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1. プロローグ ~J.S.バッハ:フルート・ソナタ ロ短調 BWV1030~

 王国の東の端、ここデュッセルドルフの夏は湿度も低く過ごしやすいと言われますが、冬は長く、多くの人は春を心待ちにします。私が初めて彼女に出会ったのは、まだ肌寒い日も多い、4月も半ばの頃でした。


「ねえ聞いた? セリア。編入生が来るって話」

「編入生? こんな時期に?」

 6月になれば、私たちは卒業です。たった2ヵ月ちょっとしか高校にいられないのに、なぜわざわざ編入するの? と、みんな不思議に思いました。そうして早くも話題の対象になっていた彼女は、教師から紹介を受けると、微笑んで言いました。

「日本から来ました、カオル・アイカワといいます」

 そして彼女は電子黒板に、すらすらと文字を書いてみせました。

「漢字では、私の名前はこう書きます。卒業までの短い間ですが、よろしくお願いします」

 彼女が書いた、

『相河 郁』

という文字を見て、漢字の名前を見慣れない私は、何やら不思議な気持ちになりました。

 ただ、もっと不思議な気持ちになったのは、日本から来たという彼女の容姿が、私が知るアジア人のそれとは、だいぶ違っていたことです。――まっすぐで鮮やかな金髪と、くすんだグレーの瞳が。


 そういうわけで、編入早々、彼女はクラスの皆から質問攻めにあうことになるのでした。

「ねえ、なんでこんな時期に編入してきたの?」

「デュッセルドルフに来たのはなんで?」

「日本人もドイツ語が話せるの?」

「日本人はみんなオタクって本当?」

 ……なんだか変な質問も混じっている気がするけど。ほら、彼女も困って苦笑しています。

「えっと…… 1人ずつにしてくれないかな」

 彼女は親切にも、ひとつずつ回答してあげます。

「今の時期に王国に来たのは、父親の仕事の都合で。わたしはドイツ語は少し話せるけど、英語の方が得意かな。日本人みんながドイツ語を話せるわけじゃないよ。それに、みんながオタクってわけでもないけど…… まあ、マンガとかアニメが好きな人は多いし、こだわりとか探究心が強い人も多いかも。あと、聞かれる前に言っておくと、私の母は日本人だけど、父は王国の出身で、私はハーフなの」

 ハーフかぁ…… まあ、今どきそういう人も珍しくないよね。デュッセルドルフにも日本人の人たちがたくさん住んでるし。

「しかし、仕事の都合っていうのも大変だね。これから戦争になるかもしれないのに」

 男子のひとりが言うと、みんなが顔を見合わせました。

「戦争ねぇ…… 帝国と戦って勝てるわけないだろ」

「じゃあおとなしく帝国の属国になれっていうのか?」

「いや、やってみないとわからないだろ」

「戦争になったらえらいことだぞ」

 男子たちが論争を始めたのを見て、友達のリーゼはため息をつきました。

「はぁ…… また始まったよ男子」

 そして彼女に言います。

「ごめんねカオル。男子ってば最近いつもこんな調子で…… わたしはリーゼ・クレーマン。短い間かもしれないけど、よろしくね。ほら、あんたも」

 リーゼにうながされて、私は初めて彼女に話しかけました。

「私はセリア・リオンヌ。……よろしく」

「よろしく、リーゼ、セリア。……まぁ、戦争になるかどうかは、大変な問題だからね」 

 彼女は、少し神妙な顔で言いました。

「ねえ、セリアも何かカオルに聞きたいことないの?」

「それじゃあ…… 確か漢字って、それぞれ意味があるんだよね。『カオル』って、どういう意味?」

 彼女は説明してくれました。

「漢字は表意文字だから、それぞれの字に意味があるんだけど、『郁』は、良い香りとか、かぐわしいとかいう意味なんだ。あと、文化がさかんっていう意味もあるらしいよ」

「へぇ」

 一文字ずつが意味を持っているというのは、なんだか不思議な気がします。

 それにしても、明るくて感じのいい人。一緒にいられるのは短い間かもしれないけど、仲良くなれたらいいな……

 そのときの私はそう思ったのでした。


 私たち2人は、カオルを連れて放課後の学校を案内することにしました。食堂や屋内運動場などを案内した後、音楽教室に立ち寄った時のことです。

「あ、立派なピアノがあるんだね」

 カオルが言ったのは、教室に置いてあるグランドピアノのことです。

「欧州なのにベヒシュタインとかベーゼンドルファーじゃなくて、ヤマハというのがいいよね」

 確かヤマハは日本の楽器メーカーだったっけ。

「へえ。ヤマハって二輪車のメーカーだとばっかり思ってたけど」

「もともとは楽器をつくる会社で、二輪車の事業はそこから分かれたんだよ」

「そうだったんだ」

 ここで、私も思い出しました。

「私のフルートも確かヤマハだったような……」

「えっ、セリアってフルート吹くの?」

「そう、このセリアさんはうちの音楽サークルで吹奏楽のエースなのです」

 エースって…… そんなに人数がいるわけじゃないのに大げさだよ。

「そうなんだ」

「もしかして、カオルもピアノが弾けたりするの?」

「うん、少しだけど」

「へぇ…… さすが名前が『文化的』なだけあるね、ねえ、2人で何か演奏してみせてよ」

 何を言い出すかと思えば……

「リーゼ、いきなり過ぎ」

「えーっ、いいじゃん。久しぶりにセリアのフルート聴かせてよ」

「ひとりは恥ずかしいよ」

「リーゼは楽器はしないの?」

「わたしはそういう器用なまねはできませんから。運動専門ですから」

 もう、他人事だと思って……

「カオルもいきなりは無理でしょ?」

「私は別にいいよ。何の曲がいいかな~」

 カオルは思い切りがいいよね…… 彼女は端末を取り出していろいろ調べると、

「よし、これにしようかな」

と言って、楽譜を電子黒板に映し出しました。

「バッハのフルート・ソナタ ロ短調 BWV1030 ね」

 バッハかぁ……

「バッハのアレグロは息継ぎとかまったく考えてないから、きついんだよね……」

「大丈夫! いっしょにやってみようよ」

 そう言われて吹き始めた私。

 まず第1楽章のアンダンテは、2つの楽器がメランコリックな旋律を紡いでゆきます。続く第2楽章のラルゴは良かったけれど、第3楽章のプレストに入ると、カオルがどんどん煽って加速しようとするので、ついていくのに必死でした。やっと終わると、リーゼからの拍手。

「いやー、2人ともお見事。良かったじゃん」

「もう、ひどいよ~カオルってば……」

「ははは。おもしろかったよ!」

 彼女は嬉しそうに笑っていました。


 大学入学資格の試験を控えて、勉強にいそしむ私たちでしたが、そんな中にも息抜きがてら、何度かこうして一緒にフルートとピアノの合奏をするのでした。あるときは聴き手のリーゼも入れて3人で、そして私とカオルの2人で演奏することもありました。


 カオルを、私の家に呼んだこともあります。

 私は、父母と私の3人で暮らしていました。住んでいたのは、父の仕事の関係で、軍の住宅です。

 休日に彼女を招くことになって、料理好きの母エリーズは、何を作るべきか、とても悩んでいました。

「お友達は日本から来たのよね。食事は何がいいかしら。やっぱり王国の家庭料理がいいわよね。うちはフランス系だからフランス風? デュッセルドルフだからドイツ風? それとも王国の中心といえばベルギー風とかオランダ風がいいの?」

「うーん、何でも喜んで食べてくれるとは思うけど……」

 私が答えると、父が口を挟みました。

「やはり美味いのはアルトビールだ。ビールを飲んでもらおう」

「あなたは黙ってて」

 母に制されて、父は肩をすくめました。ビールは飲める歳だけれど、さすがに昼間からはちょっと。

 結局、わが家で提供した料理は、ワインビネガーの酸味がきいたリエージュ風サラダ、ヘント発祥のクリームスープ『ワーテルゾーイ』、ブルゴーニュ風牛肉の赤ワイン煮込み…… と、雑多な内容となりました。

「日本から来られたそうで。遠いところ大変だったろう。今日はゆっくりしていってくれ」

 父が言うと、カオルも、

「お招きいただきありがとうございます。皆さんとても親切にしていただいて、とても感謝しています」

と応じました。

「娘の大事なお客さんに来ていただくから、気合を入れて作ったの。たくさん食べてね」

 母も料理を勧めます。

 食事をしながら、軍人の父は、帝国の同盟国である日本の状況に興味を示したようでした。

「君は、日本で暮らしていたわけだよね。実際のところ、生活はどうなの?」

「ここと、それほど変わりませんよ。あいにく私の家庭はあまり裕福ではなかったもので、帝国の奨学金を受けていました。そういう意味では私も帝国のお世話になっていたと言えます」

「なるほど」

 次第に話が盛り上がり、お酒も入った父は、またこんなことを言いました。

「やはりこの地方のビールは美味い。君たちもどうだ?」

「もう父さんってば。まだお昼なのに。私ビール好きじゃないし」

 私が言うと、父は心底残念そうな顔をしました。

「はぁ~ これだから最近の若いのは。娘と一緒にビールを飲むのが、私の夢だったというのに……」


 帰るときに、カオルを途中まで送りながら話しました。 

「すっかりごちそうになっちゃったね。美味しかったよ。ありがとう」

「よかった。母さんも喜んでたよ。父さんが迷惑かけてごめん」

「大丈夫。実は私もアルトビールをまだ飲んだことないんだ。今度試してみようかな」

「結構苦くて濃いから、好みが分かれるかも……」

 こんな風に他愛のない話をする私たちは、どこにでもいるような友達同士だったと思います。

 ただ、学校以外でカオルと遊んだり、どこかへ一緒に行ったりすることはあまりなく、彼女のプライベートについては、私もよく知りませんでした。


 一度、カオルとこの国の今後について話し合ったことがあります。私たちのいる王国は、帝国からさまざまな要求を突きつけられていて、断れば戦争になるかもしれない状況でした。

「王国は帝国の要求をおとなしく飲んで、帝国の同盟国になるべきかな。それとも、不当な求めには応じないで、国民の権利を守るために戦争も辞さずに突っぱねるべきかな。セリアはどう思う?」

「うーん…… 正直、よくわからないんだ、戦争って。体験したことがないからかな……」

「それは、私もそうだよ」

 欧州も日本も、20世紀の第二次世界大戦以後、150年以上大きな戦争を経験していません。それは幸いなことなのでしょうけど。

「でも、私の父は軍人だから、戦争になれば、真っ先に誰かを殺すか、殺されることになるんだろうな……」

 私はもともと、王国の西部のフランス語圏の出身でしたが、父の仕事の関係で、デュッセルドルフに来ているのでした。

「そういうのはやっぱり、なんか嫌だな」

 女子高生の率直な気持ちというのは、このくらいのものです。私が言うと、彼女は答えました。

「そうだよね…… でも、王国はもともと帝国に反対してできた国だよね。帝国に支配されるようになっても、みんな納得するかな?」

「うーん、難しいかも。国王陛下も、反対だったっていうから…… このまま帝国の勢力下に入ったら、国内が大変なことになるかも」

 現に、政府の姿勢が弱腰だとか言って、大きなデモも起きているし。欧州連合が分解して王国ができたときと同じように、大きな混乱状態になっちゃうんじゃないかな。

「そうだよね……」

 カオルは目をそらしたあとに、言いました。

「でも民主主義の国なんだから、政治に介入できない国王陛下のご意思とかじゃなくて、ちゃんとみんなで決めるべきだよ」

「それはわかってるんだけどね…… 私ももう、有権者になったんだし」

「帝国と戦争になったとして、王国は勝てると思う?」

「無理」

 私は即答しました。よほどの誇大妄想の持ち主でもない限り、帝国と戦って勝てる! なんて言う人はいないと思います。というか、全世界で、帝国に勝てる勢力なんて、あるんでしょうか? 『世界の3分の2を支配する』という、あの帝国に。

「ま、そりゃそうか」

 カオルはため息をつくと、こんな問いをしました。

「戦争をして、戦って、殺して、殺されて、それでも守るべきものって、この国にはあると思う? 戦争を避けることよりも大切なことって、あると思う?」

 それは…… 私が困って、彼女の顔をじっと見ていると、

「えっと、外国から来た部外者の私が、こんなことを言うのは変だよね。気を悪くしないでほしいんだけど……」

 苦笑するカオルに、私は答えました。

「ああ、そうじゃないの。私は強硬な国家主義者でもないし、極端な平和主義者でもないから、難しい質問だなって。政治にそれほど関心が高くない、いまどきの女子高生ですから。恥ずかしながら……」

 カオルは、身を乗り出してきました。

「だから聞いてみたいんだ。いまどきの女子高生の考えっていうのを」

 今まであまり真面目に考えたことはありませんでしたが、私は自分の思っていることを、率直に話しました。

「国の役目っていうのは、国民ひとりひとりの安全・安心な暮らしを守ることだよね。そのことを第一に考えるべきじゃないかな、戦争をするかどうか、それ自体を最終課題みたいに考えるんじゃなくてさ。確かに戦争は嫌だけど…… 国の役目を果たすためには、どうしても避けられないこともあるかもしれない…… と思う。どうしても譲れないものっていうのは、誰にでもあると思うから」

「ふーむ…… なるほどね……」

 これで答えになっているのかな…? 私がそう思っていると、カオルは私の肩に手を置いて、微笑んで言いました。

「ありがとう。セリアと話せてよかったよ」


 そして6月、私たちは高校を卒業することになりました。多くの友人やクラスメイトは、大学入学資格を得て進学することになります。

「リーゼは、進学した後、家業を継ぐんだよね?」

「うん。うちは国営企業の下請工場だから、いずれはね。だけど、経営も学べと親父が。セリアも大学だよね」

「そう。まだ試験結果は出てないんだけどね……」

「大丈夫だって」

 そういえば、カオルはどうするんだろう。日本に帰ったりしないのかな?

「カオルは、この後どうするか決まってるの?」

「ん、……うん、まあ、一応はね。私も家業を継ぐんだ。王国の大学には行かないけど」

「へえ。どういう仕事なの?」

「えっと、なんていうか…… きっとみんなの役に立つ仕事だよ!」

 彼女の歯切れはよくありませんでした。

「卒業しても、また会えるよね?」

「日本には帰らないけど、どうかな…… うまく言えないや。ごめん」

 私とリーゼは顔を見合せます。

「ねえカオル。まさか行方不明になったりするつもりじゃないよね?」

「それはないよ。2人とも、私のことすぐに見つけると思うから」

 そう言って微笑むカオルを見て、私たちはますます不思議な気持ちになるのでした。

 しかし、彼女の言った意味を、私たちはすぐに理解することになります。


 夏休みのある日、リーゼからかかってきた電話で私は起こされました。

「セリア! すごいよ! びっくりだよ! ニュース見てニュース!」

「リーゼってば、朝から何事……」

 テレビを見ると、今朝のトップニュースで『新女王即位』の文字が。キャスターが言います。

「政府は、病気により執務が困難となっていた現国王ユベール陛下にかわり、陛下の実子であるカオル・A・グランシャリオ氏を王室に迎え、新女王として即位する方針であると発表しました。ユベール国王の実子の存在については、これまで明らかにされていませんでしたが、このたび政府は、国王陛下の病状に鑑み、……」

 そこに映し出されていた、次期女王だという女性の姿。


 それは、私たちのよく知るカオルに他ならなかったのです。

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