プロローグ
窓の外で白銀の六花が降りやむと、春の女神が花々を誘い、小鳥がさえずる季節へと移りかわる。
トルテ国に暖かな風が吹くようになって数日、郊外のとある邸で、小さな命が誕生した。
ふんわりとした金色の巻き毛に、つぶらな瞳がきょろきょろと動く。母の姿をみつけて、幼子は口に咥えていた親指を外し、求めるようにその小さな手を伸ばしている。
「コレット、弟のアンリよ」
母は、抱いていた赤子を差しだしてきた。コレットは、今度は自分を抱えている者の腕から身を乗りだして、おくるみを掴もうとしている。
「仲良くしてあげてね」
まだ言葉の話せないコレットは、よくわからないままにコクリと頷いた。
赤子が目を覚ますと、シルフォン伯爵の家系が代々受け継ぐ菫色の瞳がのぞく。姉弟が並ぶと天使がふたり舞い降りたのではないか――と、その場にいた両親、親族、家人の全員が感極まった。
姉弟の愛らしい容姿と仕草は、いつなんどきも目にした者たちを一瞬で虜する。
ふたりの容貌は成長するに磨きがかかり、同世代の令息令嬢と親たちをも魅了していった。
結果、シルフォン家の姉弟宛てに婚約の申し込みが殺到。
コレットは十歳のとき、ゴルディバ侯爵家の嫡男であるジルベールと。アンリもすぐに侯爵令嬢との婚約が成立した。
シルフォン姉弟は、周囲からの溺愛を一身に受け、行く先々であまいお菓子に贅を凝らした料理を勧められた。
純真無垢な性格のふたりは、満面の笑みで好意を気持ちよく受け取っていく。
それはもう、勧めた側がいっそ清々しいと思うほどに、元気いっぱいに平らげていったのだった。
時は流れて。――コレット十六歳、アンリ十五歳となった、ある秋晴れの日。
「アンリ・シルフォン様、あたくしブランディーヌ・ノワゼットと婚約破棄してくださいませ!」
突然の婚約破棄宣言。愛を育むはずの時間は、ヒステリックな叫び声により終わりを告げる。
ここはシルフォン伯爵邸の庭先であり、少し離れた場所に数人のメイドが控えるのみ。物陰にはコレットが身を隠していて、彼女はどうやら不穏な会話を耳にして気になってしまったらしい。
「ど、どうしたんだい、ブランディーヌ。いきなり婚約破棄だなんて――」
「お伝えしたとおりです。聞き返すだなんて、なんておっとり。――本当に、見た目通りだわ」
「せめて、理由を聞かせてくれないかい?」
少々気性の荒い婚約者が、また我儘をいっているのだと思ったアンリは、ゆっくりと優しい口調で問い返した。
突如、勢いよく立ち上がったブランディーヌは、イスに座ったままのアンリを睨みつける。
ノワゼット侯爵家の令嬢からすれば、伯爵家など格下。
ここの家のメイドなどはさらに下。(誰にも認知されていないコレットは論外)
外聞を気にする相手――同級生や身内の目がいないせいか、ブランディーヌは一切の抵抗なく怒りぶちまけた。
「アンリ様は、聡明でお優しい人柄です。ですが、ですがっ!」
肩を震わせ言葉を詰まらせる姿に、アンリは彼女の決意が固いことを察した。
「アンリ様の見た目が、許せないのです!」
本日最大級の声音は、巨大な槍のごとき鋭さをまとってアンリの心を貫いた。
言葉を失い呆然とするアンリは、一度口を開いたあと、なにも言えずに閉じてしまう。
その様子が火に油を注いだらしく、ブランディーヌは一気にまくし立てた。
「昔は、お美しく愛らしいお姿でしたのに! 今ではその面影などなかったかのように丸々とふくよかでいらっしゃることが、あたくし、どーしても、どぉぉぉぉぉしても、許せないのです。どうしてこうなってしまわれたのですか? これは詐欺です! 七年かけて騙すなんて、ひどい!」
「……」
アンリの外見は上半身から下半身にかけて、大きな曲線を描いている。横からみても以下同様。その顔は年齢不詳であり、若者にも、貫禄ある年長者のようにもみえる。
「知り合いに婚約者を紹介するたびに、あたくし、裏ではいろいろと嘲笑を受けていましたのよ!」
『あのような殿方の、どこを気に入られたのですか?』
そう聞かれるたびにブランディーヌは、堪らなく悔しい思いをしたのだ。積もり積もった鬱憤が、今まさに爆発したのである。
「そのお姿は、自己管理ができませんと宣言しているようなもの。あたくしの伴侶には相応しくありませんわ!」
「……」
「なにもおっしゃらないのですね。――まぁよろしいですわ。沈黙は肯定とみなします。ごきげんよう。さようなら、アンリ様」
日傘を手にしたブランディーヌは、乱暴な足音を立てて去っていった。
彼女の性格上、一度いいだしたら曲げないことは手に取るようにわかった。いつだってアンリが折れることで、関係を保ってきたのだ。
格上であるノワゼット侯爵家から婚約破棄を求められたのなら、シルフォン伯爵家は応じるほかない。
取り残されたアンリは、執事に声をかけられるまで俯いていたのだった。
****
「――という事件がね、我が家の庭園でおきてしまったの」
困った様子で頬に手をあてるコレットは、反対の手で婚約者の腕につかまり階段をおりていく。
舞踏会会場から、帰りの馬車へと向かっている最中だった。
「それは大変だったね。アンリ君は、その後どうなったの?」
あまりの惨劇に、コレットの婚約者であるゴルディバ侯爵令息のジルベールは、遠慮がちに義理弟(予定)の安否を気遣っている。
「ええっと、――」
あの後、アンリはショックのあまり寝込んでしまった。
その間に、ノワゼット侯爵家から婚約破棄の書類と慰謝料が届いたため、当人たち不在のまま婚約破棄は成立してしまったのだ。もっともアンリが無事だったとしても、力関係をみるに結果は変わらなかっただはずである。
「アンリの婚約破棄は成立してしまったのですけど、それからが大変で――」
思い出して、コレットは胸を痛めた。婚約破棄の成立を知ったアンリは、あろうことか貴族の通う学園を退学してしまったのだ。
「退学したのかい? それは、また。ノワゼット家のご令嬢も同じ学園に通っていたのだっけ?」
「はい。ですが、気まずいからという理由で辞めたわけではないのです」
アンリは、元婚約者のとある一言をひどく気にしたのだ。
『そのお姿は自己管理ができませんと宣言しているようなもの』
自分の容姿が怠惰であるという事実は、高潔な気質の弟の心にある重大な決心をさた。
『そんな風に考えが及ばなかった自分が恥ずかしい。僕は心身ともに鍛えなおすと決めたんだ。そのために今すぐ騎士団に入ることにする』
説得しようとした両親を逆に説き伏せて、ついでに推薦状まで書かせてしまい、騎士団へ志願してしまったのだった。
「なるほど。では、すでに寄宿舎へ移ったと。どうりで今日の舞踏会では顔を合わせないわけだ」
将来の義弟の無事を知ったジルベールは安堵し、一部始終を想像して苦笑する。
「もう、笑いごとではありませんわ!」
笑われたことに不満を浮かべるコレットは、腕に回していた手に力を込めて引っ張った。
勢いがついて重心が移動し、片足へ全体重が乗ったときだった。ボキッ!
「きゃあ!」
「うわ!」
コレットはジルベールを半分巻き込んだかたちで、尻もちをついた。
階段があと一段であったことが幸いし、両者とも大きな怪我ないようだ。
根元から折れたヒールをみて、コレットはショックで動けなくなってしまった。
「さあ、手を貸して。――くっ」
ジルベールがコレットを両手で抱き起こそうとするが、持ち上がらない。
「申し訳ございません、ジルベール様。自分で立ちますわ。――うっ」
どうやら転んだ拍子に足を痛めたらしい。コレットは片足を庇うようにして、なんとか立ち上がると、ジルベールに肩を借りて馬車まで歩いていった。
彼女もまた弟のアンリ同様に、ふんわりと大きく曲線を描いた豊満なボディの持ち主なのだ。
「なんだか申し訳ない。足を痛めているのに歩かせてしまうなんて」
本当は格好よくお姫様抱っこをしたいし、されたいふたりであった。無論七年の付き合いでは互いの心情は手に取るようにわかってしまう。
ゆえに、気まずい。
微妙な空気は沈黙を呼ぶ。車中での会話は特に盛り上がらずに帰宅した。
(あら? もしかして、アンリのことを心配している場合では、ないのでは?)
コレットの胸に芽生えた不安の種は、瞬く間に成長していくのであった。
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