3:街
一
(だめ、追いつかれちゃう!)
心臓が今にも破裂しそうなほど激しく、ティアの胸を打ち続ける。地面を蹴る足のリズムは、なかなか一定にならず、時折よろめいては転び、そのたびに足を擦りむいた。
振り返る余裕はなかったが、背後で笑い声とともに近づく男たちの足音は、段々と大きくなっているように感じた。
遊ばれている。ティアにはそれが分かっていた。
本気を出して走れば、彼らはすぐにでも追いつくことができるはずだ。しかしそれをしない。ティアが疲れて走れなくなるのを待っているのか、あるいはどこかに追い込まれているのか……。既に限界に近い体力の中でなんとか走り続けながらも、ティアの頭のなかでは不思議とそんなことを考えるだけの余裕があった。
なぜこんな事になったのか。きっけかは彼女の好奇心だった。
展望台から見渡せる広大な町並みの、その殆どの場所を彼女は知らない。そこでいったいどんな人たちがくらし、どんな生活をしているのか、そんなことに興味を抱いてしまった彼女を止めることができるものは、その時その場にはなかった。
ティアは手始めに、登ってきた方とは反対側の大通り、すなわち、自らの住む地区よりもより裕福な人たちが暮らす地区へと足を踏み入れた。
もちろん、道に迷わないよう心がけたし、小さな路地にはできるだけ入り込まないようにした。ただ一つ考え足りなかったのは、ある種の人間から見たときに、ティアが『標的』になりえるということを彼女が知らなかったことだ。
その地区には裕福な人間が多く暮らす反面、そういった人たちからの施し目当てで集まる乞食や、あるいは盗人などが多く集まっていた。通りから一つはずれれば、そこには陽の光を避けて暮らす荒くれ者たちの住処だ。
そして運悪く、彼女はそういった者たちの視界に捉えられた。
「こんなところで何してるのお嬢ちゃん、一人かい?」
そんな声に振り返ったとたん、腕を捕まれ、彼女は路地に引き込まれた。声を出そうにも口を抑えられ、体の小さなティアには抵抗さえ許されない。
「おっと、あんまりうるさくしないでくれよ。ちょっと話を聞くだけだから」
顔は見えなかったが、低く、それでいて若い男の声がティアの耳に入る。ティアの体を抑える腕は太く、力では絶対に敵わないことがすぐに分かった。
「大丈夫、お父さんとお母さんがすぐに助けてくれるよ」
ねっとりとした声でそう言うと、男は彼女の耳元で小さくなにか囁いた。
その瞬間、ティアの意識はまるで張り詰めた糸にナイフを入れたみたいに、唐突に途切れた。
二
「ばっかやろう! こいつはどうみても貴族の娘じゃないだろ!!」
そんな大声で、ティアは再び目を覚ました。
視界がぼやけ、体が重い。なんとか首だけ動かして、彼女は声のした方を見ようとする。
「へぇ、すみません……親が近くにいなかったもので、狙い目かと思いまして……」
「お前はいつまでたってもロクな仕事をしないな!」
「す、すみません!」
次第にぼやけていたものの輪郭がはっきりしてくる。薄暗くジメジメとした空間の中に、二人の男が見えた。
一人は、声からして先程ティアを襲った男だった。そしてもう一人、その男に向かって怒声をあげる男がいる。二人が何を話しているのかはよくわからなかったが、少なくとも楽しい話ではなさそうだった。
ティアはバレないように少しずつ体を動かし、どこかに異常がないか確認する。
幸いなことに、何かに縛られているということはなさそうだった。まだ体が痛むが、動けそうだ。ティアはもう一度男たちの方に目をやり、二人がまだこちらに気付いていないことを確認する。
「まぁ、見たところ悪くない女だ。売れるところには売れるかもしれん」
怒鳴っていたほうの男が、急にそんなことを言い出した。
嫌な汗をかいているのが自分でもわかる。ティアは考えるよりも早く飛び起き、気付いたときには走り出していた。
「おいバカなんで起きてるんだよ! お前は魔法もろくに使えないのか!」
背後でまた男の怒鳴り声がする。しかし、そんなことに気を向けている余裕はなかった。自分が今どこにいるのか、どこに向かって走るべきなのか、その一切が分からなかったが、とにかく彼女は足を動かした。
人一人がやっと通り抜けられる広さの通路を、体をねじりながらなんとか進んでいく。足元に人が寝ていることもある。
食べ物が腐ったような異臭が、異様な湿気でその臭いをより劣悪なものにし、呼吸をするたびにティアの体に毒を塗っているようだった。なんてところだ、ここは。ティアはすんでのところで吐き気を我慢しながら、壁を手で掻きわけながらどこにあるかも分からないゴールを目指した。
三
どれくらい走っただろうか。もう何時間も走り続けている気がするが、おそらくそんなことはないのだろう。相変わらず背後からは男たちが追いかけてくる。地形を知らないティアにとって、圧倒的に不利な状況がずっと続いている。
太陽はとうに沈んでいるようだった。街灯の赤い炎があちこちで揺れ、空を見上げれば、建物と建物の間の狭い空間には星が輝いて見える。
ここはいったい何だ? まるで人工的に作られた迷路のようだ。
時折広い通りに出ては、隠れるためにまた狭い路地に入る。そんなことを繰り返しながら、ティアはあまりに複雑な地形に目を回していた。
ふいに、走る彼女の左腕を誰かがつかみ、ティアの体に加わる力の向きが急激にその方向を変えた。
「きゃっ!」
叫ぶ間もなく、彼女の体は小さな闇のなかに引き込まれ、口を抑えられる。つかまった。そう思ったのも束の間、どこかで聞いた声がティアの耳に小さく語りかける。
「静かに。あんまり暴れないで。こっち」
声の主は手をティアの手をとると、その暗い通りの中を導くように先導した。
壁と壁の間は極端に狭く、体を横向きにしてやっと通れるほどの小さな空間だった。足音で時折小動物が呻く声を聞きながら、ティアはなんとかその影の後をついていく。いつのまにか、男たちの気配はしなくなっていた。
何度か曲がり、上りを繰り返した末に、ついに二人は広い空間に出た。
何本もの街灯が均等な間隔で立ち並んでいる。人影もある。建物からは人々の笑い声がする。
――人の住む場所だ。
ティアは安堵のため息を大きくついた。先程までとは違う、毒のない空気を肺いっぱいに吸い込んで、彼女はまだ激しく鼓動を続ける心臓に手を当て、そのリズムを整えていく。
「アズガざぁん……」
そして、街灯に照らされてその姿を表した一人の少年に、鼻水混じりの声で小さくつぶやいて飛びついた。
「おいバカやめろ! 汚れるだろうが!」
少年はしがみつくティアをなんとか引き剥がそうとしたが、グズグズと鼻をすすりながらしがみつく少女を見て、その抵抗もすぐに止めた。
街灯に照らされたティアの身なりはひどいものだった。
上着は取られたのかなくしたのか羽織っておらず、白かったはずの薄いワンピースはところどころ破け、あちこちが茶色く汚れてしまっていた。いつもならまっすぐ伸びた髪も乱れ、それはまるで、初めて彼女を見つけた日のようだった。
「ど、どうじてここがわがったんですが?」
顔を埋めたままそう問いかけるティアに、アスカは自分のマントを羽織わせながら答える。
「わかんなかったから探したんだよ。開店時間前になっても帰ってこないから、まあ何かあったんだろうなって思ってさ。万が一何かあったなら、だいたいの場所は見当がついたからな」
嗚咽を漏らしながら小さく震えるティアの肩にそっと手をおいて、アスカは彼女が落ち着くまでしばらく待つことにした。
大通りは、昼の賑わいが嘘のようにしんとしていた。時々思い出したかのように道行く人の談笑が聞こえるが、それも多くはない。街灯の下からでは夜空を仰いでもほとんど星は見えなかったが、空には雲ひとつなく、月はその場所からは見えなかった。今夜は新月だっただろうか。アスカはそんなことを考えながら、震える少女の背中を擦り続けた。
しばらくして、なんとか泣き止んだティアは、目にたまった涙を両手で拭いながらその手を話した。
「怖かったか?」
その問に小さく頷くと、少女は両肩にかかったマントの裾を両手でぎゅっと握りしめた。「ごめんなさい」。ちょっと気を抜けば聴き逃してしまいそうなほど小さな声で、彼女はそういった。
「私、お店にも迷惑かけて……」
「お前のせいじゃないよ。きちんと注意しなかった俺たちも悪い。こっちは、女の子が一人で来るようなところじゃないからな。でもまあ、なんとか間に合ってよかったよ」
それはアスカの心からの声だった。
彼がティアを見つけることができたのは、単に運がよかったからだ。実際、少し遅れていたらどうなっていたか分からない。この広い夜の街で、人一人を見つけ出すというのは、並大抵のことではない。
アスカは少女の顔や体をみながら、乱暴はされていないようだと推測することができた。それは、彼女が男たちから必死で逃げていた事実からもわかる。もし襲われた後なら、あそこまで必死に逃げることはできないだろう。
「さ、帰ろう。たまには無断欠勤もいいさ」
そう言ってティアの頭を優しく撫でたアスカの声に安心したのか、彼女はまた大粒の涙を流しながら、大声で泣いた。




