プロローグ
一
「こんなことなら、さっきの商人に街まで送ってもらえばよかったな」
アスカ・クルスは、山道の隅でひときわ大きな一本の大木に身をよりかけながら、つぶやくようにそういった。
さきほどまで頭上で世界を照らしていた金色の太陽はいつのまにか分厚い雨雲に覆われ、そこから大量の雨粒が滝のように降り注いでいる。かろうじて雨はしのげていたが、ゆっくりと時間をかけて葉を伝い落ちる大きな雫が時折彼の黒髪を濡らした。
「だ・か・ら! 私は乗せてもらおうっていったのよ! バカ!」
雨粒の矢が大地に突き刺さる騒音の中で、虫の音のように発せられたアスカのひとりごとを、その隣で座り込む少女――リタ・クルスは聞き逃さなかった。世界の喧騒に一人抗うと言わんばかりの大声を張り上げ、彼女の不満は続く。
「もう三日もベッドで眠ってないのよ!? 服も洗えてないしお風呂にも入れてないしもう最悪! それなのにせっかくだから歩きますーって何がせっかくよ! もう一生歩かなくても健康で暮らせるくらい歩いたんだから!」
彼女の不満は収まるところを知らず、山道を流れる泥水と共に流されながら止めどなく溢れ出る。もっとも、彼女の怒声それ自体には大した意味はなかった。ただ大声でストレス発散ができればそれでよかったのだ。アスカもそれが分かっていたから、彼女の言葉に口を挟むことはしなかった。こういう時は、なんとなく聞いたふりをしていればいい。
暫くの間リタはグダグダと不平不満を口にしていたが、次第にその声は小さくなり、最後には疲れて黙りこんでしまった。体を洗いたいなら絶好の機会だと思うけど、というアスカの心の声は、溜息と一緒に湿った世界に沈んでいく。
「悪かったよ。お前の言うとおりだ。ただ、俺だって別に歩きたかったわけじゃない。なんとなく嫌な感じだったんだよ、あの商人」
頃合いを見計らって、謝罪の言葉を述べると、
「出た。お得意のなんとなく嫌な感じ」リタはいやみったらしくそれに応え、「ま、あんたがそう言うんならそうなんだろうけど」と続けた。
「とりあえずずっとここで雨宿りしてるわけにもいかないし、前に進もうか。どうせ明日中には街につけるだろうし、一晩くらい雨に濡れるのはこの際しかたない」
「今晩野宿するのは決定事項なんだ・・・」
アスカはそんなリタの嘆きには耳をかさず、身につけた黒いマントのフードをかぶると、足早に一人歩き出した。まってよバカ、という声が後ろから聞こえ、小走りで追いかけてきたリタがその横に並ぶ。アスカのマントの裾を右手で控えめに掴みながら、リタは少しづつ近づいてくる遠雷の音に注意深く耳をすませた。
歩調を合わせるのはアスカの役目だ。彼女が並ぶと、その歩幅に合わせて少しだけ歩く速度を落とす。
並んでみると、アスカの方がリタよりも頭半分背が高く、当たり前だが体つきもがっしりしていた。髪の色もアスカが黒髪なのに比べ、リタは綺麗な赤毛で、長く伸ばしたその燃えるような後ろ髪は真ん中を赤いリボンで束ね、今はマントの中で眠っている。対してその瞳は青く、澄み切った晴れ空をそのまま切り取ってきたかのようにどこまでも深く澄んでいた。
勝ち気な性格が災いして女性らしさが身を潜めがちだが、黙っていればそれなりの美人であることは誰の目にみても明らかだった。それはアスカにとっても首を縦にふるところだったが、双子の姉に対してそういうことを面と向かって口にする機会はない。
ふたりはしばらくの間だまって山道を下り続けた。雨の音は次第に弱くなり、峠のふもとにたどり着く頃には雨雲の隙間からところどころ青空が除くほどに天候は回復していた。
雫に濡れた緑の大地が差し込む太陽の光に照らされ、視界の中で不規則にキラキラと輝く。それは突然の雨に気分の沈んだ二人にとっては、なかなか見事な景色だった。一点、峠の淵にそって流れる小川だけは、その様子をいつもと一変させ、ものすごい勢いで泥水を下流へと運んでいく。
そして峠と小川の向こうを結ぶ小さな橋の隅に、それは無残にも転がっていた。
「やっぱり当たるんだよな。こういう時の俺の勘って」
濁流に一部流されてしまったおかげでその全貌は把握できなかったが、そこにあったのはつい数時間前に二人を追い越した商人の馬車だった。家畜を運ぶために屋根のついた中型の荷台が、そのおしりだけをかろうじて陸に引っ掛けていた。
馬車道からずれるように、その馬車がつけたであろう車輪の痕がぬかるんだ土を切り、川の方まで続いている。普段なら馬車が事故をおこすような下り坂ではないのだが、激しい雨の影響なのか、とにかくその馬車は制御を失ったようだった。見事な毛並みの黒い馬だったが、今その姿はそこにない。見ると、少し下流の河原に、その巨体が打ち上げられている。大きな流木がその激しい流れから、かろうじて馬を食い止めていた。すでに息はないのだろう。その体はピクリとも動かなかった。二人が短い会話を交わした小太りの商人の姿も見ることはできず、残った荷台だけが激しい川の流れにギシギシと音をたてている。
「かわいそうに。きっとものすごい勢いでここを下ったのよ。それってすっごく怖そう」
リタはそう言いながらおもむろに半壊した馬車に近づく。危ないぞ、と、アスカが忠告するより早く、彼女は荷台の後ろ扉に手をかけ、それを両手で勢い良く開けた。しかし、もろくなっていたドアは彼女の予想通りの軌道を描かず、勢い良く車体から外れた。予想外の向きに力がかかったことで体制を崩しかけた彼女の体を、いつの間にか駆け寄っていたアスカがしっかりと受け止める。
「ありがと」
当然のことをしたと言わんばかりに悪びれる様子もなく、リタはそういった。あんまり信用されるのも考えもんだな、とアスカはため息をつく。
そんなアスカを横目にも見ず、リタは開放された馬車の荷台を覗き込み、ねぇ、とつぶやいた。
「あんたのその勘、別の意味で当たったんじゃない?」
別の意味? と、一度彼女の言葉を頭のなかで反復してから、アスカはその真意を確かめるために彼女の視線に続く。そして、斜めになった狭い荷台に横たわる一人の少女を見つけた。
「奴隷商人か・・・」そう言って、アスカは顔をしかめる。
服、というにはあまりに質素な一枚の布切れを羽織い、そこから伸びる四肢はどれも華奢で、今にも折れてしまいそうだった。四分五裂に放り出された淡い青の長髪がその顔にへばりつき、その少女の表情を隠す。
なにより、少女の右腕に墨で掘られた竜を模した黒の十字架が、彼女が『商品』であると物語っている。
アスカとしてはできれば見なかったことにしたい積み荷だったが、このまま見過ごすわけにもいかなかった。何より、そんなことはリタが許さない。
「面倒な拾い物しちまったな」
川に落とされないように慎重に手を伸ばして、やせ細った少女を引っ張りだす。息はあるようだが、気絶しているのか、その体は予想より僅かに重かった。
「とにかく橋渡っちゃいましょ。私たちまで流されちゃう」
「そりゃそうだけど、この馬車どうするよ。これだけ見たら俺らがこの子強奪したみたいだぜ」
アスカは少女を横抱きで持ち上げ、持ち主を失った半壊の馬車に目を向ける。一見不幸な事故に見えるが、もしもこの馬車の積み荷を知る者がここにやってきたら、その荷台に『商品』がないことを疑問に思うはずだ。その結果、何者かがこの馬車を襲撃したなんて憶測をめぐらすかもしれない。特に竜の十字架は、それが王宮の積み荷であることも意味する神聖なマークだ。人助け以上に厄介なことに巻き込まれかねない。
「それもそうね」
リタはアスカの言葉にうなずくと、おもむろに右手の掌を馬車に向ける。おいおい――と、アスカが口に出すよりも早く、彼女はその小さな指先から火を吹いた。
それは比喩表現でも何でもなく、文字通りの火だった。ドンッという鈍い音が鼓膜をうち、熱風が頬を走り抜ける。彼女の手から発せられた炎の衝撃波は、先程までアスカの腕の中の少女を守りぬいた半壊の荷車を無慈悲にも破壊した。
四散しながら中を舞う無数の木片は、濁流の中に小さな音とともに吸い込まれ、一瞬で姿を消す。
「やっぱり街の外だと威力も激減ね。今のが限界みたい」
「わざわざ魔法を使うかね・・・」
「とりあえず全部流しちゃえば、証拠は残らないわ」
リタはそう言って満足気に頷くと、踵を返し一人スタスタと橋を渡っていく。
残されたアスカは、焦げ付いた馬車の破片が誰にも見つかりませんようにと、ただ祈るだけだった。
二
アスカのいったとおり、その日は野宿になった。夜通し歩けば明け方には街についたかもしれなかったが、少女を一人抱えながらその道を歩ききるだけの体力はアスカにはなかった。
昼間の暗澹たる雲行きがウソのように、新月が身を潜める夜空には星星が輝いている。アスカは消えかけの焚き火の横で寝っ転がってその景色を仰ぎ見ながら、その底のない漆黒の空に一人意識を広げていた。
何を考えるでもなく、その思考はふらふらと彷徨う。ひとつの区切りが付く前にはまた次のひとつへと、アスカの思考はぼんやりとした意識の海の中を難破した小舟のように右往左往する。輪郭のはっきりしないイメージが、大きくなったり小さくなったりして、時折思い出したように我に返ってはまた収束した意識を空に広げていく。開放された空間を時折走り抜けていく夜風が心地よく、彼はいつまでもそうしていたい気分だった。
リタはその横で両膝を抱え込んで座りながら、焚き火を挟んで向かいに横たわった少女をじっと見つめていた。
「またローワンに怒られちゃうね」
「今度は動物でも物でもなく人間だからな。怒るを通り越して呆れそうなもんだけど」
「確かに」
アスカの返答にリタはそういって、まるでいたずらに成功した子供みたいに小さく笑う。
リタ自身、まさか奴隷の少女を拾うことになるとは思ってもみなかった。
まだ幼い顔つきだったが、その青髪の少女が自分たちと大して年が変わらないであろうことはその風貌から見て取れた。身長はリタよりも少し低い程度で、あまり食べていないせいなのかその体はやせ細っていたが、胸部の膨らみや綺麗に整った手足の指先からは、子供のそれではない女性らしさを感じた。
乱暴はされていないだろうか――そう考え、すぐにそれはないだろうと自分に言い聞かせる。特に女の奴隷を売るのであれば、処女のほうが高値で取引される。若い少女ならなおさらだ。同じ女の身としてはあまり考えたくはなかったが、リタはせめてそうであって欲しいと祈るように天を仰ぐ。
ふと、闇に隠れた大地の向こうに、白くぼやけた光が浮かび上がった。
その光はゆらゆらとゆっくり揺れながら、少しづつ少しづつ大きくなる。
(旅人? 違う、あれは・・・)
リタはアスカの左手を強く握りしめた。異変に気づいたアスカはすでに体を起こし、右手に剣を構える。
その光は、炎のそれとは随分違っていた。冷たい白色が地面をはいながらゆっくりと近づき、輝きはしだいにその輪郭をはっきりさせていく。
二人の一〇メートルほど前で立ち止まったそれは、一匹の白い馬だった。しかし、ただの馬ではない。白銀のたてがみを夜風に揺らし、その額からは細くとぐろを巻いた一本の角が、闇空に向かって凛と伸びている。何もかも見通すようなその瞳は青く、ただじっと二人のことを見つめていた。
ユニコーン――。その風貌は、まさにお伽話に聞く伝説の獣そのものだった。二人は息を呑み、ただその雅やかな佇まいに目を奪われた。
「まさか……」
予想もしていなかった自体に、アスカはそうつぶやくのが精一杯だった。自然、リタの左手を握る掌に力が入る。
一角の角を額から伸ばしたその獣は、アスカたちの前で未だ目覚めない青髪の少女に近づくと、その額に自らの角を触れさせる。その角から溢れでた柔らかな光が少女を包み、それに応えるように少女のうちから青い光が現れ出る。
「何をしているの? あれは魔法?」
目前で行われている秘密めいた儀式の外で、リタはその様子を注意深く眺めた。
獣はしばらくそのままの佇まいで少女に寄り添うと、その腕の黒竜印を舌で舐めた。途端、バチンという激しい音とともに、その印は少女の腕から消え去った。その時、それがただの刻印ではなくある種の魔術であったことを二人は悟る。
『定めの時は近い』
突然、一角獣は顔をあげると、アスカとリタの方を見つめそういった。その口は全く動いていなかったが、その白い獣の言葉は、空間を震わせながら二人の耳に届く。
『世界は、またあるべき姿を取り戻す』
呆然と立ち尽くすしかない二人をよそに、獣は続ける。
『この子を助けてもらったこと、礼を言おう。こうなる運命だったのかもしれない。私の未熟さゆえのことだ』
「何を言って……」
『聞け、地上の民の子らよ』アスカの話など聞く気がないと言わんばかりに、獣は彼の言葉を遮る。
『我が名はアトラス。竜を呼び起こすものなり』
そういって、一角獣はゆっくりと頭を垂れた。
『娘を頼む』
しばらくの沈黙があった。それがどれくらい長い沈黙だったのか、アスカにもリタにもはっきりとは分からなかった。薪がパチパチと音を立てて割れ、冷たさをました夜風が吹き抜けていく。
二人の返事を待たずに、アトラスと名乗った一角獣は頭を上げると、踵を返し再び夜の闇の中へその足を踏み出した。
「待って!」
リタが、やっとのことで声を絞り出し、その後ろ姿に声をかける。
「名前は?」震える声がそうつぶやく。
「この子の名前は?」
アトラスはその問いかけに動きを止めると、一瞬の間を置いてから、
『ティア』
そう答え、ゆっくりと闇夜の暗黒にその身を溶かしていった。アスカはそれを見届けると、剣の柄を握る右手の力を緩める。
青髪の少女が目覚めたのは、その少し後だった。