15-2. マーラー:交響曲第5番嬰ハ短調 2
マーラーの交響曲第5番。この曲は、印象的なトランペットのソロで始まる。
パパパパーン。
3連符と2分音符。これが最初に出てくるモチーフだ。これが繰り返し出てきて…… と、女王様は2回目で再生を止めてしまった。
「ちょっと。なんで止めちゃうんですか?」
「この『パパパパーン』というの、どこかで聴いたことがありますよね?」
彼女は俺の抗議なんて聞いていないようだ。
「ああ、いろいろと元ネタはありますけど、ベートーヴェンの交響曲第5番のモチーフと同じリズムですね。あと、メンデルスゾーンの『夏の夜の夢』の結婚行進曲では、同じトランペットのリズムで始まります」
「そうです、殿下と同じ名前のメンデルスゾーンです」
かの作曲家メンデルスゾーンのファーストネームはフェリックスであった。確か、ラテン語で幸福とか幸運を意味する語だったと思うが…… って、それ今関係あるの?
「この始まり方は、2回目までは、結婚行進曲と同じです。でも、この曲は結婚行進曲ではありません。ということで、もう一度最初から聴いてみましょうか」
再度最初から音楽の再生が始まる。そうだ。この曲は結婚行進曲ではない。
パパパパーン。
これが2回。でも3回目は、結婚行進曲とはまったく違う音だ。そして、この曲が短調であることを教えてくれる。トランペットのソロの後、オーケストラがフォルテッシモのアタックを叩き込むと、弦楽器が憂鬱なメロディーを奏で始める。
この交響曲第5番は、葬送行進曲で始まるのである。
「交響曲に葬送行進曲をこんなに好んで使ったのは、マーラーくらいのものですね」
女王様が言う。初めて交響曲に葬送行進曲を使ったのは、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』ではないかと思うが、マーラーはこの第5番以外にも…… というか、ほとんどの曲で、葬送行進曲の要素を用いているのではないだろうか。
「マーラーにとっては、それほど、死というものが身近で、意識していたからでしょう」
夕暮れ。鄙びた農村の小道を、棺を担いだ葬列が、荘重な足取りで進んでいく。
黒い喪服に身を包んだ遺族や参列者たちも、神妙な面持ちである。
棺の中にいるのは、誰なのか。なぜ、死ななければならなかったのか。
葬列は、小高い丘に差し掛かった。相変わらず、例のトランペットが響く。
ここで、音楽は突然、嵐のように激しく荒れ狂う。
降り注ぐ砲弾に爆弾、燃え盛り渦巻く炎!
トランペットのソロが、今度は勇ましくも悲しい旋律を叫ぶ。
助けてくれ! 逃げ惑う兵士たちは、必死に抗うが、どうしようもなく斃れていく。
ヴァイオリン合奏の高音が、断末魔の叫びをあげる。
そうか。彼は、戦争で死んだのだ……
ここで、またトランペットの3連符が登場し、音楽は次第に落ち着きを取り戻していく。
再び、葬列の行進が始まる。
参列者たちは、口々に死者のことを話し始める。
惜しい人を亡くした。立派な最期だったらしい……
しかし、死者のことを本当に理解していた者は、いなかった。
ティンパニのソロが、例の3連符のリズムを刻む。
今度は遺族が、死者のことを話し始めた。その感情は次第に高ぶっていき……
トロンボーンの奏でる旋律が進んだところで、彼らの嘆きは最高潮に達し、泣き崩れる。
そしてまた、あのトランペットが静かに鳴り響き、この第1楽章は、低弦のピチカートでぶった切られる。
続く第2楽章は、さっきの「嵐のような」展開が帰ってくる。作曲者も楽譜に、
『嵐のような激動。より大きな激しさで』
と(ドイツ語で)指示しているくらいだ。
「さて、第1楽章で弔われていた人は、なぜ死んだのか。どんな思いを抱いていたのか、ここから始まります」
低弦とファゴットが、激しい動きの動機を叩きつけ、金管がそれに答える。
トランペットの細切れな音は、警報のようだ。
敵襲だ! 爆撃が始まる!
ヴァイオリンがうねり、音楽は荒れ狂う。
砲弾が、爆弾が、ミサイルが、次々と襲い掛かる。
だが、フルートとオーボエが短い音を続けて吹いたところで、この流れは断ち切られ、音楽は静かになる。
そして、チェロがメランコリックな旋律を奏で始める。
これは…… 絶望だ。
「この甘くとろけるような強弱のニュアンス。たまらないと思いませんか」
彼女はそう言うが、俺の印象は違う。
タムタムが弱音で鳴らされた瞬間、俺は海中に叩き落とされるのである。
チェロの嘆き、ホルンの叫びとともに、全てが海中に沈んでいく。
あのとき…… 何千人もが、暗く冷たい世界へと吸い込まれていった。怨嗟の声が聞こえる。お前はなぜ生きているのか? そんなところで何をしているのか?
そして第1楽章で聴いた葬送行進曲が始まるのである。
ここで音楽は急に明るい曲調になるが、すぐに終わり、最初の激しい動機がまた登場する。
嘆きの旋律はより激しさを増して、奏でられていく。
しかし音楽は、嘆きと絶望の一辺倒ではない。
いっとき嵐がやみ、雲が晴れる。
輝かしい太陽がのぞき、まぶしい光で闇を照らし出す! だが、ぎらぎらと眩しすぎる…… 不毛な土地を照り付けるかのようだ。
朗々と歌う金管のコラールは、尻すぼみに縮こまっていく。
「いまの部分を、よく覚えておきましょうね」
彼女の言う意味を、この曲のこの先の展開を、俺は知っている。今はまだ早いのである…… 希望の光がすべてを照らし出すのには。
最初の激しい曲調が戻ってくると、今までのいろいろな動機が細切れに出てきて、曲は静かに幕を下ろす。
最後は、またしても低弦のピチカートである。
「殿下。ご気分がすぐれないようですが…?」
そう言われて、彼女が、第2楽章が終わったところで再生を止めていることに気づいた。
「いえ…… お構いなく。続けてください」
「そういうことでしたら……」
音楽が再開される。
第3楽章は、打って変わって、楽しげな3拍子のスケルツォである。ホルンのソロが活躍する楽章で、演奏時間も5つの楽章の中で最も長い。
嵐のような2つの楽章が続いたあとで、マーラーは、なぜこのような曲調の楽章を設けたのだろうか? 俺にはイマイチよくわからん。曲の規模も、いささかバランスが悪いような気がする。
「この楽章は、スケルツォになってはいますが、ウィンナ・ワルツのようだと思いませんか?」
「はい?」
隣の女王様が妙なことを言い出したので、思わず聞き返してしまった。
「この曲で、ワルツを踊れそうだとは思いませんか?」
まあ確かに、テンポ的にはワルツに近いかもしれない。
「一度踊ってみたいと思っているんですが…… 私は踊ったことがありませんので。そのときは殿下が教えてくださいね」
彼女はそう言って無邪気に笑う。
「ハハ。それはまた……」
俺も苦笑するしかなかった。俺もたしなみというやつで、ワルツくらいは踊ったことがあるけども。
女王様の手を取って、この曲でワルツを踊るさまを、少し夢想した。
テンポが、ゆっくりになる。
「これは、レントラーですね」
マーラーは自作の交響曲のスケルツォ楽章で、レントラーを好んで用いた。レントラーは、ワルツの前身とも言われているドイツの民族舞踊である。
だが、このまま一筋縄ではいかないのが、マーラーの音楽だ。
最初のワルツの主題が再び出てきたかと思うと、弦の刻みに続いて、短調の下降音型が始まり、ホルンが寂しげな旋律を吹き始める。
そして、相次いで吠えるホルン!
ソロのホルンのあとで、弦のピチカートが、また下降音型を奏でていく。
俺は聞いてみた。
「女王様。こんな寂しいところでも、踊るおつもりですか?」
彼女は言う。
「いいえ…… ここは、故郷や故人を想って、物思いにふけるところです」
舞踏会の喧騒から、一歩外へ出る。
寒空の下…… 吐く息が白い。
夜空を見上げると、星が瞬いている……
「こんなふうに、楽しげなこともあれば、物寂しいこともある。あるいは、それらが同時に起きているのが、人間であり、この世界である、ということですよ」
ふむ、彼女の解釈では、第3楽章の存在意義は、そういうことになるのだろうか。
またしても踊れそうなワルツが始まる。「ホルツクラッパー」とかいう打楽器が、ぴしゃりと印象的な音を鳴らす。
最初のワルツが戻ってきた後、レントラーの主題が出たり、短調の下降音型が出たり。
この楽章は、とにかく目まぐるしいのである。
しばらくすると、ホルンが吠えたあとで、今度は木管が、金管が、弦が、寂しげな旋律をつないでいく。
しかし、それも長続きしない。音楽は荒々しい渦へと巻き込まれ、クライマックスを築いていく。
ここで、招かれざる客が現れた。
「女王さま! 大変です!」
そう言いながら入ってきたのは、ショスタコ推しのサワダ・アヤカだった。
「いったい、どうしたんです?」
マーラーの交響曲第5番・第3楽章は、ホルンの呼びかけに答える全合奏のアタックで、力強く締めくくられた。




