翻弄 聞こえてくる声
暗い暗い闇の中で、私に手を差し伸ばしていたのは、神様でも親しい友人や職場の同僚でもなかった。手を伸ばしていたのはまぎれもなく自分自身だった。この長い長いトンネルの中から救い出してくれるのは、やはり自分か。嬉しくもなり、少し悲しさを覚える。
結局、自分のことが一番分かっているのは自分。他の誰でもない。自分自身なのだ。
下半期の芥川賞の受賞者の名前が発表された。その二人の中、一人に私のよく知った名前があった。何度も忘れようとしたが、忘れることは出来なかった。
私から夢を……これからの未来を奪った名前だ。才気溢れる彼女は私の欲しかったものを全て奪い去っていった。まるで私をあざ笑うかのように。しかも一度ならず二度も。
私はある文芸書の新人賞に小説を応募した。
何ヶ月もかけて、作り上げた渾身の作品で自信はあった。今詰め、煮詰めに煮詰めて、ようやく形になった作品だった。
しかし、私のその魂の結晶も落選してしまった。馬鹿な、何かの間違いだと私は激しく嘆いた。それだけ、自分の作品に確固たる自信があった。それだけの想いを私は今回の新人賞に賭けていたのだ。
だが選ばれたのは、彼女だった。若く、笑顔も素敵でとても愛嬌のある女性だった。
負けた。信じられない。どうして。混乱し、動揺する頭の中を少し落ち着かせ、彼女の作品を読んでみた。内容はどうってことのないエンタメ要素の強い作品だった。この作品に私の渾身の作品が敗れたのか。無念だった。今までの突き進んできた時間を返してくれよと訴えたくなる。私から過去と未来を奪いさったこの娘を私は絶対に忘れることはないだろう。
その後さらなる悲報が私に舞い込んだ。自分が目指していた芥川賞をものの見事に例の彼女がデビュー作で授賞したのだ。空いた口が塞がらなかった。激しい空虚感と徒労感。悲しみの泪はとうに出尽くしていたので、私の心から溢れ出ていたのはこの若き少女に対する想いだけだった。妬み、羨み、劣等感という感情。許さない。許さない。絶対に許さない。激しい憎しみの業火が燃え上がり、私の心を突き動かした。これ以上、私を惨めにするというのなら、許さない。絶対に許さない。テレビの中ではキャスターが彼女の作品がどんなものなのか、簡単に説明して、要所要所をピックアップしている。私は考えていた。このまま、芥川賞贈呈式会場に行ってみようと。そして、このきらびやかな表情をしている彼女の顔を苦悶の表情に変えてやると。
私の顔はほくそ笑んでいた。
台所まで一目散に走って行き、果物ナイフを右手に取って、自分の左手の甲に突き立てた。
激しい痛みが襲ってくると思っていたが、実際は刃は手の甲ではなく指と指の間をすり抜けて、下のまな板に刺さっていた。少し安心したが、物足らなさを感じる。
芥川賞の贈呈式に向かう。会場は言わずと知れた帝国ホテルだ。ワイシャツを着用し、その上に背広を羽織り、スラックスを履く。
最後に、鏡で再度確認して服を整えてから。
よしっ。では行くとするか。
玄関付近の小物入れにある財布と部屋鍵を持つ。
おっと、一番大切な物を忘れるところだった。
果物ナイフを手に取り、そして、背広の内側の胸ポケットに忍ばせる。
革靴をはき、アパートの自室から出た。
交通量の多い通りに出て、私は手を挙げて、タクシーを止めた。運良くたまたま走っていてよかった。後ろの扉が自動で開けられる。私はゆっくりとタクシーの内部に乗り込んだ。
「お客さん、行き先はどちらまで行かれますか?」
年齢は六十くらいであろうか、大分髪の毛が荒廃してきているメガネをかけた初老の男性がにっこりしながら聞いてくる。
「ええと、帝国ホテルまでお願いします」
私は事前に調べておいた情報を話した。現在芥川賞の授賞式は帝国ホテルで行われている。
「はい。帝国ホテルですね」
初老のタクシー運転手がにこやかな表情で行き先を確認した。人っ子のよさ気な感じが表情から出ている。
「帝国ホテルにお泊りで?」
とろとろとタクシーが動き出してから、運転手が話し始めた。
「いいえ。ホテルで友人と待ち合わせしてるだけなので」
それっぽい返事を返す。あまり、この運転手と話していても、変に感情が乱れるだけだ。
これから自分がその会場にしに行くことを考えれば、自分のすることながら、非常に恐ろしいことだと思う。胸元に忍ばせてある果物ナイフを触る。何度も何度も触っていないと、心が落ち着かない。そこにあるべきものがないと、きっと私はここで黙ってはいられないだろう。この胸元にある凶器が私の心の中の感情の一つである狂気を抑え込んでいるんだ。私はそう思う。そして会場に着いたら、その抑えつけられた感情は開放される。そうしたら私はその狂気の名の下に、その場で振る舞うだろう。息苦しさと貧乏ゆすりが激しくなる。少しは緊張しているようだ。無理もない。
「なるほど。待ち合わせ場所が分かりやすい場所でよかったですね」
笑いながら運転手は受け答えする。
「ええ、私も帝国ホテルでよかったと思ってます」
私はそう言い、静かに目を閉じようとする。帝国ホテルまでこうしようと思った。あっちに到着したら、否が応でも目をかっ開いておかなければならない状態が続くと思うので、私は余分な外界の情報をシャットアウトするかのように静かに瞳を閉じるのであった。
乾ききった路面を走る車のタイヤの走行音がとても寂しく感じられた。帝国ホテル到着までの間、私は考えることを止めた。
私が、定職に就いたのは三十歳間近の二十九歳終盤になったときだった。それまでは適当なアルバイトを探して、短期間限定でバイトをしていた。元々、長続きするような質ではないし、飽きっぽい性格で、面倒くさがりな性分から長期的なバイトは苦手というかまるっきり駄目だった。そんな腐ったミカンのような自分がまともな就職場所を見つけるわけもなく、ただ時間だけが無残にも過ぎていった。
そんな虚空ばかりを眺める私、親と顔を会わせれば口論の嵐、終いには橋の下から拾われてきたと言われる始末。そんな私を救ってくれたのは友人の一本の電話だった。
私の今の現状を叱咤激励するかのように、忙しなくなる電話。出てみるとそれは友人からの就職先の斡旋の電話だった。介護職が足らない現状から、体力とパワーだけは有り余ってる私に白羽の矢が立ったみたいだ。年齢の問題や友人の折角の誘いということから私は何も労せず、介護職に就いてしまった。この選択が正しいかどうかは分からない。しかしながら、私の苦難はここから始まったのである。
芥川賞。何とも嫌らしい響きだ。私の心を
童心に戻してくれたおまじないの言葉だ。また何かに熱心に取り組むことを思い出させてくれた言葉でもある。介護という職に就き、
私は変わらない時の流れの中にいた。私は時として、その流れに身を任せたり、時には反発したりしていた。そう、刺激を欲していたのだ。しかし、行う業務内容は毎日がほぼ変わらないものばかり。リネン交換に入浴介助、食事介助、ハイター消毒という代わり映えしないものばかり。それを黙々と毎日こなしていく。この業務内容が自分に向いているかどうか、考えてみるが分からない。
そもそもこの仕事内容なら自分でなくても、他の誰かでもできるのではないだろうか。答えは○である。
決して楽ではないが、へたり込むという感じでもない。とにかくつまらない。感情が有り余っている。
朝の申し送りを聞き、今日も同じ業務内容を指示され、それにのっとっていくようだ。この吐き出したくても、吐き出せない感情はどう処理すれば良いんだろう。それは溜まる一方でどこかで処理しないと溢れてしまう。
まるで溜池のようだが、私の心は常にそれのようだった。不満は大有りだ。しかし、この業務を選択したのは自分自身で、こうなってしまった場合も想定していなければなかったと思う。私は日々のこの鬱憤を晴らすかのように筆を取った。高校から続いていた小説の執筆活動。当時は遊び半分で作成していた作品も、ここ数年では賞に応募するようになっていた。作品は箸にも棒にもかからない有りさまで、落選ばかりだが。でも今回自分が手がけた作品はひと味も二味も違う。何故なら、以前とは異なる込められた思いがあるからだ。
この一年間の私の想いはそう簡単には表現できるとは思わない。だからこそ言葉で少しでも書いていく。それが正しいかどうか分からない。でもそれを書いている間は、私はこの書くということに没頭できた。
熱心に。一生懸命。時間。それは普段の仕事とは違い、非常に集中できた。
夜な夜な、苦しみながら書き、最後には一つの作品が生まれた。
出来上がったのは夜の午前二時を回っていた。仕事から帰宅してぶっ通し書いていたので、疲労は中々溜まっていた。
「出来た。遂に出来たぞ」
笑っていた。肩を大きく揺らしながら。夜な夜ないそいそと書いていた。応募のやり方をきちんと読む。
会心の出来た。日々の鬱憤を力に変えて私は、遂に作品を完成させた。作品を応募した。一つのことが終わってしまい、一安心。しかし、この作品の結果がでるまでに半年間の時間がある。私はその間、この退屈な日常に我慢出来るであろうか。
「またか」
作品を応募してから一ヶ月が経過していた。
一旦は満たされた感情ももうすでに元通りに戻っていた。あの時のすっきりとした感情は中々味わうことはないだろう。
私はというと今日もリネンをいそいそと交換していた。
「おいおい、応募した作品が泣いてるぜ」
どこからともなく声が聞こえてきて、私は周囲を見渡した。見えるのは入居者様の居室、ハイター消毒をしたので、部屋中はそのハイターの匂いが充満している。
耳には、わずかに異変があった。軽く耳鳴りが残っている。
きーんという強い音ではないので、我慢する。
何だ、この感じは。強い音ではないけど芯に残る感じだ。
「おいおい、無視するなよ。聞こえてるんだろ。全く。返事くらいしたらどうだ」
私の脳裏に直接響いてくるこの声の主はよほど私と会話したいらしい。
「無視なんかしてないさ。話したくないだけ」
私はきれいさっぱりと断る。この声と話していてもいいことはなかった。
「つれないなぁ。何回もピンチを救ったのに」
確かにそう言われるとそうかもしれないが。
この声の主と初めて会った時を思い返してみる。
小説を書くに当たり、私は悩んでいた。あまりに悩みすぎてしまって。気持ちがいつも以上に疲弊していた。
そんなときに彼とは出逢った。
先に話しかけてきたのは彼だった。
「やあ」
たったの二文字。彼が発したのはこの挨拶からだった。初めは空耳かと想い、何も反応しなかったものだ。
「溜め込んでるねぇ」
彼は続けて言った。貯めこんでるとは一体何を貯めこんでるというのだ。私は男の問いかけに耳を傾けてしまった。
「君もぎりぎりのところで何とかなったみたいだね」
声の主が意味不明なことを言ってくる。
「どういうことだ?」
私はたまわず聞き返してしまった。
「ようやく返してくれたか。さぁてどこから話すとするか」
彼はそう言い、ちょこんと私の前に姿をあらわした。私の視線の先に写ったのは一羽のカラスだった。漆黒の羽毛をテカテカと輝かせている。
「カラスが言葉を話している……」
私は一瞬目が点になった。私の目の前にいるカラスが何と言葉を話しているのだ。出てくるまで、人間の小さな子どもが応対しているとばかり思っていたので、尚更そこで驚きの表情をした。
「びっくりした?」
カラスは特に驚いた様子もなく、聞いてくる。
いやいやそりやびっくりするでしょう。私はここでいったんどうするか思案していると
「僕がしゃべれるのはどうしてかなんて野暮なこと聞くなよ。それよりどうするの?」
カラスはそう言うと、私のほうを見た。カラスが私の方を見ている。
「どうするって?」
私は聞き返す。このカラスが何をいいたいのか理解不能だ。
「だってその鬱憤はらさないといけないだろ」
カラスが愛嬌のある黒い瞳で私を見つめながら言った。鬱憤か。確かにこの鬱憤は厄介だと思う。実際、私もこの日常のどうでもいいことで溜まってくる鬱憤の処理には手を焼いていた。
この日々蓄積した鬱憤をうまくはらさないと、
うまくいかなくなる。
「君の場合はしかも晴らすのが苦手だろ?」
カラスが決めつけるように言ってきた。なんでこのカラスには分かるんだ。私の何から何を知っているんだ。私は少し焦りに似た不安を感じ、カラスから視線を離せずにいた。
「苦手と言われればそうかもしれないが、でも君に指摘されてまで晴らそうとは思わないよ」
全てを悟っているような物言いが引っ掛かったのが尺に触ったので私はカラスに言い返した。カラスは首を振りながら軽くため息を付いている。
「小説だってそうだ。この応募作品の合否が決まるまでの間の、君はどうするつもりだ。少しは考えているかな」
カラスが少し先の石の上に飛び降りながら言った。
「私は完璧な作品を完成させたんだ、合格の通知以外考えていないよ」
私は自信ありげに答えたはずだった。
「本当にそう思ってるかい? すこしでも不安はないかい?」
カラスが私を足元から頭まで舐め回すように見た。嘘や不安など全てお見通しだと言った感じでカラスは私をジロジロと見ている。
「へぇ~、ご立派だけど無理はいけないと思うよ。強がるのは良いけどね。それがあからさまに分かるのは見ている人からすれば毒だから」
カラスはそう言い、ひと鳴きした。もはや自分が何と話しているのかよく判別がつかない。このカラスと話していると、自分がカラスと話しているということさえ不思議でなくなってくる。そう、このカラスが人間のようであるからだ。人間よりよほど人間らしい。
「余計な心配は無用だ。仕事で溜めたストレスはあまり溜め込まないようにするよ」
私は落ち着いた口調で答えた。カラスに掛けた言葉だが、妙にしっくりくるのは何故だろうか。まるで自分自身に言い聞かせているように聞こえる。
「そうかい、何だ。心配して損したよ。意外としっかりしてるんだね。でもさ、君はそんな出来た人間かな? 人の失敗やミスを見て一喜一憂する人間のはずだろ。この間だってそうだったしさ」
カラスが突然羽ばたいたかと思うと、場面が変わった。一気にしんみりとした暗い部屋の中に移動した。
ここは一体なんだろう。
そう思い、周囲を見回した。何もない。
「これこそが君のような人間がいるべきところではないのかな」
カラスが私に言った。ここは少し視界が周囲の暗闇に慣れてきて、見てみるとここは自分のアパートの部屋だった。部屋の中には物は一切置かれていない。
「ここは私の部屋だけど……」
カラスのが何を言っているかよく理解できない。私は何度も部屋の蛍光灯のスイッチを押しても光は付かない。電池でもきれているのであろうか。
「この部屋のこの暗がりこそ、君という人間を現しているよ」
カラスが抑揚のない言葉でつぶやく。ここは私の部屋だぞ。それなのになんでこの部屋の暗がりが私なんだよ。部屋の中のスイッチを一生懸命探してはいるが、未だに見つからない。いつものところにスイッチがないのだ。
「この部屋の暗がりなんか、すぐに照らしてやるよ」
私はスイッチが見つからないので、携帯のアイフォンをだして、部屋の中でライト機能を使用した。ぱぁとライトが光り出し、部屋の中が明るく、光始めた。
「これでどうだ。これでもう明るいぞ」
私は少し得意気に言った。カラスはもうそのことに興味を失いかけていた。
「まぁいいさ。君という人間の本心を知っているのは、僕だけだ。僕以外の何者も君を本当には知らないし、理解すらしていない」
カラスにたいして相手をするのが馬鹿馬鹿しくなってきたので私はきっとカラスを睨みつけた。少々、侮られすぎだと感じた。相手はカラスでこっちは人間なのに。
「そういう考え方も傲慢で凝り固まった考え方だよ」
私の心の中が読まれたかのようにカラスに言われてしまった。なんで分かるんだ。私の心の中で思ったことが。何で……。
いつもこのカラスの考え方はこちらの考え方の一歩先の考え方をしている。
私はこのことに酷く恐怖を感じた。何を話しても、このカラスには全て先読みされてしまうのではないかと思ってしまったからだ。
確かにこの利口そうなカラスならそれすら出来るかもしれない。
「君は一体なんなんだ? ただのカラスではないだろうに」
この小さなカラスの姿をした何者かに私は声をかける。しかしカラスから返事はない。
押し黙っているのか、休んでいるのか、それとも。私はじっとカラスを見ているが、一向にこちらに振り向く気配はない。
やがてカラスがしばらくしてからこちらに振り向いた。
しかし、特にこちらに対して何も訴えかけてこない。
姿形は全く同じだが、さっきまでのおどろおどろしい感情は浮かんで来ない。
むしろ愛くるしささえ感じてくる。私はそんなカラスに別れを告げた。
今日は出勤日。どうやら夜を通してあのカラスと話し込んでいたらしい。とんでもないカラスの一人芝居だわ。おかげで私が眠気眼で、仕事に行くことは私以外誰もしらなかったのである。