3:破壊
「どういうことだよ、これ……」
アスカのつぶやくような独り言が聞こえる。ティアは息を飲み、ただ何も言えず、目の前に広がる光景に立ちすくんだ。
あちこちから煙が上がり、焦げ臭い。何かが焼ける臭がする。形が残っている家は少なく、かろうじて火の手を逃れた家にも、何やら巨大な傷跡が残されている。それは、まるで何かの爪痕のように見えた。
そして、かつては人であったであろうモノの残骸が、いたるところに転がっている。
ティアは目を閉じることもできず、その真っ赤な景色を、ただぼーっと見つめた。
首から上がなくなった死体。持ち主の分からない左腕。もはや焼け焦げ、人のシルエットだけになった物体。そういったものが、およそ目の届く範囲全てに散らかっていた。
あちこちに血が飛び散り、踏み荒らされた花壇に咲いたいく輪かの華は、その血で真っ赤に染められている。まるでタライを引っくり返したかのように一箇所に集まった血痕や、引きずられたようにかすれた血の道、そして、地面や家の壁のあちこちに押された血の手形。そのどれもが、ティアの頭にはわけの分からない記号として処理された。いったいこれはなんだろう。自分は何を見ているのだろう。ティアの感情は行き場を失い、体の中をさまよう。
「何なのよ、いったい何があったのよ……」
力ないリタの声が聞こえる。リタ意外の二人も、激しく動揺しているようだった。しかし、その一方でローワンだけは、顔色ひとつ変えずにその悲惨な光景を見ていた。
「みんな落ち着きなさい。襲われてからまだ間もないわ。たぶん、昨日の晩ね。生きている人がいるかもしれない。手分けして探しましょう」
彼の言葉にハッと意識を取り戻すと、ティアは首を左右にブンブンと振る。
(そうだ、生きている人がいるかもしれない)
ティアは、先程よりもはっきりした視界で、もう一度辺りを見渡した。
しかし、と思う。
そんな人、本当にいるのだろうか。
その光景は、ティアにそんな希望を持つことも許さないほど、残酷なものだった。
なんとか一歩踏み出そうと、ティアは体を動かすことを試みる。しかし、驚くくらいはっきりとした意識の下にありながら、彼女の体はピクリとも動かなかった。まるで金縛りにかかったかのように、彼女の足は地面にくっついて離れない。それどころか、腕を上げることもできない。ティアは目を閉じて、一度深く呼吸をする。が、彼女の想像に反して、鼻を通して彼女の体内に不快なものが大量に入ってくる。その生暖かい嫌な情報にむせ返る。
ふいに、彼女の右手を誰かがつかんだ。アスカだ。
「何がいるか分からない。俺から離れるな」
彼はティアの方を見なかったが、彼女が今まで見たこともない鋭い眼光がその瞳には宿っている。
はい。その言葉が声になったのかどうかは分からなかったが、ティアは答えた。
気がつくと、固まっていた体に温かい血が流れ始めたのを感じる。なんとか動きそうだ。ティアは左手を動かして、その実感を確かめる。
アスカはティアの手を話すと、先導してあるき始めた。彼女もその後を追う。はじめのうちは血を踏まないように注意深く進んでいったが、すぐに諦める。そんなことを言っていては、とても歩き回ることはできなかった。
周囲を確かめながら注意深く進んでいいくと、ひときわ大きな建物が二人の前に現れた。ところどころ崩れてはいるが、まだなんとか形を保っているようだ。入り口は完全に潰れてしまっていたが、瓦礫を登れば二階から中にはいれそうだった。
「この村の村長の家だ。確かめよう」
アスカが先に登り、ティアもその手を借りてなんとか二階へたどり着く。家の中は焦げ臭く、荒らされていた。ひっくり返った本棚や、大きな切り傷の入ったベッドが目に入る。歩くたびに床がギシギシと音を立て、今にも崩れてしまうのではないかと心配になったが、なんとか持ちこたえているようだった。
「誰も、いませんね」
ティアは前を行くアスカのマントをちょこんと掴みながらそう言った。
「いや、見ろ。血の跡だ。誰かが襲われてる。これを辿ろう」
アスカの指差す方を見ると、確かに血の痕が続いていた。かなり傷が深いようだ。大きな血痕が飛び散っている。
崩れた足場を注意深く下りながら、建物の一回部分に降りていく。血痕はしばらく続いたが、あるところで急に途切れていた。
「これ、どういうことですか?」
「たぶん隠し通路だ」
アスカはそう言うと、握った剣で床のをどんどんと突き始める。聞くと、確かに二人が立っている場所と血痕の途切れている場所で、音の響き方が異なっているようだった。
「この下だな。ちょっとこれ持ってて」
アスカはティアに剣を手渡すと、その場にかがみ込んで、何やら床を調べ始めた。ティアの方は、想像以上の重さがあったその剣に一瞬姿勢を崩しかけたが、なんとか踏みとどまって、その様子を伺う。
手持ち無沙汰になって辺りを見回すと、廊下の突き当りにひとつの絵画が飾られているのに気がついた。その絵画は、その場にあるモノの中で唯一、傷一つついていないきれいなものだった。そこには口から炎を吹く一匹の黒い竜と、その竜に槍を突きつける何十人という兵隊の絵が描かれていた。
(なんだろう。なんだか懐かしい絵だな)
ティアはそう感じながら、しばらくその絵を眺めた。
「開いた!」
ふいにアスカがそう言って立ち上がる。ギギギ、という気のきしむ音がして、彼の前に大きな『穴』が現れた。
「地下室だ。はしごがかかってる、気をつけて」
そう言い残すと、アスカはティアから剣を受け取り、ゆっくりとそこを下っていった。ティアもそれに続いて、その闇の中に体を落としていく。冷たい空気が頬に触れ、錆びついた鉄のはしごのザラザラとした感触が両手に触れる。
少し下ると広い空間に出て、その先に、ほんのりと明かりが灯っていることに気づく。二人ははしごを降りきると、壁に手を当て、それにそってゆっくりとその光の方に近づいていった。
「ミラルダさん!」
アスカが一足先にその明かりの方に駆け寄る。ティアもそれに続き、その空間が誰かの書斎であることに気付いた。部屋には本棚がいくつも並び、机の上にも本が積まれている。
そしてアスカが駆け寄った部屋の片隅に、長い髭の生えた一人の老人が倒れているのが見えた。その腹部は血で黒くにじみ、顔は青ざめている。
「ミランダさん! しっかりしてください! わかりますか?!」
アスカが声を荒げてその体を抱き起こす。
「誰だ」
アスカの声に気づいたのか、老人の口が小さく動いた。しかし、注意しなければ聴き逃してしまうほど、その声は弱く小さかった。その瞳はなにも見えていないのか、なにもない虚空をじっと見つめている。
「アスカです。アスカ・クルスです!」
「おぉ、アスカか。これまたなんという時に……」
そこまで言って、老人は咳き込む。その口からは血が飛び、老人の衣服を赤く汚した。
「ミランダさんもうしゃべらないで、今手当をしますから!」
「いや、もう遅いよ。私はすぐに死ぬ」
「そんな!」
「自分の体のことは自分が一番良くわかる。もう手遅れだ。血を流しすぎたよ」
消え入りそうな声で言いながら、老人は震えながら手を動かすと、それをアスカの手の甲にのせ、今から言うことをよく聞きなさい、と続けた。
「竜の一族が蘇ろうとしている。魔法戦争は、まだ終わっておらん」
「何を言って――」
「千年続いた平安が終わる。竜が目覚め、魔法は彼らの手に戻るだろう。そうなる前に、逃げなさい! あの街に戻ってはいけない!」
アスカの疑問には答えず、老人はそこまで言い切ると、また大きく咳き込んだ。先程よりも多くの血が飛び散る。既に限界が近いように見えた。
「ミランダさん! しっかりしてください! ミランダさん!」
「私より、他のモノたちを助けてやってほしい。みな、無事か?」
老人の声が、少しずつ小さくなる。アスカはその言葉に少しだけ息を飲むと、老人の手を両手で強く握って答えた。
「はい。まだ生きている人がたくさんいます。大丈夫です」
その瞳には、涙が浮かんでいるのが見えた。嘘だった。その嘘は、アスカ自身が老人の最後を悟ったことを意味している。ティアはそのことに気がついて、ただ自分の唇をぐっと噛んだ。それは、自分自身の無力さを嘆いてのことでもある。
「全く、嘘がつけん男だ。お前は」
老人は、最後にそう言って、小さく笑った気がした。いや、たぶん笑ったのだろう。アスカの手においた左手が、ゆっくりとその甲を滑り落ちる。瞳を閉じ、一度大きく息を吸うと、それをゆっくりと吐きながら、その体は次第に動かなくなっていった。
冷たい地下室に、沈黙が流れる。小さく嗚咽を漏らすアスカの元に歩み寄ると、ティアはその両方に手そっと手をおいた。他にどうすればいのか、どんな声をかければいいのか、彼女にはわからなかった。
温かい。ティアは頭のなかでつぶやく。
死に支配されたその場所で、生きているものの存在をすがるように確かめながら、ティアはゆっくりとその背中をさすった。アスカは何も言わず、何も言わなくなったその老人の体を、ずっと抱きかかえていた。