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狂言回しの紅い仮面

作者: 蒼井さとう

 もうすぐだ――

 暗がりの片隅で少年は思考した。心臓がバクバクと高鳴り、体に走る緊張感は彼の行動を制限する。それでも彼は口元を歪ませ、不敵な笑みを作り出した。


 急激に早さを増す心拍が何だ。緊張感が何だ。


 臆病で人見知りで口下手で――。コミュニケーションが苦痛に感じられる彼にとって、緊張感は切っても切り離せない存在だった。この程度の緊張感は日常的なモノだ。どれくらい自分の行動を縛られるかは大体わかっている。

 体が委縮するなら、その分大きく振る舞えばいい。声が震えるのならば、その分大きな声を出せばいい。――何よりも、戦装束を纏った今の自分にできない事は無い。


 彼は仲間たちが演じる舞台を見つめた。皆、練習の成果が表れているようだ。しかし、練習と全く同じセリフという訳でもない。それでいて話の大筋から離れたセリフを口走る訳でもない。彼の仲間たちは普段の自分を殻に閉じ込め、別の人物に成りきっていた。そんな仲間たちの様子を彼は真剣に見つめていた。


 タイミングを掴む。周りを見渡せ。一瞬の遅れが大きく流れを変える。

 彼の仲間達ならば、たとえ失敗したとしても何らかのフォーローは出来るはずだ。しかし、彼には始めから失敗する気は毛頭なかった。

 深くゆっくりと呼吸し、役に合わせるために肩甲骨を背中に寄せて細身に見せる。そして、覚悟を決めた。


 ここだ……っ! そう思考した彼は勢いよくステージ上に躍り出た。

 彼の足元にはテープで印がつけられている。流れるように、予定通りの場所まで移動することが出来た証だ。


「―――――――――――――――――!」


 ステージの上で声を上げる。役に合わせるために平時の彼よりも高い声だが、無理をしている様子はない。日頃のボイストレーニングの成果が現れていた。今の彼には舞台に上がる前の緊張した様子は見られない。動作は勢いよく、大振りに。紡ぐ言葉は届かせろ。

 舞台に上がる前は観客の視線を気にしていた彼だが、ピンスポットの逆光で観客が見えなくなった。その瞬間、彼の中から雑念が消えた。

 どんな人間にも失敗はある。完全に台本通りに進ませるのは難しい。だから、だからこそ、台本を丸暗記するのではない。架空の人格を自分に降ろすのだ。

 この子にはどのような癖があるのだろう? この子ならどのような言葉を紡ぐのだろう? この子なら……。


 そして、彼は自分の思い浮かべる【キャラクター】を演じ切った。出番が終わり退場した彼は、舞台裏で仲間が語るエピローグに耳を傾けながら演劇が終わるのをじっと待っていた。







「先輩! 昨日の演劇凄かったです! 私、感動しました! どうやったらあんな風に演技できるんですか?」


 ××県○○市の志希ヶ丘高校の敷地内。第一校舎と第二校舎に挟まれた日当たりの悪い中庭に、石作りの小屋がいくつか並んでいた。そのうち一つの小屋の前に小さな人だかりが出来ている。小屋の扉の上には『演劇部・部室』と書かれたプラスチック製のプレートが張り付けてあった。

 立夏(りっか)の頃、この高校に通うことになった新入生たちは放課後、自分の興味のある部活動に体験入部をしていた。そこで部の雰囲気を感じとり、自分に続けられるかどうかを判断して気に入った部に入っていくのだ。

 それぞれの部は勧誘用のポスターを制作して学校の掲示板に貼り、学年ごとに色分けされた靴やネクタイを頼りにポスターを新入生に配っていた。

 実際に練習に参加させる部もあれば、特別なパフォーマンスをする部もいくつか存在した。

 演劇部は後者の部であり、体育館を貸し切って演劇を披露する事になっていた。普段、体育館はバスケットボール部や卓球部等も使用していたが、貸し切ったおかげで広々と場所を取ることが出来た。

 そのせいか新入生だけではなく上級生も観客として見物に来ており、体育館は予想以上に盛り上がる事となった。

 運動部顧問の方針なのか、通常なら体育館で部活動をしている運動部員がほぼ全て見物に来ていたのも観客数を増大させる要因となっていた。

 そんな大人数の観衆に披露された演劇は先日無事に終わり、その翌日には多くの入部希望者が演劇部の戸を叩いたという訳である。


「うちらもそれなりに練習してきたんですよ。先輩たちの劇のビデオを観たり、演劇団の演技を観て勉強したりかな? ほとんどの部員は完璧な素人だったけど、入部してから上達しました。だから、今下手だからと言って入部するのをためらなくてもいいんです」


 新入生の質問には、部長を中心に二年生と三年生の生徒がしっかりと受け答えをしていた。一年生のリクエストに応えて前日の演劇の一幕をもう一度演じている二年生や、さっそく軽い演技の指導をしている三年生もいた。

 そんな中、茜谷(あかねや)紅羽(くれは)は部室の端で大人しく小道具の手入れをしていた。髪を首元ほどまで伸ばしている紅羽は、中性的な顔立ちと相俟(あいま)って、ともすれば女性と間違われてもおかしくない容姿の少年だった。身長はそこまで小柄という訳ではないが、とりわけ高い訳でもない。しかし、女性の先輩が触った時に絶望するようなウエストの細さや、一切日焼けをしてないのではないかと思うほど白い肌を持っていた。

 そんな紅羽であるが、当然と言うべきか男子生徒用の学ランを着ていた。その上、部屋の隅で目立たないように背中を丸めながら作業をしているために陰気な雰囲気を纏っており、彼に話しかける生徒は誰もいなかった。

 他の二、三年生たちが新入部員をどうにか確保しようと奮闘している時になぜ黙々と作業をしているかと言えば、彼は人見知りが激しいだけだという至極簡単な理由だった。

 紅羽は一度作業を中断して、一年生の相手をしている同級生や先輩たちの姿をちらりと視界に納めてため息をついた。

 同級生ならばなんとか普通に話すことが出来る。先輩たちとも最近ようやく緊張せずに話すことが出来るようになってきた。しかし、下級生とはいえ、全く面識のない人物と話すとなると緊張せずにはいられない。話に加わると、演劇部員の堂々とした振る舞いに憧れてやって来た一年生のイメージをぶち壊すことになると彼は思っていた。

 入部することになった生徒にはいずれ、彼の人見知りは知られてしまうだろう。今隠れていたところで何の意味もないし、恐らく彼を見て入部を断念する生徒はいない。しかし、紅羽にとっては率先して人前に出ない為の都合のいい言い訳となっていた。

 入部希望者に視線を向けていた事を悟らせないために目の前の作業に戻った紅羽は、もう一度小道具の点検を始めた。既に点検は終わった小道具であったが、人に話しかけらない為に必要な行為であった。

 そして、手を動かしながら厄介ごとに巻き込まれないように聞き耳を立てた。


「部長さん! 今回の劇面白かったです! ……それでですね、ヒロインを演じた先輩は今日いらっしゃらないんでしょうか? わたし、その人の演技に憧れてここに来たんです! 少しでもお話したいんです!」

「ええ、アイツなら今日も来ていますよ」

「ほんとですか!? ……えっと、何処でしょうか……。それっぽい人はいないようにみえるんですが……」


 しかし、厄介ごとに巻き込まれない事は不可能だと彼は確信した。紅羽は聞こえて来た部長と新入生だろう女子生徒の会話に、びくりと肩を震わせる。女子生徒はキョロキョロと辺りを見渡して不思議そうに首を傾げていた。一方、部長は彼女に見えないように口元を隠して意地悪そうに口元を歪ませた。


「えっと……。やっぱり分かりません……」

「そうですか。大分(だいぶん)見た目が変わってるので分からなくても仕方ないところもありますしね。案内しますよ」

「そうなんですかー。お願いします」


 おい止めろ! っと紅羽は心の中で絶叫するが、表情には出さずに自分には関係ないとばかりに作業を続けた。周りに全く動揺を悟らせない完璧なポーカーフェイスだった。


茜谷(あかねや)さん、少しいいですか?」

「えっと……、はい、何でしょう」


 かけられた声に、紅羽はしぶしぶと悪あがき(さぎょう)を中断して声のした方向に振り返った。部長(かのじょ)に狙われたら逃げられないと、これまでの学園生活で十分に学ばされている。

 視線を上に向けると、悪い笑みを浮かべた部長が紅羽を見下ろしていた。部長の一歩後ろには、先ほどの女子生徒が困惑した表情でこちらを見つめている。彼女は癖のないサラサラな髪を二つ結びにして纏めており、少し幼い印象を周囲に与えていた。紅羽は後輩が不思議そうに首を傾げる様子を見ながら、これからコミュニケーションをとらないといけないのかと軽く憂鬱になった。それでも、内心を悟らせないように笑顔を作りながら二人を視界に収めた。


「紅羽さん。この子はあなたの演技が気に入ったらしいですよ。少しお話してくれませんか? ここは私が片付けておきますので、思う存分お話してくださいね?」

「……え?」


 部長は後輩には見えない角度でニヤニヤとした笑みを浮かべながら紅羽に話しかけた。紅羽の元に連れてこられた後輩は目を丸くして驚いている。それはそうであろう。彼女が会いたかったのは男主人公(ヒーロー)ではなく女主人公(ヒロイン)なのだから。

 紅羽の容姿がいくら中性的だとは言え、彼はどちらかというと男性に近い容姿をしている。さらに、制服は男物を着ているので、女性に間違うことはめったにないだろう。ヒロインを演じているのは女性だという先入観があれば、分からなくても仕方がない事だった。


「あっ……えっと……、びっくりするかもしれないけど、ヒロインを演じていたのは確かに俺だよ……?」


 紅羽(くれは)は笑顔を心掛けながら、部長が合わせる人物を間違えたのではない事を伝えた。彼は出来るだけ滑らかにしゃべろうとしたが、後輩とはいえ初対面の人間とのコミュニケーションに緊張して何度かつっかえてしまった。紅羽は心の中で恥ずかしさにのたうち回りながらも、笑顔が崩れてしまわないように何とか自分を抑え込んだ。

 紅羽の言葉を聞いた後輩は、俯いてふるふると震えていた。その姿を見て、イメージを壊してしまったかなと紅羽は罪悪感に蝕まれる。

 しかし、やがて顔を上げた後輩は、有名人に合ったかのように目を輝かせて紅羽を見上げていた。


「凄いです。凄いです先輩!! わたし、ヒロインが男の人だって全ッ然分からなかったです! 見た目も仕草もですけど、声も女の人にしか思えなかったです! いったいどうやっていたんですかっ!? それなのに今は男の人にしか見えないです! ホントに、本当に同一人物なんですかっ!? ちょっと信じられないですっ!! わたし、どんな風に練習すればこれだけ別人のように振る舞えるか気になりますっ!! それと、それと、すっごく堂々とした演技で感動しました! ホントに、本当にかっこよかったですっ!!」


 紅羽はぐいぐいと遠慮なく近づきながら思いの丈をぶちまける後輩の気迫に押された。顏を引きつらせながらじりじりと後ずさりするも、後退した分だけ距離を詰められ二人の距離は離れない。むしろ少しずつ短くなっていた。

 後輩の息が顔に当たる。内心では近い近いッ! と悲鳴を上げている紅羽だったが、まさか突き飛ばす訳にも行かず、ただ押し込まれていくしかなかった。

 ちらりと周りを見ると、部室にいる生徒たちの視線が集まっていた。視線を受けた紅羽は心臓に手を掛けられているような嫌な緊張感を覚えながら、更に近づこうとする後輩の肩を軽く押して何とか引き剥がした。


「ちょっ、ちょっと! 近い! 少し離れて!」

「ぁ……、えへへ、ごめんなさい。舞台での先輩とのあまりにも印象が違って、つい……」


 そして、彼女は少し離れると笑いながら頭を掻いたが、目つきは相変わらずキラキラとしていて反省している様子は見られなかった。紅羽は集まっていた視線が少しずつ外れてきた事と、彼女を引き剥がせた事に安堵してため息を漏らした。一連の流れを傍観者のごとく眺めていた部長は、くすくすと笑っていた。彼女の「やっぱり、紅羽さんをからかうのは面白いわ」という呟きは誰の耳に届くことも無かった。


「えっと、君は……?」


 紅羽は一旦呼吸を整えてから、目の前の後輩に問いかけた。やはり多少顔が引きつっていたが、誰も気にするものはいなかった。そして、彼女は元気よく手を挙げた。


「はいっ! わたしは今年入学してきた冬梅(ふゆうめ)優季(ゆうき)って言います! 演劇部入部希望です! 演劇を見たのは初めてだったんですけど、先輩たちの演技をみて感動しました! 本当に同じ高校生なのかって思っちゃいました! 一番かっこいいなって思ってたヒロイン役の先輩と話せて嬉しいです! 先輩の名前は何ですか?」


 紅羽は冬梅の剣幕に押されながらも恐る恐る言葉を紡ごうとした。褒められた嬉しさと恥ずかしさに顔を赤くしていたが、押しの強い彼女と話すのは疲れそうだと思っていた。しかし、邪険にすることもできずに自分の名前を名乗った。


「あ、ありがと……。俺は茜谷(あかねや)紅羽(くれは)……」

「紅羽先輩ですね! わたし、演劇部に入部届を出すのでその時は演技を教えてくださいね!」

「ぁぅ……、うん……」


 冬梅は自然な動きで紅羽の手を取って再び尊敬の眼差しを彼に向けた。一方、紅羽は呆気にとられて、されるがままになっている。体が固まってしまったように動きも返事もぎこちなくなっていた。舞台で見せた堂々とした風格はもはや欠片も残っていない。


「そういえば、紅羽先輩は演劇の時に今と全然声が違いましたよね? いったいどうやっていたんですか? 台詞の部分は他の先輩が代わりに喋っていたんですか?」

「あ、えっと……、声を変えれるように、練習した……」

「本当ですか……っ!? 全然、全然わからなかったです! 声の質が全く違いましたよ……っ!?」

「あー、えっと、それは……、あー『あー、あー。これでいい?』」


 紅羽は実際に変えてみないと信じられないだろうなと思いながら、自分の声を少しずつ変えていった。普段の男の声から演劇で使う女の声へ。とても同一人物だとは思えないほどの声の変わり様に冬梅(ふゆうめ)は目を見開いて驚いた。すぐ近くにいた新入生も紅羽に視線を向けて驚いていた。


「……」

『えーっと、大丈夫?』


 先ほどまでずっとしゃべり続けていた冬梅が気になり、突然固まって動かなくなった彼女に、周りの視線に怯えながらも紅羽は話しかけた。


「す、す……」

『……酢?』


 冬梅の言葉が聞き取れなかった紅羽は音をきちんと拾おうと聞き耳を立てる。しかし、それが間違いであった。


「す、凄いです!! 先輩!!」

『ひゃぁっ!』

「凄すぎですよっ先輩っ! ええ、凄いですっ! わたしの頭じゃ凄い以外の言葉が出てこないですよ先輩ッ!!」

『ええっ! ちょっと待ってっ!?』

 耳元で大袈裟なリアクションを取られた紅羽は思わず悲鳴を上げた。冬梅は紅羽の顔が引きつっているのにもお構いなしに、彼の手を握ってぶんぶんと力強く握手をした。紅羽は振りほどく事も出来ずになされるままとなっている。いきなりの事に声を元に戻すことも忘れて、冬梅を止めようと説得を始めた。

 突然の悲鳴に、部室にいた他の生徒達の視線が紅羽に集まる。しかし、当の紅羽にそれを知覚する余裕はなかった。


『ちょっと! 止めて冬梅さん! そろそろ手が痛くなってきてる! 脱臼する!』

「これくらい大丈夫です! もうちょっとだけ! もうちょっとだけお願いします!」

『ちから強っ!? 振りほどけないっ!?』


 結局、周りから注目されているのにも気が付かずに、紅羽は冬梅にしばらく振り回されていた。新入生全員が、男の紅羽が女に似た声を出しているのに驚きの声を上げている。一方、二年生と三年生は面白そうに紅羽や新入生たちの姿を眺めていた。


「ふふ……。これで部員一人ゲットね。他には誰が入ってくれるかしら?」


 そんな騒動を遠目に見ていた部長の呟きは、誰にも届くことは無かった。






「せーんぱい! かーえりーましょ!」

「ん……、分かってるって……」


 意地の悪い部長による紅羽を利用した新入生勧誘から四ヶ月が過ぎた。文化祭が近づき、演劇部の活動も忙しくなっている。紅羽はクラス役員などには所属していない。おかげで演劇部に顔を出すだけで済んでいるが、他の役員にも属している部員は休み時間になる度に校舎を駆けずりまわっているようだった。

 紅羽たち演劇部は文化祭の出し物として新しい演劇を披露する事になっていた。これが大衆に披露する初めての演劇になるからか、一年生たちの間にはピリピリとした雰囲気が漂っていた。対して、上級性は慣れのおかげか一年生よりかもリラックスして練習していたように思える。クラス役員の仕事とかぶって疲労が濃い一部の生徒は例外ではあったのだが。

 個々の忙しさはあったが、それでも部活に来て本番に向けて必死に練習している部員が多かった。

 そんな忙しかった日々もすぐに過ぎ去り、いよいよ文化祭を明日に迎えるだけとなっていた。普段より多く部活時間がとられていたため、紅羽が学校を出るころには午後七時を回りそうになっていた。

 紅羽と冬梅の帰路は途中まで同じであり、移動手段が二人とも徒歩なのでよく一緒に帰っていた。二人はよくテレビの話題を話していたが、今日は珍しく部活以外の場で演劇の話題になっていた。


「ずっと気になってたんですけど、先輩ってどうして演劇部に入ろうとしたんです? 普段の先輩を見ていると、とても舞台に立とうだなんて思う様な人には見えないんですけど……。 それに、今まで演じて来た役は全部女性の役なのも不思議ですね」

「うん……。自分でもそう思う……」


 冬梅は不思議そうに首を傾げた。紅羽はそんな彼女の言葉に頷いていると、冬梅は怪訝そうに紅羽の顔をのぞき込んでいた。


「なに……?」

「いや、認めないでくださいよ。演劇部に入ったのは先輩自身でしょう? なんで本人が舞台に立つ事に疑問を持ってるんですか……。それに、普段は言葉に詰まったり、意見を求められても何も言わなかったり、気が付いたら部屋の隅にワープしているような人が、なんで舞台の上だと台詞を滑らかに読み上げて演技できるんですか!? わたしなんて舞台に出ると頭の中から台詞が何回も消し飛んでるんですよっ! ちょっとは秘訣を教えてくださいよぉっ!」

「ええ……? 俺はワープなんてできないよ……?」

「そこですかっ!? そこはただの比喩です誇張です話の本筋に何にも関係ないですよっ! わたしが教えて欲しいのは、どうやったら先輩みたいに演技できるのかって事です! ついでに、どうして演劇部に入り浸って女装してるのか知りたいです!!」

「ついでの方が知りたそうに聞こえるのは気のせいじゃないよね、冬梅(ふゆうめ)さん……」


 女装という言葉を発している冬梅の表情がギラギラと輝いているように見えて、紅羽は若干気圧されてしまっていた。冬梅は紅羽の手を取り、話を期待しているように彼の表情を窺っている。一方、非力な紅羽はまた肩が外れそうになるほど手を振り回されるのではないかと怯えていた。


「話すから手を離してくれないかな……。お願いだから……」

「えー。じゃあちゃんと秘訣を教えてくださいよ。ついでに、女装が趣味になった理由もです」


 紅羽は冬梅が手を離してくれたことに安堵した。そして、彼女の質問に律儀に答えていく。


「うーん。台詞を覚えるコツかぁ……。俺は普通に覚えてるだけかな……。他には台詞ごとに伝えないといけない情報を事前に頭に入れておいてる。もしも台詞を忘れても即興で似た台詞を作り出せるし……」

「即興で台詞を作れるなら苦労しませんって。わたしは忘れちゃったらパニックになっちゃうんです。……やっぱり、部長たちに言われたように手帳にでも書き込んでいつでも見られるようにした方がいいんでしょうか?」

「自分に合ったやり方を探すしかないんじゃないかな……。月並みのアドバイスで申し訳ないけど……」

「月並みなだけじゃなくて、本番前日に聞いてもほとんど意味ないですしねー」

「そうそう……って、あれ? なら、何で聞いたし……」

「それは、先輩の女装癖の理由だけ聞いても教えてくれなさそうなので、演劇の質問を混ぜることによって真面目な雰囲気を出せばいけるかなーっと」

「ああ、そう……」


 紅羽は冬梅の言葉に呆れながらも頷いてため息を吐いた。紅羽は、別段隠す事でもないと考えて話すことにした。


「女形を始めたのは俺が入部した時の夏伐(なつぎり)部長のせい……。舞台に立てる度胸がつけば口下手もマシになるかもしれないと思って見学に行った時に、女形をやってみないかって勧誘されたんだ……」


 紅羽は軽く目を瞑って当時の様子を思い出した。それだけで何があったのか鮮明に思い出せる。それほどまでに紅羽にとっては印象深い出来事だった。


『そこの君! ちょっと女形を演じてみないっ!? ……え、男の役がいいの? バカね。演劇なんて架空の人物に成り切るものであって、演技なんて嘘で塗り固められているものなの。そんな舞台で、恥ずかしいと言って自分の演じる役のレパトリーを減らすのはナンセンスよナンセンス。舞台に上がってる間は君じゃない別の誰かになっているの。舞台の上にいる別の誰かが女の子だったらどうするの? 男装っ娘もいいけれど、大抵の女の子は女物の服を着ているのよ? 世の中では男は男らしく、女は女らしくしなければいけない。いくら男女平等を(うた)っていても人は無意識レベルで男女を区別しているの。それは舞台(架空の世界)の中でも変わらない。けれど、現実と舞台の間では違うっ! 男が女を演じていてもいい! 女が男を演じていてもいい! 表現は自由だ! ここは現実よりもしがらみが少ない! だから、個々に合った役を演じればいい! 極論、合わなくてもいい! 自分の成りたい姿を演じればいいのっ! 舞台の上まで社会の常識に囚われるなんて勿体ないでしょうっ!? だから! 是非ともっ! 女装してみましょうっ!? そもそも男がスカート穿く国だって存在している! 何もおかしい事は無い! 全ては文化が違うだけ! そう! 文化よ文化っ! 確かに文化は社会の構成員として守らなければならないっ! 人間は異物を恐れる生き物で、自分と違うモノを排除したがる! そうしなければ規律が守られないからっ! けれど! それじゃぁっ! つまらないでしょうっ!? 文化は決して一つじゃないっ! 時代によって移り変わり、場所や環境によっても全く違うっ! この国にも昔は男色の文化があったっ! お互いの腕を斬り裂き、傷口を合わせて絆を確かめ合うなんて文化もあったそうね! だけどそれは現代では通用しない。今そんな事をすれば異端者として排斥されるから! けれどもっ! それに魅力を感じる人間だっているのっ! ……文化は規範ではあるけれど、人間の持つ可能性を潰してしまう。他の文化を受け入れにくいの。しかし、だから、だからこそっ! わたし達は表現するのっ! 舞台の上ではしがらみは少なくなっているっ! 架空の世界や昔の世界を演じることで、異なる文化に触れることが出来るっ! それは、普段気が付かない人間の可能性を発見し、今は失われた可能性を想起することに繋がるっ! 君だって、女の子の格好の方が似合うかもしれないでしょうっ!? 現実だと難しくてもここでなら許される。舞台の上にいるのは君ではない誰かなのだから。舞台の上は現実ではない異界なのだから。現実世界とは姿かたちが違って当然のことなのだから……っ! 君が女装してようと何も問題も無い。その娘は決して君ではないの。……一目見て分かったわ。わたしは君が女の子の姿をするのも似合うって確信している。なにも現実で女装しろと言っている訳じゃないの。けれど、それは君自身の可能性を潰す事と同義よ。わたしは舞台で自分の可能性に気が付いて欲しいと思ってる。全ては君が決める事だけれど、あえて言わせてもらうわ。君は異界の文化を体験してみるべきよ。……もう一度聞くわ。演劇部に入って女形を演じてみない?』


「それは……ずいぶんと濃い人だったんですね……」


 紅羽が当時の部長の演説を冬梅に話すと、彼女は苦笑いを浮かべた。紅羽も当時は同じ事を思ったものだと、うんうんと頷いた。


「俺もそう思う……。しかも、他の入部希望者にもいろいろと演説してたみたいなんだよ。大体の人は引いてしまって入部しなかったみたいで、他の部員に怒られてたらしいし……」

「うわぁ……。でも、先輩は入部したんですよね? しかも、その部長に言われた通りに女形を演じてますし。その人の何がよかったんですか?」


 冬梅は若干不機嫌そうに言った。紅羽はどうして彼女の機嫌が悪いのか分からず、首を捻りながらもその質問に答えようとした。


「んー。夏伐先輩の『舞台に上がってる間は君じゃない別の誰かになっている』って言葉に惹かれたのかなぁ? それで、演劇部に入ってみようと思ったんだ……。初めは女形はやるつもりは無かったんだけど、部長に何度も演説されているうちに一回ぐらいなら……って」

「それでそのまま女形専門になったんですか」

「うん……。普段とあまりにも姿がかけ離れてて、気持ちが大胆になるんだよね……。そのうち女形をしてた方が演技がうまいって言われるようになった……」

「そして、プライベートでも女装に目覚めたって訳ですか」

「うん。そうだよ……って、ちょっと待って! なんで知ってるのっ!?」


 冬梅はクスクスと笑いながらポケットからタブレットを取り出し、操作を数回して画面を見せた。そこには紅羽がSNSに登録したアカウントが表示されていた。画像フォルダには顏を隠した紅羽が有名なアニメヒロインのコスプレをしている写真がアップロードされていた。

 冷や汗が止まらずに戦々恐々としている紅羽とは対象に、冬梅は心底おかしそうにタブレットの画面の操作を続けた。


「ふふふっ、部長さんに教えてもらいました。あ、安心してください。部長さんがこの事を話したのはわたしだけだそうです。ふふっ! わたしたちだけの秘密って感じでワクワクしますね!」

「あの人の情報網はどうなってるんだ……っ! 冬梅さん、頼むから言いふらさないでよ……? あんまり噂は立てられたくない……」

「はーい。了解でーす」


 冬梅は適当な返事をしながら、再びタブレットを弄りだした。本当に分かってくれたのか紅羽が不安になっていると、彼女は再び画面を弄って紅羽に見えるようにタブレットを向けた。そこには紅羽と他のSNSユーザーの会話が映し出されていた。


「流石ですね先輩! 先輩を女性だと勘違いした人たちがたくさんいますよっ! それに先輩も酷いですね。プロフィールの何処にも男だって書いてないじゃないですかー。普段から口調も顔文字なしの敬語で呟いてて性別がはっきりしない上に、女の子だと間違えてる人に訂正の返信してないですし」

「仕方ないでしょ……! 女だって言ったことないし……っ! むこうが勝手に間違えてるだけ……っ!」

「女の子と間違えていると知っていて話さないのは、騙しているのとおんなじですよ。バレた時に炎上します。バラすか隠し通すかはっきり決めた方がいいと思いますよー? ちなみにわたしのおすすめは前者ですね。楽になれます」

「考えとく……よっ!」


 紅羽はタブレットを奪い取ろうと手を伸ばすが、簡単に避けられた。本気で奪い取るつもりはなかった紅羽はさっさと諦めて、ため息をつくと再び帰路についた。


「もう、この話はいいでしょ……? 俺が演劇部に入って女形を演じてるのは、全部夏伐先輩のせいってこと……」

「で、そこから女装趣味に発展したと」

「……。否定できない」


 紅羽は苦々しく唸りながら言い訳を考えるが、何か画期的な案が出てくることは無かった。紅羽はため息を漏らし、思わずといったように呟いた。


「それに、惚れた弱みもあったし……」

「えっ……? 何か言いました?」

「ぁ……、何でもない……」


 紅羽は口を滑らせた言葉を聞かれていなかったことにホッと息をついた。しかし、彼女にはそれが納得いかなかったようで、紅羽の腕を掴んで何度も聞き出そうとしてくる。


「ちょっと! 気になるじゃないですか! そこまで言って黙るなんて生殺しですよ生殺しっ! とっとと口を割ってください!!」

「いーやーだーっ! 無意識に呟いてしまっただけで、恥かしい事なんです!」

「無意識に呟いたって事は誰かに聞いて欲しかったってことかも知れないじゃないですか! なんかこう、心理学的で深層心理的なモノが働いていたかもしれないですよねっ!? さぁ、ゲロりましょう! そうすれば楽になりますよ!」

「都合のいいように心理学を使わないでくれるかなっ!?」


 通り過ぎて行った車のドライバーが「なんだ。痴話喧嘩か」と呆れた視線を送っていた事にも気が付かず、二人は言い争いを続けていた。人通りが少ないことをいいことに、掴んだ紅羽の腕をぶんぶんと上下させる冬梅だったが、紅羽は握りが甘くなった瞬間に腕を引いて拘束から逃れると、一目散に走り出した。


「冬梅さん。今日はこれでっ! じゃあね!」

「ああっ!? ズルいですよ先輩! 敵前逃亡は軍法会議ものですよっ!」

「自分が敵だって認めてるっ!?」


 紅羽は一瞬振り向いて言い捨てると、後は振り返らずに駆けて行った。一方、冗談が過ぎたかと思った冬梅は駆けて行く紅羽を追いかける事はしなかった。紅羽が走り出した場所は分かれ道のすぐ近くだった。二人はその道で別れて帰宅する必要があるため、彼を追いかける事はしつこいと思われる可能性があったのだ。

 故に彼女は紅羽を追いかける事はせずに声をかけるだけに留めておいた。


「明日っ! ちゃんと聞かせてもらいますからねっ!」

「絶対に嫌だ!」


 振り返らないまでも、律儀に返事をした紅羽の背中を冬梅はじっと見つめていた。

 紅羽はその事に気が付かない。ただひたすらに前だけを見て駆けて行く。そして、紅羽の姿が物陰に隠れて冬梅の視界から消えた。


「……」


 話し相手が消え、冬梅の周りからは音が消えた気がした。彼女は紅羽が消えた先を睨むように見つめている。


「へぇ……。先輩の好きな人ね……」


 冬梅の小さな呟きは誰にも届くことは無かった。






「はぁ……はぁ……。ここまで来れば大丈夫かな……?」


 冬梅の追及から逃れるために分かれ道まで走った紅羽は、膝に手をついて息を整えた。縦横無尽に暴れまわり、紅羽の体力を一気に奪ったリュックを担ぎなおす。とさりっという音を立てて中の教科書が跳ねるが、紅羽には気にする余裕が無かった。

 しばらく休んで体力が回復するのを待って、紅羽は再び歩き出した。

 紅羽は時折通る車の走行音を聞き流しながら自宅に急ぐ。部活の時間が長引いたため、空は暗幕をかけたように暗くなっている。翌日の演劇にベストコンディションで挑むためにはゆっくりと休まないといけない。早く家に帰って風呂に入りたいと思いながら紅羽は黙々と歩き続けるが――


「あ、やっぱり! おーい! 紅羽くん! こっちこっち!」

「……?」


 突然、後ろから声をかけられた。聞き覚えのある、そして、一年ぶりに聞く懐かしい声だった。

 紅羽が後ろに振り向くと、すぐ後ろの車道の隅に車が一台止まっていた。運転席の扉を開けて長身の女性が顔を出して手を振っている。彼女は髪を横で束ねて体の前に流し、口元には人懐っこい笑みを浮かべていた。


「……日向(ひなた)先輩?」


 紅羽はポカンと口を開けて間抜けな声を漏らした。噂をすれば影だとはよく言ったものだと、言葉を考えた過去の先駆者に敬意を表したいと思った。

 夏伐(なつぎり)日向(ひなた)。紅羽に声をかけたのは、去年卒業した前部長だった。


「……何で先輩がここに居るんですか?」

「ぶーぶー。別にあたしが何処に居ようと自由じゃん。紅羽くんは冷たいなー。まるで会いたくなかったみたいじゃない」

「そうですよね……。すいません……」


 夏伐は冗談めかした口調で行ったが、紅羽は反射的に夏伐に頭を下げた。夏伐はそんな紅羽に苦笑して頭を掻いた。


「んー。相変わらずだなぁ紅羽くん。別に今は謝る必要はない場面だよ? それより、車に乗ってく? 送っていけるよ」

「すいません……。送ってもらうなんて申し訳ないです……」


 紅羽は思わず夏伐の提案を断ってしまった。申し訳ないという思いがあったのも確かだが、何よりも彼女と一緒にいるのが気恥ずかしかったのだ。しかし、夏伐は苦笑いを浮かべて紅羽の鼻先をつついた。


「紅羽くん。相手の提案に申し訳ないからって遠慮するのは失礼ってものだよ。あたしにそれほど負担がかかる訳でも無いし、申し訳ないなんて思わなくてもいいの。こんな時は【ありがとう】だよ?」


「……分かりました。お願いします」


 紅羽は他の車が来ない事を確認して助手席に乗り込んだ。夏伐は満足そうに頷き、紅羽に家の場所を聞く。紅羽は所々つっかえながらも家の位置を言い切った。夏伐はウィンカーを出して周りを確認すると、アクセルを踏みこんだ。

 夏伐は運転しながらも紅羽に雑談を振ってくる。ペーパードライバーではなく、普段から車を使っていて余裕がありそうな運転だった。


「意外と紅羽くんの家まで近いんだね。もうちょっと遠いかなーって思ってた」

「もう少し遠かったら自転車を使えますよ。自転車通学が許可される地域にギリギリ入ってないんです……」

「ありゃ。それは確かに。うちの学校は駐輪所が少なくて自転車で登校する人の数を絞らないといけないからね。少しぐらい増設してもいいと思うんだけど」


 そう言って、夏伐はクスクスと笑った。学校側の事情で徒歩通学を強いられている紅羽には全く笑えない話だった。なんとなく流れて行く建物の明かりを目で追いながら紅羽は話題を変えた。


「そういえば、先輩はどうしてこっちに来てるんです? 県外の大学に行ったんじゃ……」


 紅羽が夏伐と遭遇してからずっと持っていた疑問を口にすると、彼女は悪戯っぽく笑った。


「そりゃあ、高校の文化祭を見に行くためよ。それに、夏休みと冬休み以外に家に帰る機会が無いから丁度良かったの。あ、演劇部の出し物、楽しみにしてるからね」

「マジですか……」

「あ、わたしに見られるのは恥ずかしいの? 安心して。友達と一緒に紅羽くんの女装を見に行ってあげる。彼女、なかなか性能のいいビデオカメラ持ってるらしいんだよ。いやー、紅羽くんに女形をしてもらうための理由を毎回でっち上げるのは、結構大変だったんだよ? 女装してくれたら面白そうって馬鹿正直に話しても断られそうだったし。了承してくれた時はうれしかったなー」

「俺に女形をさせようとした理由は、面白そうだったからなんですか……。もっと、こう……。演劇に対するこだわりみたいなものは無かったんですか? あとその情報は余計に安心できないです」

「……え? 面白そう以外の理由がある訳ないでしょう?」


 夏伐が女形を勧めてきた理由を今更ながらに知った紅羽は驚きを隠せなかった。一方、女形を勧めた理由が知られていなかった事に夏伐も驚いていた。


「そうですか……。バカバカしいですね……」

「バカバカしいって言ったって、紅羽くんもノリノリじゃない。生まれて来る性別間違ったんでしょ? 舞台の上くらいでは楽しみましょうよ」

「間違ってないです。止めてくださいよ。昔は容姿でからかわれてたんで気分悪いです」

「ふーん。で、今はどうなの?」

「SNSで純粋な子を吊るのが楽しいです」

「あははっ! 紅羽くんは悪女の才能あると思うよっ!」


 ハンドルを切りながら夏伐はケラケラと笑った。紅羽も口に手を当てて微笑を浮べている。しかし、一年ぶりに合って会話が続くかどうか不安だった紅羽は、意外と話が続いた事に内心、安堵していた。

 そして、夏伐の在学中に言えなかった気持ちを伝えるチャンスだとも思った。

 紅羽は心を決めてゆっくりと息を吸った。心拍数が一気に上がり、体中に緊張が走る。気を抜くと過呼吸が始まってしまいそうだ。舞台に上がる直前の緊張感もなかなかの物だが、今現在晒されている緊張感はそんなものではない。それでも紅羽は言葉を紡ぐために肺に力を籠めた。


「あの、せんぱ……」


 しかし、その覚悟に水を差す現象が起こった。


「ごめんっ! ちょっと何かに捕まってっ!」

「……ッ!?」


 紅羽が話そうとしたところで夏伐がブレーキを一気に踏み込んだのだ。車が操作に従って止まろうとするが、すぐには止まらない。車だけではなく体も慣性に従って前方に投げだされようとした結果、シートベルトに固定された腹部が圧迫される。

 そして、しばらくすると車が完全に制止した。怪我も無く無事に止まれたことに紅羽はホッと息を吐いた。直前の警告のおかげで頭を打つ事は無かったが、心臓に悪い。


「バカかッ!? 優先車線はこっちだろうッ!? 一旦止まれの文字が見えねーのかよクズがッ! なんで免許取れてんだよんなもん焼き捨てちまえよ仕事に行ってるか学校に行ってるか知らねーがお前が外に出ないだけで社会貢献になるんだよッ! その程度の事も理解できない低脳ですかぁッ!? お前アレだろ免許の期限切れたから車に乗って更新に行くタイプの奴だろッとっとと免停喰らいやがれッ!!」

「あの、先輩……。人が変わりすぎじゃ……」


 飛び出して来た車に対して罵倒雑言をぶちまけた夏伐の豹変に紅羽が顔を引きつらせていると、夏伐はバツが悪そうに頭を掻いた。


「はぁ……はぁ……。ごめんね紅羽くん。大丈夫だった? 人は運転中と匿名の場所だと本性が出るものなのよ。今のは忘れてくれると助かるわ」

「それは大丈夫です……。あと、俺の本性が女装好きで男の心弄ぶのが好きな変態だっていう遠回りな皮肉ですか?」

「あははっ! 違いない! オフ会とかにホイホイ行って掘られないようにしなよ? そこまでいかなくても勢いで抱き付かれるくらいはするかも」

「止めてくださいよ。変なフラグ立ちそうじゃないですか……」


 夏伐は紅羽の軽口に笑うと、再び車を走らせた。一方、話を切り出すタイミングと勇気を逃した紅羽は、先ほどの車の運転手に無言で殺意の念を送っていた。

 結局、紅羽は話を切り出す事が出来ないまま、家まで着いてしまった。紅羽は送ってくれたお礼を言いながら車から降りる。そして、夏伐は思い出したように問いかけた。


「そういえば紅羽くん。さっき何か言いかけてなかった?」

「……いえ、何もないですよ」

「ふーん。ならいいか。また明日ね。演劇、楽しみにしてるから」

「ありがとうございました」

「それじゃあ、またね」


 夏伐は軽く手を振ると車のドアを閉める。そのまま、振り返ることなく遠ざかって行く。紅羽はその姿を見つめながら呟いた。


「はぁ、また告白出来なかった……」






 翌日、紅羽は悶々とした思いを抱えたまま演劇の本番を迎えてしまった。女物の衣装を身に纏い、化粧までしている。発声練習も済ませて男の声から女に似た声に調整し終わった。しかし、外面の準備は完璧であったが内心の準備は完ぺきとは言えず、舞台袖から難しい顔でステージを睨んでいた。そんな紅羽を見かねたのか、冬梅(ふゆうめ)が小声で彼に話しかけた。


「紅羽先輩。難しい顔してどうしたんですか?」

『ん? ちょっと緊張してるだけよ』

「うーん? いつもより緊張しているように見えるんですけど……。誰か大切な人(・・・)でも見に来るんですか?」


 紅羽は冬梅の軽口にドキリとしながら、肩を竦めた。完全に図星だったからだ。夏伐(なつぎり)日向(ひなた)の存在が紅羽の心を乱していた。昨日、告白出来ていればここまで心が乱される事も無かったのかなと紅羽は益体(やくたい)の無い考えが頭をよぎる。しかし、ただの昨日の車に対する逆恨みかと頭を振って思考を振り払う。


『そうだとしても、いつも通りにやり切るだけよ』

「あ、図星なんですか。誰が来るのか気になる所ですが、誰が来ても同じですよ。わたし達は練習の成果を出すだけです。気楽にいきましょーよ。いつもと同じでいいんです。むしろいつもの先輩の方が魅力的ですよ? わたしたちはお金を貰っているプロではないんですから、観客なんて気にしなくていいんです。観客なんて野菜です。トマトですよトマト」

『……ありがとう。ちょっと、落ち着いたわ。……でも、なんで私の嫌いな物をチョイスしたの?』

「ふふっ。どういたしまして。その方が面白いかと思いましたので」


 紅羽が笑うのを見て冬梅もクスクスと笑うと、彼女は持ち場に戻って行った。紅羽はそれを笑顔で見送った。

 彼女の衣装のドレスが暗闇でたなびいた。本物の女の子の動作を見て、本当に女の子を演じられているのか不安になる。あくまで紅羽は男なのだ。完璧になりきるのは難しい。今から好きな人の前で、男らしい演技をするのではなく女性として、それも、恐らく不完全な女性を演じなければならない。男らしい姿を見せたいという彼の思いとは矛盾してしまう。それでも――


『そんな事、今はどうでもいいわ』


 紅羽はネガティブになる思考を振り払う。演劇部に入ってからずっと、ずっとずっと時間をかけて作り上げた【女としての紅羽】を演じる。本来の内向的で臆病な【男としての紅羽】ではいられない。外交的で快活な【女としての紅羽】を演じ切る。【彼】ではなく【彼女】でいるときくらいは怯えを抑えてみせる。姿を変えて中身を変えないなんて勿体ないだろう? この【紅羽】は、彼が成りたいと願う完成系なのだから。普段の彼が望む勇気を持っている存在なのだから。

 性別を変えたのは普段の姿をイメージしない為。普段の臆病な姿に引きずられない為だ。

 紅羽の女装は女らしくなることが本質ではない。勇気を引き出すことが本質なのだ。女らしくないとか、男らしくないとかはただのエッセンス。勇気のある【紅羽】を演じやすくするための要素の一部でしかないのだ。

 【紅羽】はゆっくりと息を吐いた。先ほどまで感じていた不安は薄くなっている。決して緊張が無くなった訳ではない。それでも、やり遂げる自信が湧いて来る。


『日向先輩、私の勇気を見届けてください』


 紅羽は穏やかに微笑みながら時が満ちるのを待った。






「おい紅羽! そんな格好で何処に行くんだっ!?」

『ごめん! 自分の格好は分かってるから! それでも急いでるのッ!』


 無事に演劇が終わり他の部員が衣装を着替えながら談笑しているのを尻目に、紅羽は誰とも話さずに急いで着替えを済ませていた。そして、部室を飛び出そうとした紅羽に同級生の男子部員が慌てたように声をかけて引き留める。それほどまでに紅羽の姿は異様だった。

 【廊下は走るな!】と書かれたポスターを尻目に、紅羽は駆け足で目的地を目指した。目的地に近づくにつれて人通りが多くなり、走りづらくなる。時折人にぶつかりそうになり、そのたびに謝りながらも目的の人物を見落とさないように注意を払っていた。

 そして、見つける。


『日向先輩っ!』

「え? 紅羽くん?」


 夏伐は紅羽の姿を認めたが、彼女は少し戸惑った声を上げた。それは当然であろう。今の紅羽は女物の服装を着ていたのだから。薄い瑠璃色のブラウスと緑のスカートを身に着けており、黒のニーソックスまで履いている。さらに、長めの髪をリボンで結んでポニーテールにしていた。女形を演じる為に使っていた化粧も残ったままになっており、普段の男らしさはほとんど隠れてしまっている。

 紅羽と夏伐は演劇が行われていた体育館にいた。夏伐は比較的前の方に友人と陣取って鑑賞していたため、体育館の入り口にできた人だかりに阻まれてなかなか退室できずにいたわけだ。

 そして、夏伐の姿を認めた紅羽は覚悟を決めた。


『あの……! 日向先輩、聞いてほしいことが……』

「ん? なぁに?」


 紅羽はゆっくりと息を吸った。心拍数が一気に上がり、体中に緊張が走る。気を抜くと過呼吸が始まってしまいそうだ。舞台に上がる直前の緊張感もなかなかの物だが、今現在晒されている緊張感はそんなものではない。それでも紅羽は言葉を紡ぐために肺に力を籠めた。

 周りには、名前の知らない夏伐の友人がいるのみ。人が多い状況を言い訳に諦めることは出来ない。紅羽は必死になって言葉を吐き出そうとする。そして、今までどれほど望んでも伝えることが出来なかった想いが彼の口から紡がれる。


『好きです。日向先輩っ! ずっと前から好きでした……っ! 勇気が無くて今まで言えなかったんです。今も、この姿に頼らないと言えないくらいの勇気しかないけれど! それでも好きなんです……っ! 私と、一緒にいてくださいっ!』

「……」


 三年間、心に抱きながらも口にすることが出来なかった想いを紡いでみせると、紅羽は目を瞑って俯いてしまった。夏伐の反応を知るのが怖かったのだ。

 時間が引き伸ばされて感じる。いつになっても返事が返ってこない気がした。けれど、それは幻想で、すぐに静寂が破られる時が来る。

 ぽんっと紅羽の頭に手が載せられた。

 紅羽は恐る恐ると目を開ける。すると、夏伐が苦笑に近い笑いではあったのだけれど、確かに微笑んでいた。彼女は優しく紅羽の頭を撫で続けた。そして、返事をする。


「紅羽くん。わたしは君の事を友達みたいにしか見れないんだ。ごめんね」

『そ、そうですか……』


 紅羽はゆっくりと息を吐いた。悲しみよりも先に返事を貰えた安堵が来た。それほどまでに、告白してからの数秒間が長かったのだ。


「いこ。春瑠(はる)

「あ、うん……」


 夏伐の手が紅羽の頭から離れた。紅羽の隣を夏伐が通りすぎ、彼女の背中が遠ざかって行く。春瑠(はる)と呼ばれた夏伐の友人が、心配そうな視線を紅羽に送って彼女の後を追ったのが分かった。

 その間、紅羽は一歩も動けなかった。動く気力も湧かなかった。


「紅羽くん。後輩は大切にね?」


 夏伐は最後にそう言い残して去って行った。紅羽は夏伐の姿を見る勇気もなく、彼女たちの足音が完全に聞こえなくなるまで振り向くことが出来なかった。

 紅羽は涙が溢れそうになるのを必死にこらえていた。泣くのは恥ずかしいという思いに続いて、化粧が崩れそうだという考えが浮かんできとことに苦笑いが浮かんだ。それでも、胸の底から込み上げる想いはなかなか収まる事が無く、落ち着くまでしばらく時間がかかりそうだった。

 しかし、時間は待ってくれない。


「あの、紅羽先輩……」


 控えめな声が聞こえた。


『冬梅さん……? もしかして見られちゃった……?』

「はい……」


 背後からかけられた声に、紅羽はゆっくりと振り返った。体育館の入り口付近から、冬梅が申し訳なさそうな、複雑そうな表情で紅羽を見つめていた。紅羽は思わず自嘲するような乾いた笑いを漏らしてしまった。


『ははっ……、情けないなぁ……。格好悪いところ見せちゃったかなぁ……。思ったより恥ずかしいね、コレ……』

「あの、先輩……」

『ごめん。忘れてくれると助かる。振られた事を噂されるのはちょっと勘弁してほし……』

「先輩っ!」


 彼女の声に、彼女を無視して一方的に話す事を遮られた。冬梅と視線を合わせる事もせず、一方的に思いを伝えることは卑怯だと、そんな事は許さないのだと、そんな意志を持って冬梅は紅羽の手を握った。そして彼の目をのぞき込む。紅羽は突然の事に体を動かす事が出来なかった。目を逸らすことまで封じられてしまった。そして、冬梅は彼に問いかける。ごまかすことは許さないという、強い意思を持った瞳であった。


「先輩は夏伐先輩の事が好きなんですよね?」

『ああ……』

「ちゃんとそれを伝えれるのは凄い事だと思います。先輩は格好悪くなんてないんです……」

『……』

「……先輩はまだ夏伐先輩の事が好きですか?」

『うん……』


 紅羽は格好悪くないという言葉には納得できず、反応できなかった。けれども、次の問いかけにはすぐに答えることが出来た。答えないといけないと思った。……そして、まだ自分が諦めてはいない事に気が付いた。

 そうですか、と言いながら冬梅は紅羽の手を離す。そして、軽やかに紅羽から距離を取って、愉快そうに笑った。


「それでこその紅羽先輩です。それじゃあ、わたしも諦めない事にします。先輩が日向先輩の事を諦めるまで、これから毎日先輩を口説くことにします」


 冬梅は面白そうに、愉快そうにクスクスと笑った。紅羽は、冬梅になにを言われているのかいまいち飲み込めずに間抜けな声を漏らした。


「ふふっ……。想いを口にするのって恥ずかしいですね。今日はこれくらいにしておきます。……忘れないでください。毎日お話できるわたしの方が、夏伐先輩より有利なんですよ?」


 そう言い残して冬梅はスカートを翻し、姿を消した。文化祭の残りは友人と過ごすのだろう。紅羽はため息をつくと、自分も文化祭を満喫する事に決めた。

 冬梅への返事は決まってないけれど、今はきちんとした返事を用意できる気がしなかった。なんとなく、クラスメイトと一緒に出店を回りたい気分だった。適当に歩いていれば誰かと会うだろうと思いながら、紅羽は適当な出店に向かって歩を進めた。






「……よかったの日向(ひなた)。告白断っちゃって。かなり可愛い子だったじゃない」

「いいの。さっき言ったみたいに友達としか見れないし……」

「でも……」

「でもじゃないの。それに、春瑠(はる)には関係ないでしょ?」


 文化祭中の母校から出て来た春瑠は、クレープを齧りながら夏伐に尋ねていた。しかし、夏伐には鬱陶しそうにひらひらと手を振られ、相手にする気が無いという意志を示されていた。それでも独り言のような言葉を発する事は止めなかった。


「それにしても、事前に男の子だって聞いてなかったら絶対に女の子だって思ってたわよ? いやー。妄想が止まらないわね。設定盛りすぎで二次元の存在にしか思えないわ、あの子」

「ほんとよね。あたしもここまで属性を盛ってくるとは思ってなかったわ」


 夏伐は面白そうにクスクスと笑った。紅羽が女装趣味まで持つようになったのは彼女にとっても予想外だったのだ。彼女が女形を勧めたのは、一回くらい女装を見られると嬉しいなという程度の気持ちだったのだ。


「あと、冬梅って後輩もすごかったわよね。学校についた日向にいきなり宣戦布告するんだもん。モテモテなこって」


 夏伐たちが学校についた時、一人の女子生徒に声をかけられていた。前日、嫌な予感を覚えて紅羽の後を追っていった彼女は、紅羽が夏伐の車に乗り込むところを見ていたらしい。

 そして今朝、夏伐は彼女に宣戦布告される流れとなった訳だ。その時の後輩のいじらしさを微笑ましく思い、夏伐は校舎を振り返って笑った。


「くすっ、頑張ってね。後輩」


 実は紅羽くんにはモデルがいます。作者の友人です。設定盛りすぎな彼ですが、半分くらいは彼の属性です。会話の一部は作者と彼のやり取りほぼそのままだったりします。

 ストーリーは彼とは全く関係が無いんですけどね。


「ラノベみたいだな」

「紅羽くんは3次元じゃなくて2次元の住人って言われても違和感ない人生送ってるから」


 ってな会話をしてましたが、遂に彼は二次元の住人になりました。


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