サイパン沖海戦 1
更新遅れました。
学校の宿題が原因です(泣)
薩摩の要項を大幅に変更しました。
主砲51cm三連装5基➡三連装3基
本当は三連装5基にしたかったのですが、
2年でそれはいくらなんでも無理だろうと
判断しました。
1944年 2月20日 09:00 サイパン沖
中部太平洋の晴天の空に対空砲火の弾幕が
咲き乱れる。
米機動部隊の艦載機、およそ100機の襲来である。
迎え撃つ日本側の戦闘機は、零戦52型90機と
陸軍の飛燕20機、一式戦闘機隼15機である。
日本側の意外な反撃を受けた米軍側は、滑走路を
破壊することなく、引きあげた。
・・・・
同時刻 ホワイトハウス
「大統領、いよいよです。日本の息の根を止めるときが
きました。」
そう報告したのは、アメリカ海軍のトップ、E,J,キング
作戦部長である。
「日本の艦隊は撃滅できるのかね?」
「Sure.今度はずる賢いジャップもなにもできないでしょう。」
彼の言うとおりだった。
今回の作戦に伴い、アメリカが用意した兵力は、
エセックス級正規空母8隻、
『エンタープライズ』、『サラトガ』、『ヨークタウン』
インディペンデンス級軽空母9隻、
艦載機1200機
新型戦艦8隻、(アイオワ級、ノースカロライナ級など)
旧式戦艦6隻
重巡洋艦22隻、軽巡洋艦43隻、駆逐艦87隻
主力だけでもこれだけの兵力があり、上陸部隊を
護衛する護衛艦隊を含めればその数は倍ちかくになる。
圧倒的な鋼鉄の嵐は確実に日本に迫っていた。
・・・・
逆に日本側は完全に虚をつかれた形となった。というのも、日本側が南太平洋からの撤退を完了したのが1943年の5月。
海原の見積りよりもかなり時間がかかってしまった。
海軍内でも撤退に反対する意見が少なくなく、
輸送船の数も足りなかったのである。
だが、『赤城』をはじめとする空母の支援もあり、
なんとか撤退を終わらせてサイパンに引きこもることが
できた。
同年10月にはイタリアが降伏。
だが、ほぼ同時に山本五十六が海軍省の次官に就任。
海軍は本格的に終戦に乗り出した。
後任は古賀峯一大将となった。
しかし、ちょうど1ヶ月前、事件が起こる。
古賀長官ら、連合艦隊司令部を乗せた飛行艇が
フィリピン沖で低気圧に巻き込まれ、行方不明と
なってしまったのだ。
2機の飛行艇のうち、参謀らが乗っていた2号機は
なんとか助かったが、その時、福留繁参謀長が
持っていた機密書類をゲリラに奪われるという
大事件が発生。せっかく解読されないように作り直した
暗号表もすべて敵の手に渡ってしまう。
その後、連合艦隊司令部の交代や作戦の練り直しなど、
海軍は大混乱に陥った。
米軍のサイパン侵攻は豊田副武大将が新連合艦隊司令長官と
して着任した直後のことだった。
米軍のサイパン侵攻を知った連合艦隊はただちに
『あ号作戦』を発動。
シンガポール付近で活動していた機動部隊を
フィリピン経由でサイパンへと向かわせた。
兵力は以下のとおりである。
第一航空艦隊:司令長官 南雲忠一中将
第一航空戦隊:南雲中将率直『赤城』『蒼龍』『飛龍』
第ニ航空戦隊:司令官 山口多聞少将『翔鶴』『瑞鶴』
第三航空戦隊:司令官 原為一少将 『隼鷹』『飛鷹』『龍驤』
艦載機450機
護衛:第三戦隊『霧島』『比叡』 第八戦隊『利根』『筑摩』
第一水雷戦隊
開戦以来負けを知らない日本の機動部隊と
アメリカの機動部隊が遂に全面激突しようとしていた。




