1159年 12月 28日 真夜中 大原へ
1159年 12月 28日 真夜中 大原へ
義平と4人の坂東武者は、暫く叫び続けていたが、。八瀬の家々の明かりがつき出すとさすがに我に返り、お互いに顔を見合わせ、その場から逃げ出した。
ほぼ、夜中に騒ぐ不良不逞の輩それとかわりがない。とがいっても義平はこの年、御年19歳である。
しかし、家重が矢楯の代わりにしていた米俵に気付き、担ぎに戻り。街道の脇に何度かに分けて押しやった。そのころになると家々から村の衆が箕をかぶり出てき始めた。
「ここは、流石に場所が悪い。場所を変えよう」
と義平。
「承知」
次男や三男坊の5人の厄介者たちは、馬に乗ると更に街道を進んだどんどん周りは険しくなってくる。
大原の手前で馬を止めた。
八瀬は叡山への登り口があるだけで、地形的にもほとんど開かれていない。しかし大原大きく地形的にも開けており、田や畑が一面広がっている。
三千院は、叡山を開いた最澄が開いたことには間違いないが、もともとは現在の京都市内にあったものをこの地に移したのは明治時代のことである。三千院そのものは義平の時代には、なかった。
寂光院は、聖徳太子が父である用明天皇の菩提を弔うために建立されたとされている。尼寺であり代々名家の女性が住持となっており、二代は、なんと信頼の政敵であった信西の娘、阿波内侍である。出家し尼寺に入りしのち証道比丘尼と名を変えた。薪木を頭の上に乗せて売る大原女のモデルとされる。そして第三代の住持が清盛が帝に嫁がせた娘、建礼門院徳子である。
しかし、義平がそんなことを知る由もない。
「この大原を5人で支えるのは不可能だ」の一言で、大原から少し、京に向けて上った街道で追撃の軍勢を、迎え撃つことにした。
もうほぼ真夜中だ。12月28日を迎えることとなる。
12月27日は義平にとって、生涯で最も長い一日だった。
朝から、真夜中までほぼ休むこと無く戦っていたこととなる。
五人は大原に入ったが、目聡く義平が畑や田に刺さった数本の矢を見つけた。雪に血は落ちていないが、普通に駆けただけではない、乱れた馬蹄の跡がそこかしこに残っている。
それに大原の里のもの屋敷の塀にも幾本かの矢が刺さっている。
「父上とこの里とはなにかあったらしいな」と義平はいうと、にやっと笑った。
「まぁ、豪の者の政清の叔父上が側に控えておるからな、俺でもあの叔父上を御するは一苦労じゃ」そう言うや、馬から降りた。
5人は真夜中に大原の端の端で火をおこすと車座で座った。法師に見つかれば、おわりかもしれないが、どうせいしんがりの死ぬ身である、それにそんなこと言っていられないほど山あいの大原である、都に比べ物にならないほど寒い。
全員、干飯や干し肉、炒った豆を懐から出すと日に炙ったりしてがつがつ食べだした。
「そこもとは尻が冷たくはないのか?」短袴が破れていた武者に義平が訊ねると。
「平気だ、ガキの頃はもっと辛い事が多かった。こんなの大したことござらぬ」
「そうか、まず、お互い名乗り合おう、名前を知らねばなんと呼んでいいのやらだ」
と義平、続けて
「二つ名でいいぞ、どうせ全滅するかもしれぬ身の上だ。後腐れなく行こう、そしてみな平の関係で行こう、どうせ皆同じ厄介者故な」
他の4人もみなニヤリとする。
「しかし、若様にそんなわけにはいきませぬ」と律儀な長身の武者が言うと。
「構わぬ、じゃあ、背の高きそこ元からいこうか、二つ名か諱をいただきたい」
「大した渾名はありませぬ。この背丈故、大兄から"樫の木"と呼ばれておりました」
「やはり、三男坊あたりか?」
「はっ」
背の低い、雪まみれになっていた男が喋りだした。
「"安房の鯱屠り"と呼ばれておりまする」
「おお、安房は鯱が誠に浜まで出ずるのか?」と義平。
「年に数匹は確実に、小さき船だと飛び跳ね漁民の手や足を数本は確実に持っていきまする」"鯱屠り"が答えた。
「それは難儀だな」
「在郷の漁師の手に負えなくなると我等が呼ばれるのでありまする」
「武者がか、」
「武家と申しても、鯱退治を生業にしておりますれば、武者とは呼べませぬ。鯱に比ぶれば平家の荒武者などかわいいものです」
「だろうな、、」
東国のことなどほとんど知っていると思っていた義平であるが、世の中は広いなと思う義平。
「恥ずかしながら、安房には房総の先っぽ故、行ったことがない」と義平。
「今度参り侍りなさりませ、歓待いたしまする。鯱の肉で」
「鯱の肉も喰らうたことない」
「あまり美味しゅうありませぬが、塩漬けにしたのち、日干しいたしますると酒に合いまする。妹が上手うに捌き、干しまする。とりわけ銛で鯱を屠った倒した後だと旨う感じまする」
「だろうな」
「それがしの家は、12人兄弟にて、己が何人目か忘れ申した」"鯱屠り"が言って笑った。
「確かなのは、男が8人、女が4人にて、うちの親もバカにて子作りばかり励んでおりまする」
「で、"鯱屠り"それ故、得物も銛の如き、槍なのか」
「左様」
「唐の国では、主要な武者の得物となっておる、今後本朝でも流行るのではないか?突けば、薙刀より扱いやすと思うが如何に」
「そのとおりで、しかもそれがしのには、返しがついておりまするから、相当痛うございまするぞ」"鯱屠り"にやりと笑う。5人みながにやにやする
「正に唐の国の戈じゃな、生きて東国に帰れたら、必ずや安房に参るぞ」
「是非」
家重と呼ばれていた力の強そうな武者が話しだした。
「箱根の"牛担ぎ"にて」
「家重など後付け名だと思うておったぞ」と逆に義平が訊く。"牛担ぎ"ががはははと笑う。
「それがしは、箱根の坂を牛を担ぎ越えておりました」
「ウソだろ、誠か!!」これには、義平もびっくり。
「というても、前足を肩に担いで引きずっていくだけですが」
「それでも、ウソだろう」義平にやにやして相手が否定するのを前提で煽る。
「牛ほど強情な生き物はおりませぬ、動かぬとなったら梃子でも動きませぬ」
「だろうな」
「しかし、人の世には約定というものがありて、期日には物を届けたり運んだり、牛そのものを運ぶこともありまする」
「いた仕方なしか」
「誰かがやらなければ参りませぬ」"牛担ぎ"が厚い胸板と足のような二の腕を見せる。
「出会うもの港ですが生きてきて、膂力では負けたことがありませぬ、試しまするか、若殿」
「為朝の叔父上と会わせたかったな、、マジで」と義平。
「"牛担ぎ"も武者にあらず、牛飼い崩れにて、牛を運んでいる最中に牛を殺してしまい、放逐され申した、あともともと家も親もありませぬ、何男坊なのかすら知り申さぬ」
「気にしておるのだったら、詫びる」と義平。
「いえ、これが常故」と"牛担ぎ"
「で、そこもとは?」義平は細面の比較的ちゃんとした鎧を着ている武者に尋ねた
「それがしは、後三年の役に馳せ参じし大庭景正が子孫、大庭景親の家臣にして、舎人親王が子孫、清原四郎宗衡なりそこらに居座って居るような、名もなき者どもとは誠違い申す、誠の武者にてそのように扱うてもらいたい」
「なにっ」"牛担ぎ"が立ち上がった。
「まぁ、座れ、"牛担ぎ"」義平が宥める。
「それほどの武者にも見えんぞ、しかも二つ名でいこうというた仲ぞ」"樫の木"が言った。「この宗衡に二つ名などない。宗衡と呼んでもらいたい」と宗衡。
義平が、訝った。
「変じゃのう。大庭の軍勢は尾張で帰ったのではないのか」
宗衡は答えない。
「それに宗衡おまえは奥州で栄えた清原家のものか?」
「そうだ武衡が子、宗衡じゃ」
「どうして、それが、大庭の名前まで出して、後三年の役の敵であったの大庭の氏に仕えておるのだ?敵であろう」
「この、宗衡、大庭家の非後見人となったのだ」
「清原氏が後三年の役で滅んだ後、赤子のお前は体よくさらわれ、人質代わりの被後見人とかいうものになり大庭の理屈を刷り込まれたのか?」
宗衡の表情がの露骨に険しくなった。
「後三年の役がどんな悲惨な戦いであったか、その方ら知らんだろう」
宗衡の声は低く恨みがこもっていた。
「兵糧攻めになったのであろう」軽くいう義平。
「悲惨でない、戦などないわ」と"鯱屠り"。
「うるさい!」宗衡が声を荒げた。
「俺は、もともと大庭など見限るつもりだったのだ」
「育ててもろうた恩義も忘れてか」
「お前などにはわからん、悪源太、ここに残ったのも、我らが仇敵源義家の子孫がいかにして滅ぶか、この眼でしっか確かめるためぞ、そのために残った」
義平、我が手にかけた、八幡太郎源義家の実子、義隆のことを思い出し胸がチクっと痛む。
「しかし、お前がここで頑張れば頑張るほど八幡太郎殿の孫にして我が父義朝はどんどん逃げるぞ、よいのか」
宗衡は、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「八瀬で結ばれし厄介者どもの結束は早くも襤褸の如しじゃのう」
「そうじゃ、お前のようなやつとは危のうて一緒に戦えぬ」
「そうじゃ」宗衡以外全員が口々に言い出す。焚き火が大きな音をたてて爆ぜた。
「一対四じゃぞ」
「心配するな、お前ら以上にこの宗衡は働くわ、そしておれは義朝の最後を見るためにも、ここで必死に戦い、東国まで追いかけ義朝に追いつく、そして、お前、悪源太の最後もこの眼でしっかと見極めたい。それにもう一つ言うておく、東国の武士とかお前ら言うて居るようじゃが、我等清原氏こそ、真の奥州の覇者、東国の武士ぞ」
「一つ、尋ねてもよいか?」義平が訊く。
「また、その方得意の嫌味か」
「否、違う、史文上の事実を確認したい、安倍氏は蝦夷であったと聞く、清原氏は蝦夷か?」
「はははははは」
突然、宗衡が声を上げて笑いだした。
「蝦夷と会うのがそんなに珍しいか?、会うてみたいか?一度奥州へ来い、悪源太来たことがないだろう」
「ない、白河の関より向こうは一度もない」
「安倍氏を倒したのが、この清原氏ぞ、そしてその安倍氏の娘を妻にしたと聞く、蝦夷の血ぐらいは入って居るのではないかこの宗衡も良う知らぬわ」
「その腰に下げておる太い大刀は蝦夷の物か?」武具にはなんでも興味を持つ義平である。
宗衡はナタのようなやたら太い剣を穿いている。
「違う、この宗衡が刀鍛冶に命じ、作らせたものじゃ、日本刀と違い両刃の刀となっておる、見るか」
「では拝見」と義平。
宗衡が大刀を鞘から抜いて、礼儀通り義平に柄の方から差し出す。確かに太く重い。
「重くはないのか」
「我が命を預ける、得物じゃぞ、重いなどと言うておっては扱えぬわ」
義平が、その大刀を他の3人に回し渡す。
「冗談と思って聞いてもらって構わぬが、唐の国のその向こうに砂漠が海の如き続く土地がありそこにも御武家が居る、そこの御武家は丸く反った剣を穿くと聞く。更にじゃ、その砂漠の土地の向こうに、黄金の髪をした7尺もの背丈の巨人の国があまたあるという、その土地の御武家はみなこのような、両刃の刀を用いると聞く」
「なにが言いたい」
「別に難しいお方じゃ」
義平がおどけて、目を丸くする。
「厄介者をとおりこして、この御仁は大分ひねくれておって、ねじきれとる感じじゃのう、まあよいわ、好きにしろ。味方は一人でも多い方が良い」
義平は、焚き火の柴木を混ぜ返す。
「最後にわしじゃが、播磨守源義朝の一夜の戯れの結果生まれた長男して嫡男に成れぬ鎌倉悪源太じゃ、以後お見知りおきを」
と言い頭を下げる。4人全員がみなニヤリとする。なんといっても義朝一党最強の武者の一人である。
「しかし、若殿六波羅での弓は、見事でございましたな」
「ほんに、ここ最近では一番の快事でござる」
「おう、おう、平家の連中までもが喝采しておったぞ」
みな、ニヤつく。
「この悪源太の弓など当てにするな、まぐれじゃ、偶々ぞ」
宗衡が尋ねた。
「ところで、弓は何人引きで」
「ちょっと頑張った三人引きじゃ、為朝の叔父上には適わん大したことはないしかも、弓は六条河原で捨ててしもうた、今あるのは、左京の野党の拾うたものじゃ」
4人とも如実に意気消沈する。
「わしのを使え、同じ三人引きじゃ」と宗衡が自身の弓を差し出す。
「いや、よい、その方が慣れた弓を使われよ、これは和解の印か清原殿」
「お主は、武者としては認めるが、ふん、源氏の最後を見るのは変わらぬ」
「困ったお人よ。この悪源太もな上洛するまでは父や生まれに、ガツンと物言わせるつもりでおったが、さっきこの街道で義隆殿と話し、介錯してな、断ち切ったわ、復讐など下らぬぞそんなものに己の生を振り向けるなど小さいぞ、それがその方の生き方と言うなら自由にすればよいが」
宗衡は押し黙っていた。宗衡にも復讐の無益さ虚しさはどこか感じ取りわかっているようだった。
「それより、この場、誰が差配いたす?」
義平が4人を見回す。
暫く、焚き火の明かりが照らす中、五人でお互いの顔を見回していたが、中々結論は出なかった。
「ここは、やはり、若殿でしょう」一番常識人の<樫の木>が言った。
宗衡も反論しなかった。
「その方ら、この街道を塞ぎ、時を稼ぐよう父や政清の叔父上に言われておるのであろう」
4人の表情が微妙に曇る。
「我に、上策あり、こんな細い街道、なにも人で塞ぐ必要などないぞ、そしてその方らを堅田まで生きて連れて行くことを約する。但しその後は、委細知らんがな」
義平が、いたずら小僧のようにニヤニヤした。




