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私が砂になるまえに

作者: たっくん


 ここは音のない部屋です。

 博士はそう云いいながら、後ろ手でドアをぱたりと閉める。そうしてしまうとその部屋にはなにもない。なにもないというのはつまり、窓や、洗濯機や、本棚や、机や椅子や、そういったありとあらゆる調度がないということを意味している。ただひとつだけ、天井にはめ込まれているらしき丸型の電光だけが、その中央で部屋全体を照らしていた。それだけがこの部屋のすべてを証明しているような気がした。

 白いですね、と当然のように私は云う。その言葉通り、部屋における壁という壁は、まるでそれ自体から白のペンキが染み出しているかのように湿った白で染められている。だからだろうか、ひどく眩しい。光源はひとつしかありえないのに、私は、まるで初めて目を開けた小鹿のようにその一対の目を細めるばかりだ。

 白という言葉から君はなにをイメージする? 博士はドアと対の方向へと歩みを進めながら問う。かつ、かつ、と冷たい足音だけが地面を伝い、壁を伝い、そして天井から私の頭へ降ってくる。白——。

 それは泡の色です、と試しに私はそう答える。段々と遠くなる博士の背中に、投げかけるように言葉を吐く。

 博士はなにも答えない。

 かわりに博士はひとつ小さな咳をして、それからまたおなじように歩いてゆく。

 それから博士の姿が私の視界から消えてしまってから、私はようやっと、解き放たれた魔法のように気づく。この部屋には壁などない。天井も、床も、この部屋にはありえない。いや、それは果たして部屋なのだろうか? ただ、丸型の電光だけが白の(そういうふうにみえる)空間に浮かんでいる。その少ししたの辺りを浮遊する私は、いったいここでなにをするつもりだったのだっけ?

 なんとなく振り向いた。するとそこには当然のようにひとつのドアがあり、ドアノブがあり、鍵穴がある。施錠はされてはいないだろう。だからきっといまそっと手を伸ばしドアノブを回せば、それはいとも簡単に開いてしまう。けれどなぜだろう。私はそれをしてはいけない。それはひとつの確かな予感であり、直感であり、また——。

 また、ある種の啓示でもある気がした。それはどこから? それはもちろん、遠くに消えた博士からの。

 だけども私はドアを開けた。

 するとそこはやはり(私はそれを予感していたのだ)後ろと変わらぬ白の部屋で、ただひとつ、中央付近にあるタイプライターだけが違った。タイプライターの前にはひとつの古びた木製であろう椅子があり、また、そこにはいっぴきの猿が腰をおろす。

 ただ通常の猿ではなかった。猿の目は白く染まり、口は洞穴のような穴を開け、そしてその腐った木々のように細い身体はしかとタイプライターに預けられていた。

 いっぴきの猿の死骸。近づくと、その姿はなんとなく博士のそれに似ている気がして、そっと人差し指を触れてみる。すると猿は砂のように崩れ落ち、どこへゆくでもなく宙を舞って、すぐに虚空へと消えていった。

 かわりに椅子に腰掛けてみる。ぎぃ、と不気味な音をたてるものの、その椅子は私の重さをしっかりと支えた。

 それから鍵盤に手を伸ばしたときだった。背後に気配を感じ振り向くと、そこには見慣れた博士の姿があった。

「やあ」と博士は云ってタイプライターを覗き込む。「これは……ふむ。そうか。君がこれをみつけたんだね?」

 いえ、違いますよ博士。これは博士に似た猿がみつけたんです。私はただその猿を押しのけて、ここに座っているにすぎないんです。猿は消えました。それはただの砂になって、この部屋のどこでもないところへと散ってしまったんです。

 けれどそうした言葉たちは喉のあたりまで出かかったにすぎず、私はただ無言で博士の言葉に肯いた。私は嘘をついたのだ。

「そうか。ならば君は物語を紡ぐ必要がある」

「物語」と私は呟いて、改めてタイプライターに目をやる。ところどころにシミがついて、使い古しがすぐみて取れるそれを、私はそっとひと撫でしてみた。それから少しだけみまもるも、それがいつかの猿のように砂になることのないのを認めると、思い出したかのように深いため息をつき、博士のほうへむき直ったた。

「私は物語を紡ぐ必要がある」

 それは先の博士の、または私の言葉の反芻であったのだけど、なぜだかその言葉はおなじぶんだけの決意を示している気がしてならなかった。

 私は物語を紡ぐ必要がある。でもそれって誰のための?

 気づくと博士は消えていた。その瞬間はいっときの瞬きのあいだにおこなわれ、私は私の目の端を飛ぶ数粒の砂を認め、それから小さく肯いた。

 博士は砂になった。そして私は、誰かのための物語を紡ぐ必要がある。

 そうして私は古びた鍵盤を叩くことにするのだけど、またこうも思い出す。

 ここは音のない部屋なのだと、あるとき誰かが云っていた。いまではその者の顔を浮かべることはできないけれど、いまではその者の声をつかむこともできないけれど、中性的なその音だけが、私の心の奥のほうを、静かな揺られでふるわせるのはいったいどうしてだろう?

 それはどうしても判らない。いまの私の意識は鍵盤に触れた指先ただそこだけに流れていって、そうした声に振り向くことなどありえないのだから。けれども少しだけの優しさを持って、ほんのちょっとだけの理解を掬って、私はただ、これからの物語をこの言葉から始めようと思う。

 とある誰かの言葉を借りて、まずは一言。

『ここは音のない部屋です。』

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