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自動販売機の前で語られる愛について

作者: シンイチ

僕は家から一番近い自動販売機に飲み物を買いに行った。そして、そこで動けなくなった。いや、動こうと思えば、いつでも動くことができたのだが、ある理由で動きたくは無かった。さらに、もうひとつ動きたくない理由があった。そこで彼女と出会ったからである。いや、「出会った」というようなロマンチックなニュアンスはゼロに等しかったのかもしれない。あえて言うなれば「会見」したというべきかも知れない。前者の理由については、これから僕はある事象をそれの持つ言葉という名称を用いることなく表そうと思う。そうすることで僕の中の「思考回路と言語表現」という名の無限に広がる街は、より複雑になり、同時により一貫性を持ったシンプルなものになっていくのだ。(無限に広がっているというのは僕がそう思うだけで、それだけの能力を備えていないかもしれない。)

 そこはバス停だった。ベンチが一脚据えてあり、時刻表の書かれた――あの、そこがバス停であることを示す、あの棒?立て札?の名前がハッキリしないのでここは便宜的にトーテムポールと呼ぶことにする――トーテムポールが立てられており、ベンチの右後ろには少々方の古い自動販売機が据えられている。そして、それらを覆うようにトタンの屋根がついていた。

 僕は自動販売機で飲み物を二つ買った。型が古いが中身の商品は新しいものが入っていた。僕が買ったのは缶のコカ・コーラと缶コーヒーだった。どうでもいいことだが、コーラは缶で飲むに限ると思う。僕はそれを自動販売機の左側、つまりベンチの後ろに膝を抱えてうつむいて座っている彼女に渡そうと声をかけた。

「どっちがいい?」

どうして話しかけたのかはわからない。理由などない。強いて言うならば、僕がそうしたかったからだ。僕が思うに物事の理由というものはほとんどが後から人が勝手につけた、或いは思い込んでいるものにしか過ぎない。「ある物質とある物質が反応してある物質になったのはある理由によるからだ。」ある理由なんて、誰かが後に、定義づけしたに過ぎない。その現象は起こるべくして起こったのだ。真の理由というものが仮にあったとするならばそれはその現象が起こった瞬間に消え去ってしまい、誰にも発見することはできないのだ。「うんにゃらの理由だからこれからふんにゃらする。」この場合は理由が先になっているかというと、たいがいそのふんにゃらをしてしまった後に、「あの時、うんにゃらだったからふんにゃらした。」と思い込んでいるのがうんにゃらである。付け加えるが、そのふんにゃらは為されない場合が大半だ。その為されないことへのうんにゃらが理由と呼べるのであろうか?呼べたとしても言葉の上だけであって、意味の範疇にまで力は及ばないはずだ。僕もそう考えて結局ふんにゃらできなかったことが幾度とある人間なのだ。そして、冒頭部分で僕は「理由」を使ってしまっている。だが、後に定義づけされた、つまり真の「理由」ではないと自覚して使っているのだ。このように人の性質のうちに何事も定義づけしたがる傾向が顕著すぎるからいけないのだ。だから、戦争や虐殺や問題の源泉である文明社会が生み出されるのだ。しかし、人は周囲のものを漠然としたままにしておくことはできないのだ。過去の人々の定義づけがあるから僕と彼女は「バス停」と定義された場所で出会ったのだ。

「コーヒーがいいな。」

 彼女は顔を上げて言った。鼻の綺麗な人だった。目を細めてこちらを見ているところから少し視力が弱いのだろうか。二重であるから、もともと目が極端に細いわけではなさそうだ。コンタクトを落としたのだろうか。もともと、裸眼で過ごしているのだろうか。そして、僕はコーヒーを彼女に渡した。しかし、僕はとてもコーヒーが飲みたかったのだ。彼女がコーラをとると見越してのチョイスだったのだ。彼女の容貌や雰囲気からコーヒーよりまだコーラを選ぶだろうという僕の偏見からの結論である。考えられる予防策についての反論。まず、コーヒーを二本買えばよかったかというときっとそうではない、人は選択の余地がない場合とある場合ではその作業に対する好感、士気が断然と変わってくると思っての配慮、戦略であったのだ。人は選択肢が与えられるほうが作業により好感を持つことができると僕は思う。二つ目に、彼女に何が飲みたいかを聞いてから買えばよかったかというとそれはどうだろう?見ず知らずの僕に物を買ってもらうということを、「好きなものを尋ねられる」というワンクッションおいてしまうと普通、人は受け入れないだろうと思ったからである。僕はこの予想外の事態に対して、コーラを二本かっておけばよかったなと後悔はせず、このことを省みて次回への糧にしようと思った。「後悔」と「反省」では明らかに「後悔」のほうがネガティブなのだ。「後悔」は「反省」のように次回への糧にするという考えが含まれず、省みっぱなしなのだ。まあ、これ以上「反省」という言葉についてのポジティブさについて支持する気はない。しかし、次回といっても自動販売機のあるバス停で動けなくなり――或いは動きたくなくなり――膝を抱えて座り俯いて静かに泣き続けている女の子と一緒になることなんてもうないだろう。

 彼女は缶コーヒーのプルタブを挙げてコーヒーをすすった。缶を開けるときの音は、どこか頼りなさげに聞こえた。

「どうしたの?」

僕は聞いた。

「かれし、けんか、そしてわかれ」

彼女は下を見つめながら短くつぶやいた。僕はまるで映画のタイトルだと思った。メインタイトルは「彼氏」そして、サブタイトルが「喧嘩そして別れ」とてつもなくつまらないシリーズ物の映画のようだ。或いはメインタイトルは「彼氏、健か?」つまり、彼氏は健なのかと聞いているわけだ。サブタイトルは「そして分かれ」つまり、命令だ。どうしようもないくらいしょうもない考えが、頭の中をめぐった。そして、彼女の言葉がその一種の放心状態を打ち破った。

「愛について話してみて」

おそらく、一般人ならば(僕も一般人だけど、この点では違うと自負できる)、この質問に関しては当惑の念またはそれに似た感情しか持ちえないだろう。だが、僕は挑戦状をたたきつけられたように意気として頭を働かせ始めた。自分の表現力、説得力、レトリックを試されているとしか思えないのだ。ここは絶好の機会である。なんとしてでも成功したい、と思うのである。

 彼女が質問してから二人は全く動かなかった。多分、通りすがりの人が見たら警察に通報しようかどうか迷う可能性がわずかに生まれるかもしれない雰囲気だった。幸運なことにそこ第三者はいなかった。といってもそこにはあまり人が来ないのだ。彼女がいるだけでもかなり稀有なことである。その間、僕は愛について頭の中で言葉を粘土のようにこねくり回し、まずはアウトラインを組み立て、全体のバランスを整える、そして、大まかな装飾を施し、それを際立たせる為のディティールを刻み込む。いかに短時間で完了させることができるかがこのゲームのルールに置ける目指すところなのだ。そして彼女はこちらを見るわけでもなく、下を見つめていた、にちがいない。(実際、僕は脳内での創作活動に没頭していたので彼女のほうには気が回らなかった。)

「愛とは殺すこと。」僕は続ける。「ある人を愛するということは、その人を殺すことである。ある人を愛し、結婚なりする。たとえ結婚をしなくとも、ある人は他の選択肢を奪われる。基本、その人を愛するという限定が付きまとう。他の人を愛することもできるが、この社会ではそうたやすくないのも確かだ。何らかの障害が付きまとい、傷を負うこともあるかもしれない。人が選択肢を奪われるとはつまり、死ぬということだ。なぜなら人にただ共通してある選択肢は死ぬことだけだ。恋愛以外に、選択肢はあるではないかといわれるかもしれない、だが、人は必ず半身を失ってこの世に生れ落ちて片割れを探すはずなのだ。本当に仕事や趣味だけで生きていけるだろうか。いや、無理だ。世の中のどこかにいる半身という巨大なよりどころのようなもの無くして、何十年も生きていけるはずがない。そういう点で見ると、僕らの周りにいる気の会う友達や仲間などはその半身に比較的似た存在なのだろうと思う。また、独身貴族や結婚や恋愛をしなかったり、離婚をしたりして生きていく人がいるがその人たちは、もともと半身を失わずきわめて稀有な完全な状態で生まれてきたか、半身と巡り合えなかった人なのだと思う。つまり、人は選択つまりオプションを奪われることは〈死〉を意味する。よって、愛することは殺すことである。しかし、半身と出会えたのならばそれが最善であるから、愛される(殺される)ことが悪いことだというわけではない。以上。」

僕はそれらを言い終えてまた黙った。とても疲れたのだ。彼女はしばらくして立ち上がってこちらを見て言った。

「とても面白いね。ありがとう」

彼女は歩いてバス停を離れていった。もう雨がやんでいたのだ。そう僕は決意しては、そのことを実行できない人間なのだ。僕がその具象を使用せずに表現すると言った現象は「雨」だ。雨が降っていたから、屋根のついたバス停から出たくなかったのだ。彼女の顔をちゃんと見たのは結局二回だけだった。最初に見たときは鼻がとても綺麗だと思ったが、二回目のときは全体が輝いているように見えたので鼻は目立っていなかった。どこか吹っ切れた表情であった。僕には彼女が僕の話で彼氏のことをきっぱり忘れることができたのか、それとも彼氏に対する復讐の念が湧き上がったのかは分からない。「愛することは殺すこと」であるが「殺すことは愛すること」ではないのだ。

まあ、そんなことは僕には関係ない。僕はまだ栓を開けていない缶のコカ・コーラをベンチにおいて家に戻ることにした。誰かへのプレゼントだ。もしかすると誰かが飲む可能性だって十分にありえる。しかし、少なくとも僕には「その缶のコカ・コーラを飲む」という選択肢はないにちがいない。


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