中
イザベルはこの7日間ずっと奇妙な夢を見続けていた。
7日前、彼女は夢の中で別の貴族令嬢になっていた。
奇妙なことにこれは夢の中だとはっきりわかるのに、夢の中の自分がどういう人物でどんなことを考えているのかも把握していた。
令嬢の名はベアトリーチェ・アルハンブラ。
侯爵家の令嬢であり、たった今目の前にいるミカエル王太子から婚約破棄を告げられたばかりだった。
ベアトリーチェは高位貴族らしく凛とした姿勢を崩さずに、ミカエルに理由を尋ねる。
ミカエルは婚約破棄の理由をとある一人の令嬢を害したからだと、怒りを隠さずに言い放った。
そのミカエル王太子を取り巻くように高位貴族の令息たちが立っている。
さらにその中央、皆に庇われる様に一人の少女の姿がそこにあった。
イザベルはもちろん、ベアトリーチェとしてもその少女には初対面であり一切見覚えがない。
その少女の口角が僅かに上がった瞬間にベアトリーチェは思い出した。
この世界は前世で自分がプレイしたことがある乙女ゲームの世界で、自分はネット小説などでよくある悪役令嬢に転生してしまったという事を。
その時イザベルは目を覚ました。
起きる直前の夢だったからなのか、イザベルはしっかりと夢の内容を覚えていた。
その時は「オト…ゲーム?ネッ…小説??変な夢ね」としか思わなかったが、その日の夜彼女は再びベアトリーチェになっていた。
前日と同じようにミカエルから婚約破棄を告げられ、冷静に返した直後に前世の記憶を思い出したベアトリーチェ。
少女を虐げただとか階段から突き落としただとか、身に覚えがない罪がミカエルの傍らの宰相の息子から次々と並べられていく。
それが終わったと思ったら、他の取り巻きの令息達から少女に謝罪しろだとか、お前は王妃になる資格はないという酷いヤジが飛ばされる。
その時、ベアトリーチェの中にいたイザベルは、取り巻き達の中にマリウスがいたことに気付いた。
今よりもやや大人びていて、背も少し高くなっていたが、紛れもなくマリウスだった。
その彼は他の令息と同じく、殺意が籠もった視線でベアトリーチェを睨みつけ、一言呟く。
「下種な女狐め」
イザベルはあまりのことに呼吸が出来なくなった。
言われているのは厳密には自分ではないとわかっているとはいえ、彼の口からそんな言葉が出たのが酷く辛かったのだ。
しかし、ベアトリーチェは前世の記憶を取り戻した今となっては、このようなことは想定内だったようで。
「そうですか。ではこの婚約破棄については包み隠さずに両親に報告させて頂きます」
怒りそうになることを堪え、淡々とした態度で承諾する。
そして話は済んだようなのでと、少女に謝罪しろと喚くミカエルたちを尻目にすぐさまその場を後にする。
そこで場面が飛び、ベアトリーチェは家で両親と対峙していた。
「お前という奴は、何てことをしてくれたんだ!!!」
家名に泥が塗られた、と彼女の父親が叫ぶ。
「お前なんぞ我が家の者とは認めない!!さっさと出ていけ!!!」
彼女は着たドレスもそのままに、両親、先程も王太子の傍にいた弟、大勢の使用人達の冷たい視線を浴びながら家を出た。
傍らには数少ない彼女の味方だった侍女とフットマン。
僅かな着替えと食料、幾ばくかの路銀を持つことを許されたのは侯爵家の最後の温情だろうか。
家が見えなくなる所まで歩くと、彼女は急に立ち止まり肩を震わせる。
お嬢様、と侍女が心配そうに声を掛けるとベアトリーチェは振り返った。
「ラッキーだったわ!!これで憧れのスローライフが出来る!!」
その顔は、今家族に勘当され放逐された令嬢に全く相応しくない、満面の笑みだった。
2日目の夢はここまでだった。
前日はただの夢として流すことができたが、夢の中とは言えマリウスに酷い言葉を投げつけられたことで、イザベルは同じように流すことが出来なかった。
3日目、またしてもベアトリーチェの夢を見た。
昨日一昨日と違うところは、彼女が放逐されて笑顔を浮かべるまでの過程が、主要場面の断片を集めたものになっていたこと。
ただし、本来ならば聞き取りにくいはずのマリウスの罵りを、彼女の耳ははっきりと拾ってしまっていた。
放逐されたベアトリーチェは、実はある貴族の嫡男だったフットマンの実家に立ち寄った。
貴族といっても酪農が主要産業にある辺境の子爵領だったが、彼女はそこで前世の知識を生かして新商品を開発したり、作業手順の簡略化、もしくは産業器具を開発してゆく。
少し後に新たな商売が軌道に乗り始めたころ、領にとある青年が現れた。
イザベルはふとした時にこの夢について考えこむようになってしまった。
使用人から、どうしたのかと何度も問われてしまった。
その度に大丈夫と繰り返したが、やはり納得されていないのか皆怪訝そうだった。
4日目、主要場面の断片の量が増え、領に青年が現れた所までとなった。
飄々とした青年は理由をつけて頻繁にベアトリーチェに会いに来るようになる。
最初は適当にあしらっていたが、彼女が行っていた商売でライバルが現れるようになった頃、青年はあることを口にした。
商売敵はベアトリーチェを断罪したミカエルの取り巻きの一人の家であること。
アイディアは彼女のものとほぼ同一のものに、値段を安くしたものであること。
そして今は王太子妃となった、あのヒロインであるという少女が後ろ盾になっているということ。
ミカエルたちの事はすでに忘却の彼方だったが、また自分の生活を邪魔されるのは心外だ。
ベアトリーチェは前世に存在していた新たなアイディアを加え、商売範囲を広げる。
しかし、ヒロイン一派からの妨害が度々入り、なかなか思うようにはいかない。
悩む彼女だったが、青年からとあるアイディアを持ちかけられる。
それは、この国から商売の一切を引き上げ、領の向こう側、隣国である帝国で商売を始めないかというものだ。
悩んだ末にベアトリーチェは、帝国での商売を決める。
ベアトリーチェの行動もしっかり覚えているのに、頭の中をぐるぐる回るのはマリウスの事ばかりだ。
あの冷徹な眼差しを思い出すだけで怯えそうになる。
いつもは得意なはずの刺繍も、針で自分の指を突いてしまうというミスをやらかしてしまった。
侍女と妹は心配そうだったが、こんなことはとても言えなかった。
5日目、帝国で始めた商売は王国のころよりも2倍以上の利益を出していた。
ある日、ベアトリーチェの元に皇帝より直々の謁見命令が下りた。
気に障ることがあったのかと内心震えていたが、皇帝の顔を見た途端にすべては吹き飛んだ。
玉座に座る皇帝は、何度も子爵領を訪ね帝国での商売を持ち掛けてきたあの青年だったから。
驚愕した彼女に青年…皇帝ルドルフは語る。
今から10年前、帝国は継承権争いによって荒れていたこと。
ルドルフは暗殺を回避するために、信頼のおける貴族の養子として王国に一時的に亡命したこと。
そこであの伯爵領の息子と出会い、親友となったこと。
また、親友に連れられて王都を訪れた時、ベアトリーチェに会って仲良くなったこと。
そして彼女に好意を持ち、将来は彼女と結婚するという目標が出来たことを。
後に暗殺の危険性がなくなったために帝国に戻ったルドルフは、目標を達成するために腐敗していた上層部を一掃し、皇帝の座を手にする。
その頃、ベアトリーチェがミカエル王太子の婚約者になったという情報が間者からもたらされた。
ルドルフはすぐさま親友と連絡を取り、フットマンとして彼女の家に入るように頼み込んだ。
彼女の情報と一緒に入ってきた、王国の腐敗ぶりを見せ、これらを一掃すると約束して。
こうして彼はベアトリーチェを守る傍らで、親友を通じて王国での協力者も見つけ出し、腐敗勢力を一掃する準備を着々と進めていた矢先、ある一報が入る。
それは、ベアトリーチェの婚約者のミカエルが取り巻き共々ある少女に熱を上げ、それぞれの婚約者達を蔑ろにしているというものだった。
協力者によると、奴らは病的といってよい程少女を盲信しているらしく、中には既に婚約破棄をした者もいるという。
ベアトリーチェがミカエルに婚約破棄をされるのも時間の問題だった。
これをチャンスと直感したルドルフは、親友に何があっても彼女を守るように言付け、最終的には帝国か自領に送り届けるように依頼した。
「じゃあ私はまんまと誘導されたってわけ!?」
今までの生活が全て皇帝の手の上だった事を知り、思わずベアトリーチェは声を上げた。
「そうでもない。お前がまさか自分から家を出るとは思っていなかったし、ましてや商売始めるなんてのも予想外だった」
ルドルフは優しく、しかし振りほどけない程しっかりと彼女の手を取る。
「俺は愛している者は全力で守る。俺と結婚してくれ」
元婚約者よりもずっと端正な顔の男に、こんな情熱的なプロポーズされて断ることができようか。
狼狽えながらもベアトリーチェは承諾した。
「イザベル、最近様子が可笑しいみたいだけど大丈夫なの?」
「お母様、ごめんなさい…。もうすぐマリウス様と会えるから緊張しちゃって…」
「そう…。あまり思い詰めるのも駄目よ。考え過ぎて体調崩してしまったら会えなくなりますからね」
まだ納得はしていないようだったが、母は自分の部屋に戻っていった。
彼と会うのに緊張しているのは本当だった。
けれども夢の彼と同じく豹変していたとしたらどうしよう。
それだけが不安だった。
6日目、正式に婚約を結ぶため、ルドルフはベアトリーチェをある人物と引き合わせた。
「うそ…、なん、で…」
あまりに予想外過ぎて彼女は言葉が出てこなかった。
ベアトリーチェが養子に入る予定の家の当主として紹介されたのは、出奔したといわれていた元婚約者ミカエルの異母兄、レオナルド第一王子だったから。
彼曰く、昔から王位継承権を巡ってレオナルド派とミカエル派で水面下で頻繁に争いが起きていたらしい。
遂には2年前に暗殺未遂まで起きてしまい、嫌気がさしたレオナルドは王位継承権を放棄して出奔したという。
その後各地を放浪していた時、お忍びだったルドルフと知り合い今では帝国内の侯爵の地位も頂いているそうで。
また、今回彼女の養子として名乗り出たのもルドルフから彼女のことを色々と聞いていたからとのことだ。
「でも、それだけではないのでしょう?」
ベアトリーチェは彼を見据え、彼はニヤリと笑った。
「流石は王妃候補になるだけあるな」
ルドルフもちらりと触れられていた、生国の腐敗勢力の一蹴。
その鍵としても仕事をすることが養子縁組と婚姻の条件だった。
もう家族にも生国にも未練はなくなったベアトリーチェは、自分の知る情報を全て提供した。
これらと帝国の間者の情報を合わせ、計画は練り上げられた。
そして遂に帝国は王国に攻め入った。
どうやら例に漏れず、主にヒロインが色々と好き勝手をしていたらしい。
一見華やかそうだがあちこちに腐敗の影がちらつく王都を過ぎ、王城に正面から攻め入っても王国の兵士は戦わずに逃げ出す有様だった。
間者によって監視されていた王族とヒロインと取り巻きを捕まえるのも、拍子抜けするほど簡単なものだった。
ヒロインはルドルフとレオナルドに驚愕した後すぐに媚を売り、その後顔を出したベアトリーチェに気付くと有らん限り罵倒するなど終始五月蠅かったが。
その後、王国は自治が認められた帝国の領土とされることが決定した。
自治領の領主には元第一王子でもあるレオナルドが就任し、その傍らには妻になったベアトリーチェの侍女の姿があったという。
腐敗勢力は一掃され、王国と帝国から実力ある者達が新たな役職に就いた。
そして王族と元王太子ミカエル、ヒロインは公開処刑され、取り巻き達は廃嫡もしくは家ごと取り潰された。
ヒロインは死ぬその瞬間まで、「私はヒロインなの!!何で処刑されなければならないのよ!!」「悪いのは全部あの女よ!!」「皆あの女に騙されているのよ!!」と喚き続けたという。
どうやら、夢の中のベアトリーチェはハッピーエンドを迎えたらしい。
色々と言いたいことはあるが、漸く一息付けた気がする。
だって、もうベアトリーチェの物語は決着したので彼女の夢を見ないですむのだから。
顔色にも表れていたらしく、皆から「元気になったみたいで良かった」と労われた。
しかし、それで終わりではなかった。
7日目、ベアトリーチェとルドルフは遂に結婚式を挙げた。
豪奢ながら荘厳な式はその後数日に渡って語られるほど見事なもので、帝国の威厳も充分示していた。
そして新自治領にて、レオナルドの領主就任の式典が行われることとなった。
新領主に統治者としての地位を与えるために出席した皇帝夫妻は、まさしく帝国の頂点に相応しい威厳に溢れ、しかし仲睦まじい美男美女とも見えた。
式典は滞りなく進み、いよいよ主要の行事が行われようとした時だった。
「死ねぇぇぇぇぇ!!!!」
突如、ベアトリーチェの後ろから男が飛び出してきた。
粗末な身なりで目を血走らせた男の手には長剣。
警備の兵も間に合わず、彼女は死を覚悟した。
その時、
「…えっ…?」
ベアトリーチェのみならず、周りの人間は何が起こったのかわからず、ざわめきが消えた。
男は地に倒れ伏して既に事切れており、その身を剣が貫いていた。
刀身には草花の装飾が施され、柄頭には帝国の紋章が刻まれているそれは、つい先ほどまでルドルフが掲げていたものに他ならない。
ルドルフは涼しい顔で男に歩み寄って剣を抜き、血を拭き取ると何事もなかったように鞘に納めた。
「言っただろう。俺は愛している者は全力で守ると」
ベアトリーチェは思わずルドルフに抱き着く。
周りの人々は、そんな二人に割れんばかりの拍手と祝福を送る。
誰もが笑顔でいる中、イザベルは一人愕然としていた。
ベアトリーチェの暗殺を企て、ルドルフに倒されたその人物。
(嘘、でしょ…!?どうして、ま、マリウス様が…!!)
処刑されたヒロインの取り巻きと化していた、マリウスに間違いなかった。
(そんな、マリウス様が私を…、私を殺…!いやあぁぁぁぁぁ!!!)
ベアトリーチェの中、イザベルの慟哭が響く。
しかし、それに気づくものは誰一人としていなかった。
気が付くと目の前には見慣れた天井が映っていた。
酷く汗を掻いており息も荒い。
だが、何とかして誤魔化してマリウスに会わなければ。
使用人には「緊張しすぎたみたいで怖い夢を見た」とだけ伝え、気力を奮い立たせる。
しかし、約束の時間が近づくにつれて、イザベルの心を恐怖と不安が占めてゆく。
もう既に私を鬱陶しく思っているのではないだろうか。夢の様に私を凍てつく目で見下すのではないだろうか。
考えるなと自分に言い聞かせても、次々に浮かんでしまう。
「イザベル、失礼する」
「…マリウス様…」
彼の声が聞こえたのはそんな時だった。
当然ながら彼は夢とは違って自分を見下しては来ず、ただ何があったのかと困惑していた。
もはや限界だったイザベルの理性の糸は切れ、無我夢中で彼に縋り付き泣き出したのだった……。