5話
そんなこんなでまた1年程経ち、そろそろ幼年期から少年期へと差し掛かる程の頃である。歴史や教義、その他様々な知識を学びながらも並行して法術を習い、更には独学であるものの簡単なファンタジーにありそうな魔法や習得の簡単な魔法も訓練した。
実際のところ、私の中では魔法と法術の差は呼び方程度ではないだろうか、という意見に落ち着いたのは、両者を習得したが故の意見だろうか。法術において意志の力だとか信仰心だと言われているものと、魔法における魔力の違いは果たしてあるのか。
片方を限界まで用いればもう片方は使えない、およそ同じリソースを用いていると思しき検証内容からは単純な呼び分け程度の差であることが透けて見えるが、まあそれをもし主張すれば異端のレッテルを張られてしまうわけで。
逆に世間一般の魔術師が法術を使えないのかと言えば、使えないのか使わないのかはさておいて、使っていないのが現状である。これには2通りの見方が出来るわけだが、恐らくどちらも作用しているのだろう。
1つ目は魔法の基本として、知識とイメージが重要な事である。小難しい詠唱、前提となる知識、それに加えて魔力とイメージ。イメージさえはっきりしていれば、あるいは前提知識が十二分に備わっていれば、詠唱を短縮する事も可能だ。
逆に言えば、教会がわざわざ法術として扱い、別物であるというイメージを持っている一般人が、実際に傷を治す為の人体の知識などを持たずに詠唱だけ真似たとして、果たして効果が出るのかと言われれば、恐らくは無理と結論づける。
2つ目としては黒い話ではあるが、それを教会が許さないからに他ならない。伝説の上では賢者などと呼ばれる存在があらゆる術を操ったなどと言われているが、現代において賢者を名乗る存在などはむしろ魔法すら使わない学者の連中だそうで。
では伝説上の意味で賢者を名乗る存在は居ないのかと言われれば、そんな噂こそ立つことはあるものの、実際はそんな存在は居なかった、という事になるのが一般的だ。どうして居なくなるのかはまあ、私としても気を付けなければならない面で。
だから別に、自分が特別な存在な訳ではないんだと、頭のどこかではしっかりと理解していて。それでもこの時にはまだ、自分の新しい人生での才能というものを信じていた。