らないの?」

 前を歩いている彼が言った。あたしは、彼に届くようにすこし大きめの声で、ぜんぜんしらない、と答えた。彼は、はじめはまわりに合わせて、かっとばせとか言ってればいいから、と言った。

 あたしたちは空いている席をみつけ、腰かけた。

「ピッチャーが投げてそれを打つくらいしか知らないんだけど」

「いい、いい。でも、うちは後攻だから、いまは打たれちゃだめなんだ」

 直射日光が当たって、暑い。帽子をかぶっている生徒はあまりいなかったけれど、他の観客は、かぶっている人とかぶっていない人が半々くらいだった。太陽を見上げるとくらくらしそうだ。球場は広くて、芝生が鮮やかな緑色に彩られている。

 と、突如向こう側のスタンドから大きい演奏と声援がはじまった。バッターが打席に入ったのだ。

「うわ、すごい」

「向こう、さすが優勝候補だけあって、応援もすごいんですよ」

 あたしがおもわず発した言葉に、隣に座っていた女の子が答えた。「私たちも負けないように応援しないと」

 そう言ってあたしたちを見て、その子は笑った。初対面の子にいきなり話しかけられて、あたしはすこしびっくりした。ショートカットで、綺麗に日焼けしている。たぶん、一年生だ。

「毎回応援に来てるの?」

 あたしはおもわず彼女に聞いた。

「私ですか? そうですよ。一回戦から全部来てます。だって、せっかく高校生になったんだから、高校野球に参加したいと思って」

 彼女がまだあたしを見つめていたので、あたしはなんとなく続けた。

「あ、綺麗に焼けてるから、応援で焼けたのかな、と思って」

 彼女は笑って、そうなんですよ、日焼けに気を使う女子高生からかけ離れちゃって、私、と言った。

「本当は私も野球部員になりたかったんですけどね」

「野球、好きなんだ」

 反対側に座っていた彼が言った。

「ええ、もうすごく好きです」

「こいつさあ、日本人のくせに野球知らないんだ。ちょっと教えてやってくれる?」

 なにそれ、と文句を言おうとしたときに、まわりでわっ、と声があがった。あたしたちは三人ともグラウンドに目をやると、打球が外野の頭を越え、フェンスに当たった。九番の背番号をつけた選手がボールを返したとき、バッターは二塁に達していた。

 ああーっ、と、隣の彼女が悔しそうに声を出した。打たれたのはわかった。

「あの、一周すれば一点だよね」

「そうですよ。だからまだ大丈夫ですけど、二塁にランナーがいるとちょっとピンチなんですよ」

 彼が、そこからかよ、と言うのが聞こえた。いいじゃんべつに、無理やり誘ったのそっちなんだから、とあたしは愚痴を言った。次のバッターは大きなフライを打ち上げたので大丈夫だったが(もちろん彼女にフライについて教えてもらった)、その次のバッターがセンター前にクリーンヒットを打って、一点取られてしまった。点が入ったとき、相手側のベンチがすごい勢いで盛り上がって、あたしたちのまわりはため息や、あーあ、という声が響いた。高校野球ってすごいんだ。

 結局その一点だけで二回表の攻撃が終わり、ベンチにほっとした空気が流れた。攻守交代のあいだに、応援団が声を張り上げている。いってんとられてしまったがー、これから絶対に逆転するー、おうえんをー、と学生服で腕を振りまわしている応援団に向かって、応援団のOBだろうか、それとも他の部員だろうか、バケツで水を、ばしゃあん、とかけた。

「うちの攻撃はどうなの」

 彼が、あたしを飛び越して向こうにいる彼女に聞いた。

「まあまあですけど、やっぱり向こうの方が流れが強いですね」

 まわりが立ちあがるのに合わせて、あたしも立ちあがった。どうやら、攻撃のときは立って応援するらしい。バッターが構えるのと同時に、演奏が始まる。なんとなくまわりに合わせるように、メガホンをがんがん叩いた。

 相手ピッチャーの制球が悪く、フォアボールで塁には出るものの、あと一本が出なくて点は入らなかった。

 結局、二回表の一点以降、五回まで両チームとも得点は入らなかった。

「このままいっちゃうかもなあ」

 五回裏の攻撃が終わってベンチに腰かけるとき、彼が言った。

「そんなことないです。うちだって毎回ランナーだしてるし、まだわからないですよ」

 彼の言葉をうけて、彼女が言った。

「この回三番からだろ。ひとつ山場は山場だな」

「そうですね」

 あたしには、ふたりがなにを話しているのかさっぱりわからなかった。

「四番バッターはチームでいちばん打つ人がなるんだよ。それで、その前後の三番と五番に、次に期待できる人がつくんだ」

「じゃあ、この回ピンチなの?」

「べつにピンチじゃないけど、三人でのりきれれば流れはこっちにくるかもしれない」

「そうですね。ここを簡単に抑えられるかどうかですね。なんとか抑えてほしいです」

 どういうことなのか聞いてみたけれど、あたしにはさっぱりわからなかった。彼らはそのあともバッターについてなにか話をしていた。あたしは買っていた烏龍茶を出して、ひとくち飲んだ。あれほど暑かった日差しは雲に遮られていて、むっとする暑さはあるものの、家を出たときより過ごしやすくなっていた。

 なんとか抑えてほしいという彼女の願いもとどかず、先頭バッターがライト前にヒットを打つと、次の四番バッターは初球をバントしてランナーを進めた(ここで四番がバントするかよー、と彼は言った)。そのあとの五番バッターは十球くらい粘ってフォアボールで出塁した。

 あたしはメガホンを握り締めてピッチャーを見つめていた。彼も彼女もじっとグラウンドを見ている。相手チームの応援が、がん、がん、がんがんがん、と盛り上がってきた。

 ピッチャーは、大きく間合いを取って相手バッターに第一球を投げた。かぃーん、と金属バット独特の音がスタンドまで聞こえて、速い打球が飛んだ。

 スタンド中が一斉に息をのんだ。

 大きい打球がファールゾーンに飛びこんでいくのと同時に、ああー、というほっとした空気がまわりに流れた。逆に、今の打球で相手チームの応援はますます盛り上がってきた。ブラスバンドの演奏テンポが、ほんのすこし速くなった気がする。

「あぶなかったなー。ピッチャー大丈夫なのか」

 内野手がマウンドに集まっている。あたしたちスタンドで応援している生徒たちも、じっと戦況を見ていた。やがて伝令の選手がベンチに戻ると、また試合が始まった。

「続投みたいですね。ちょっときつそうですけど」

 彼女が言った。

 バッターは、次の球をなんなく打った。きぃん、と音がして、打球はセンターとライトのあいだを抜けた。彼女は、あーっ、あっ、はやくはやく、と言っていた。彼も、あー、と声を発していた。あたしは無意識のうちに、またメガホンをきつく握り締めていた。

 ライトがボールを内野に返したときに、すでに二塁ランナーはホームインして、一塁ランナーが三塁を回ったところで止まっていた。スコアボードの六回表のところに、1という数字が入って、相手チームの応援団が派手に盛り上がる一方、あたしたちのスタンドは、嘆息まじりに、あーあ、と言う声が、ところどころから聞こえた。

 グラウンドでは、また、内野手がマウンドに集まっていた。

「やっぱだめかな」

 彼の言葉に、今度は彼女も反応しなかった。

――ピッチャーの交替をお知らせいたします

  ピッチャー、錦織くんに代わりまして、中原くん

  ピッチャー、中原くん、背番号十一

「あ、中原くん」

「どうした?」

 珍しく声を発したあたしに、彼が聞いた。

「うん、二年のとき同じクラスだったから。そういえば中原くん野球部だったんだ」

 投球練習をする中原くんは、変なフォームだった。さっきのピッチャーはきっちりと上から投げていたのに、中原くんは横手投げというのもちがう、もっと下からボールを投げていた。あれは、下手投げ、っていうのかな。

「おまえ、それ言うなら、ほら、センター守ってる松田だって、いまおまえのクラスだろ」

「え? あれ? そうだっけ」

 全然記憶にない。松田というクラスメイトがいたかどうかも定かじゃなかった。「だめだあたし今のクラス、他の人たちあんまり印象にない」

「三年生になると、そんなに大変なんですか」

 彼女があたしを見て驚いたように言った。

「いや、こいつはほら、あんまり学校来てなくてさ。さぼりで」

「もう。余計なこと言わなくていいの」

 結局、中原くんはそのあとの七番バッターに犠牲フライを打たれ(もちろんタッチアップについて説明をうけたがさっぱりわからなかった)、八番バッターをセカンドゴロに打ち取った。

「三対〇か。ちょっと大変かもなあ」

 そう言いながら、またあたしたちは攻撃応援のためにメガホンを持って立った。攻撃は六番バッターからだった。

 なんだかわからないけれど、あたしたちは必死でメガホンを鳴らした。さっき代わった中原くんが出塁して二塁までいったものの、四人で攻撃が終わった。次の回、中原くんは、あいかわらず変な投げ方だったけれど、七回の表を三者凡退で締めて、裏の攻撃になった。

 七回の裏。雲行きが怪しくなっているなか、あたしたちは校歌を歌わされた。音楽の授業を取っていないあたしには、数回しか歌ったことのない校歌だ。

 球場についたときにまぶしく見えたグラウンドの芝生も、くすんで見える。

 校歌を歌っているなか、先頭バッターがレフト前にヒットを打った。あたしたちはみんな、校歌を歌いながらメガホンを鳴らした。校歌を歌い終わったとき、二番バッターが二球続けてバントを失敗して、打球はファールグラウンドに転がった。ツーストライクになると、バッターはバントの構えをやめた。

「バントしないの」

「スリーバント失敗すると、アウトになるから」

 彼が言った。あたしはもちろん、スリーバントの意味がわからなかったけれど、真剣に見ている彼の邪魔になりそうで、聞くのをやめた。

 あたしたちは、かっとばせー、といいながら休むことなくメガホンを叩いていた。

 ぎん、と鈍い音がして、セカンドにゴロが転がった。ああー、ゲッツーコース、と彼が言った。あたしは、腕に何かつめたいものが当たるのを感じた。

 相手チームのセカンドはゴロをつかんで、二塁に投げた。ああ、アウトだ、と思った瞬間、ボールはセンターに抜けていた。

 うわぁー、とまわりが盛り上がる。何が起こったのかよくわからなかった。ランナーは二塁を回って、三塁ベースに滑りこんだ。

「なに、どうなったの」

「エラーです、相手のショートがボール逸らしたんです」

 彼女は興奮気味に言った。あたしの声も大きくなっている。

「ええっ、じゃあ、アウトじゃないんだ」

「そうですよ、ランナー一、三塁、次は三番バッター。チャンスですよチャンス」

 応援は一気に盛り上がった。はじめは声をあげるのが照れくさかったほどなのに、スタンド中、生徒たちはみんな声をあげていた。あたしも声をあげた。今度は、相手チームの選手たちがマウンドに集まっている。

 応援団の人は、大きく腕を振っている。また腕につめたいものが当たった。見上げると、いつのまにか空は薄暗くなっている。雨が降ってきた。

 タイムが解かれ、試合が再開された。長い間合いのあと、ピッチャーがボールを投げた。投げる直前、バッターはバントの構えをした。ファーストとサードがダッシュする。

 バッターはバットを引いた。ボール。

「おおー、なんかもう、すげえどきどきする。プロ野球見てるのとわけが違うよ」

 彼が、もう我慢できない、というように呟いた。あたしはプロ野球なんて見たこともなかったから、何が違うのかわからない。でも、一球一球、目が離せない。

 二球目、ピッチャーが投げる直前、バッターはまたバントの構えをした。サードランナーもホームに向かって走っている。ワンテンポ遅れて、その後ろを相手チームのサードが追いかける。と、突然ランナーが止まった。サードの選手は止まれずにバッターに突っ込んでいく。

 バッターは、バントの構えをといてヒッティングした。ボールが大きく開いた三遊間を綺麗に抜けていった。

 一点入り、うおおー、と、スタンドはすごい盛り上がった。雨はもう、それとわかるくらいに降ってきたが、気にならなかった。ノーアウト一、二塁、バッターは四番。二点のビハインド。ホームランを打てば逆転だ。それくらいあたしでもわかる。応援はどんどん盛り上がっていく。あたしも叫ぶように、かっとばせ、と声を出した。

 四番バッターがバントをして、ランナーを二、三塁に進めると、また相手チームの内野手はマウンドに集まった。

 相手ピッチャーは五番バッターを敬遠して、満塁になった。バッターボックスには、今日ヒットの出ていない六番バッターが入った。雨は段々強くなってきて、あたしたちの服はすっかり濡れていたけれど、誰も傘なんてささずにメガホンを叩いていた。前髪から、鼻の頭に、かっとばせと叫んでいる口の中に、雫が落ちた。

 きいん

 ショートに鋭いゴロが飛んだ。スタンドに、悲鳴に似た叫び声ともつかない声が満ちた。相手ショートは、捕球に走った瞬間、雨に足を取られたのかバランスを崩した。すぐにバランスを立てなおして打球を追ったけれど、ダイビングも届かなかった。

 打球は二遊間を抜けて、センター前ヒットになり、二点入って、同点になった。

 一瞬のち、うおー、という歓声とともに、スタンドが揺れた。みんながみんな飛び跳ねるから、どどどど、という音がして、ほんとうに足元が揺れていた。

 あたしはおもわず、彼の腕を握って振りまわしていた。彼もなんだかわからない言葉を叫んでいた。彼女は、同点、同点、と叫んでいた。応援スタンドはどこも盛り上がっていて、みんな雨が降っていることなんか全然関係ないみたいだった。

 結局、雨の中試合は続けられ、あたしたちの高校は五対三で決勝に進出した。同点になったあと続けてヒットが出て逆転し、八回裏に一番バッターがホームランを打った。

 試合の終わったあと、あたしたちは球場でもういちど校歌を歌ってから、雨の中をぞろぞろとひきあげていった。

 隣にいた彼女とは、また学校で会ったらよろしくね、と言って別れ、彼とふたりでぐちゃぐちゃの服のまま電車に乗った。ハンドタオルで拭けるだけ拭いたけれど、あまり意味がなかったみたいだ。服がぴたっと身体にくっついて気持ち悪い。

「いやー、せめて折りたたみ傘くらいもっていけばよかったよな」

 他の人の迷惑にならないように、あたしたちは空いた車両のいちばん隅のドア付近に立っていた。

「うん、でも、すごいおもしろかったから。野球も、すこしわかるようになったし」

「そう言ってもらえると助かるけどな」

 と彼は笑って、すごい勢いでくしゃみをした。

「大丈夫?」

「ん。電車冷房入ってるから、雨が冷えちゃって」

 もう一回くしゃみをした。「外に出れば平気なんだけど」またくしゃみをした。

「大丈夫なの?」

 そう言われると、車内は冷房が効きすぎていて、あまり気にしていなかったけれど、寒くなってきた気がする。あたしもつられてくしゃみをした。 

 電車を下りてすぐ、あたしの家についた。あたしはまっさきにタオルを出して、玄関先で突っ立っている彼に渡した。彼は、ありがとう、と言って顔や頭を拭き始めた。あたしも身体を拭き始める。

「靴下、脱ぎなよ。できたら服も。……あ、いっそのことシャワー、浴びちゃったらどう」

「おまえはどうすんの。おれはいいから先入りなよ」

 彼が、タオルのあいだから顔を出して言った。

「あたしはあとでいい。きみが着れそうなもの探しとかなくちゃいけないし」

 あたしは彼をシャワールームに押しこんだ。

 けれど、そうは言ったものの、うちに男物の服なんてあるわけがなかった。立場が逆だったらあたしが男物の服を着ればいいだけなんだけど、あたしの服が彼の身体に入るだろうか。彼に母のスカートを履かせてみたらどうだろう。それならウエストもきつくない。

 そこまで考えてひとりで吹きだしてしまった。

 結局あたしのトレーナーと中学のときに使っていたジャージを脱衣所に置いた。

「じゃ、ここに服置いとくね。きみにはちょっと小さいかもしれないけど」

 バスルームに向かって言った。中から、わかった、ありがとう、と声が聞こえた。あたしは、そのときはじめて、自分がまだ濡れた制服のままでいることに気がついた。脱衣所で制服を脱ぐと、ブラジャーとショーツも取って、彼の下着と一緒に洗濯機に放りこんだ。完全には乾かないだろうけど、脱水するから、今よりはだいぶましになるはずだ。

 洗濯機が音を出して回った。あたしはバスタオルを身体にぐるぐる巻いて、彼に気付かれる前に、脱衣所を出た。

 あたしは、咄嗟に彼をつれてきてしまった。駅を降りたときまだ雨が降っていたので、雨がやむまでうちにいなよ、と言ったのだ。夏の雨だから、きっとやむよ、と言うと、いいの? と彼が言った。彼の家は、駅からだと歩いて二十分くらいかかる。あたしの家は、五分もあればつく。あたしは、いいよ、と答えた。

 本当は、ひとりでいるのがすこし寂しかったのだ。もうちょっと彼と一緒にいたかった。

 あたしは不意に空腹に気がついた。そういえば昼食を取っていない。時計を見ると一時半だ。あたしはバスタオルを巻いただけの恰好のままで冷蔵庫を開けた。昨日買った食材がある。豚肉を茹でてから冷やして、キャベツと一緒にドレッシングをかけて食べよう、そう思って鍋に水を張って火にかけると同時に、お米を研いで炊飯器にかけた。

 ざっとキャベツを千切りにしているあいだに沸騰した水に豚肉を通す。

「またすごい恰好で料理してるな」

「いいじゃんおなかすいたんだから」

 あたしはお風呂からあがってきた彼を見ずに答える。そのとき、一生懸命声を出していた応援を思い出した。そうか、あんなに声を出したこと、ここのとこなかったもんなあ。それでおなかすいたんだ。

 あたしが茹であがった肉を引き上げていると、彼があたしの近くまで来ていた。肉をさっとつまんで食べている。

「もう、そんなの食べても味ついてないよ」

「つまみぐいは男の美学なんだ」

 そう言うと、彼は居間のほうに戻っていった。ときどきわけがわからない。あたしは、肉を茹でてしまうと、そのあとの沸騰しているお湯に生卵を入れた。適当にキャベツと肉を盛り付けて彼のところに持っていく。テレビはNHKが流れている。もうすぐ第二試合がはじまるようだ。あたしたちがいた球場は、すでに雨が上がっている。

 あたしと彼は、テレビをみながら肉とキャベツだけの皿をつついた。卵はそろそろ茹であがっただろうか。

「本当は、手持ち無沙汰だったんだよ」

 あたしが昔着ていたジャージを履いた彼は、どこか落ち着かないように言った。そういえば、パンツまではさすがに用意していない。たぶんその下は何も履いていないだろう。「なんか手伝えないかな、ってさ。男なんてそんなもんだよ。それでまわりをうろうろしてみたんだけど、やっぱり自分にできることなくて、つまみ食い」

 そう言って彼はドレッシングをかけた肉を食べた。うん、おいしい、と言っている彼の隣に密着するように、あたしは身体をつけた。彼の体温を感じる。あたしはそのままじっとしていた。彼が家に来てくれたときから、あたしは人に寄りかかることを覚えてしまった。あの日まで、あたしはひとりで暮らしていけた。これからも暮らしていけるはずだった。もしあの日、彼があたしと寝ていたら、あたしはそのあともすさんだ生活を続けていただろう。でも彼は、あたしと寝なかった。ただ抱きしめてくれた。あたしの心を、休ませてくれた。人に寄りかかるのは、なんともいえず、心地よかった。いままではずっと、人に頼らずに生きてきたし、これからもそうしていくものだと思っていた。

 彼は何事もないように食べ続けている。でも、あたしは彼の身体に変化が出ているのに気付いていた。

 あたしは、ゆっくりとそれに手を触れた。彼の身体が一瞬動く。あたしはそれを、撫でまわすようにゆっくりとさすった。

「……なに、するの」

 彼が、途切れがちに言った。あたしは何も答えずに、彼に体重を預けながら、ゆっくりとそれを触っていた。

 テレビが第二試合開始のサイレンを鳴らした。あ、そういえばあたし、高校野球の試合、はじめにサイレン鳴らすの知ってる。なんでだろ。彼があたしの手をよけようと腰をずらしたけれど、あたしは触るのをやめなかった。

「ねえ、ちょっと」

 彼が言った。なに? あたしは訊き返す。もう彼の箸は、肉を挟んではいない。さっきからずっと空中に止まっている。彼は目をつぶっていた。表情がせつない。

「……いいの?」

 彼の身体が硬直した。なにか変なことを言ってしまったのだろうか。あたしはそれを触りながら、ありがとう、と言った。ああそうだ、アニメで見たんだ。試合開始にサイレン鳴らすの。

 どうしてお礼言うの、と彼が聞いた。

 あたしはそれから手を離した。

「きみのおかげだから。……きみのおかげであたし、うまくいけそうな気がする」

 自分の言っていることがいまいちわからなかった。きん、とテレビの中から音がした。バッターはゴロを打った。一塁に滑りこんだもののアウトになった。あたしは首を振った。

「なに言ってるんだか自分でもよくわかんない。でも、きみのおかげなの。だから、ありがとう」

 あたしはそう言って立ちあがろうとした。たぶんもうゆで卵ができているだろう。でも、あたしは立ちあがることができなかった。えっ、と思う間もなく、彼に押し倒され、唇を塞がれていた。不意打ちを受けた感じで、身体が強張る。ワンテンポ遅れて、きゅうっ、と胸が締まるような感じになった。この前はあたしからしたから、そんなにどきどきしなかった。でも今日は自分の胸が激しく鳴っているのが聞こえる。身体に巻いていたバスタオルがいまの衝撃で緩んでしまった。

「好きだ」

 あたしの上で、彼が言った。なんだかとても目が熱くなって、おもわず目をつぶった。あたしも好き、そう言おうとしたけれど、うまく声が出なかった。

「あっ」

 かわりにこんな声が出た。彼がバスタオルの上からあたしの胸に触って、反射的に声が出てしまったのだ。

 あたしの声を聞いて、彼は手を止めた。あたしが嫌がっていると思ったのかもしれない。本当はちょっとびっくりしただけで、触られるのは嫌じゃなかった。むしろ、触られたかった。

 彼は、すこし迷っているようだった。あたしは彼の顔をじっと見つめた。いいんだよ、もっと触って、というように、目を閉じてゆっくり笑った。目を瞑ったまま暫く待っていると、また彼の手があたしの胸に触れた。

 彼は、あたしの胸をとても大事なものを扱うように触ってくれた。あたしは、気分がよくなってきて、ふうっ、と大きく息を吐き出した。

 バスタオルが解かれ、あたしの乳房が彼の目に晒された。いや、乳房だけじゃない。臍も腰も足の先までもが、彼の目に晒されている。彼の息遣いが荒くなった。

 彼の指が、あたしの乳首をつまんだ。

「……あ、待って」

 彼は、あたしの言葉を聞いて手を止めた。彼の表情が曇った。

「……うん、そうだよな、ごめん。おれ、こんなことするつもりはなくて」

 あたしに拒絶されたと思ったのか、彼はやけに早口でしゃべっていた。彼の前に裸を晒したまま、あたしはなんだかおかしくなった。やっぱり彼には小さかったあたしの服も、アンバランスでおかしかった。

すぐにでも続きをさせてあげたかったけれど、いまのあたしにはしなきゃいけないことがある。

「……ちがうの。火、止めなきゃ」

 台所では、卵を入れた鍋がごとごと音を鳴らしている。水がだいぶ減っているんだろう。あたしは彼の首に腕を回した。「つづきは、」

 そのあとでね、と言おうとしたとき、あたしの感覚がなにかを感じた。部屋の外で足音が聞こえる。あの、こつっ、と、しゅっ、の混じったような音を出すのは……。聞き覚えがある。

 かちゃ、かちゃ、かちゃり、と金属質の音が部屋の中に響く。あたしの思考はまるっきり止まってしまった。彼もその音を聞いて意味がわかったようだ。彼から離れて服着なくちゃ、そう思っても、それを実行する時間はもちろんなかった。

 きぃー、ばん、と、いかにもアパートの扉、という重い音が部屋の中に響いた。

 ドアを開けたその人も、玄関で靴を脱いだところで固まっていた。お互いにびっくりして、たっぷり長いあいだ、あたしたちは見つめあっていた。

「なにやってんのあんた」

 いちばんはじめに口を開いたのはその人、あたしの母親だった。

母は一言口を開くと、その後はただずっと、あたしに対して罵倒をしていた。その恰好はなに、あんたはまだ高校生なのわかってるの、その歳で男をたぶらかしていい気になっちゃって、この先が思いやられるわ、せっかく進学校に入ったっていうのに、なにか言うことないの、いつからあんたはこんな子になっちゃったんだろうね、あたしはそんな子に育てた覚えないよ。

「……ふざけないで。そんな子ってなに」

 あたしは裸のまま立ちあがった。母の言葉を聞いていたら、自分の中に大きな怒りが沸いてきた。男をたぶらかした覚えなんてない。あたしは彼のことが好きなんだ。進学校だって、あたしが自分で努力して入ったんだ。それよりも……。

「育てた覚え、ってなに? あたしあなたに育てられた覚えなんてない」

 あたしの声は、知らず知らずのうちに大きくなっていた。

「ふざけてんのはどっちなの。言い訳するんじゃない」

 母もあたしに向かって厳しく言い放った。その言葉を聞いてあたしの理性はどこかにいってしまった。言い訳。男をたぶらかすとか、しっかり学校に通うとか、そんなことをこの人に言われたくなかった。もう、我慢できなかった。

「いつからこんな子になって、なんて言ってるけど、あたしのことなんてずっと見てないじゃない。小学校のときだって授業参観はもちろん来ないし、学期はじめに持ってく雑巾だって一度だって縫ってもらったことないし、遠足のお弁当だっていつも自分で作ってた。他にも、書道の道具のこととか工作の準備とか裁縫のこととか色々あったけど、あたしは全部ひとりでやってきた。あんたはお金家に入れてればそれで子供のこと育ててるつもりなんだろうけど、それであたしのなにを知ってるっていうの。あたしの志望校も知らないくせに」

 あたしは思いつくままを一気にしゃべった。感情が先行してしまってもう止められなかった。途中で彼があたしの身体にバスタオルをかけてくれた。あたしは彼をじっと見つめた。「彼のほうが……、彼のほうがよっぽどあたしのこと、しっかり見てくれる」

 あたしはそう言い切った。

 あたしはすこし混乱していた。授業参観や遠足のお弁当なんてなんともない、と思っていたのに、言葉にでてきたことが不思議だった。そんなこと、あたしにはなんの問題もない、大丈夫、と思っていままでやってきたはずだったのに、最後は涙声になっていたことも、くやしかった。

 三人のあいだに沈黙が降りた。あたしはただ、次にくるであろう母の言葉を待っていた。母は暫く厳しい顔をしてあたしを見つめていたけれど、すこし寂しそうな顔をしてから言った。

「そうだね。私、あんたに親らしいこと何ひとつできてないのに、親みたいなこと言えるわけないね。悪かった」

 母は、すっかり水の減った鍋を見て火を止めた。「ちょっと化粧品を取りに来ただけだから。すぐ出てくよ」

 奥の部屋に向かいながら母は言った。

 言葉通り、母はすぐに部屋から出てくると、それじゃあ、と言って靴を履いた。もう、あたしと目を合わせようともしなかった。

「あの、おれ」

 そのとき、今までずっと黙っていた彼が声を発した。あたしはまだ、バスタオルを無造作に羽織っただけの恰好で突っ立っていた。彼はゆっくりと続けた。本当に好きだから、強引にあんなことをしてしまったんです、確かに高校生がすることじゃなかったと思う、でも、ずっと一緒にいたいと思っている、小学生のときからずっと好きだった、一方的に襲ったのは自分なんだ、だから今回あたしのことは許してください、と続けた。

 嘘だ。こんな状況でも彼の気持ちを聞けて嬉しかったけれど、今日はあたしから誘ったようなものだ。どうしてあたしのことを庇おうとするの。血の繋がった親はあたしにつめたいのに、他人はみんなどうしてあたしに優しいの。

 母は顔を上げた。彼のことを優しく見つめた。

「大学に行っても、この子のことよろしくね」

 母は、笑っていた。あたしはすこし面食らった。「一緒の大学、受けるんでしょ」

「どうしてわかるの」

 あたしはおもわず呟いていた。彼もびっくりしているようだった。

「……あんたは、私じゃ不満かもしれないけど、これでも親だからなんとなくわかっちゃうのよ。志望校まではわからないけどね」

 あたしも彼も、突っ立ったままだった。「それじゃ、またね」

 母はそう言うと、部屋を出ていった。ばたん、というドアの音が、暑く蒸した部屋に響いた。テレビの中では、誰かがホームランを打って、アナウンサーが興奮していた。

 いつのまにか雨はあがって、また日が差していた。

 次の日、あたしはまた彼と一緒に野球応援に行った。

 決勝戦は、三対一で負けた。

 次の日からまた、あたしたちは補講に出る。

 あたしと彼は、まだセックスをしていない。






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