背中に触れた温もり(アルト視点)
俺は、午後の授業に向かう廊下で、ラインハルト殿下にこの幸運を伝えようと優雅な後ろ姿を追った。
「……殿下、ラインハルト殿下! 見ましたか!? 今の、見ましたよね!?」
主君であるラインハルト殿下の背中を追いかけながら、震える声で叫んでいた。心臓の音がうるさすぎて、自分の声もどこか遠く感じる。
「俺…麗しいエレオノーラ様に、後ろから『ムギュッ』て! 手のひらでされたんすよ!!いい香りがしました!」
両手で自分の口元を覆う。
そこにはまだ、彼女の柔らかい手のひらの感触と、甘い香りがこびりついているような気がして…。そして急激に得体の知れない恐怖が襲ってきた。
「今日……今日こそが俺の命日です。きっとそうです。神様が最後にくれたご褒美に違いない。殿下、短い付き合いとなりましたが、俺はもう思い残すことはありません……どうか、俺の有能な仕事の記録だけは後世に語り継いで……」
幸せで足腰に支障をきたす俺の隣で、殿下は歩みを止めず、後光が差しそうなほどの神々しい微笑みを浮かべた。
「アルトの想像力は豊かだね」
「想像じゃないっすよ! 現実です! 抱擁と言っても過言ではない……!」
「落ち着いて現実を見なさい」
殿下は流れるような所作で足を止め、こちらを振り返ると、まるで子供を諭すような慈愛に満ちた目で俺を見た。
「あれは単に、余計な正論でエリザ嬢を追い詰めないよう、物理的に『口封じ』をされていただけだろう?」
「…………。……えっ?」
「彼女は君の『正論』が悪癖だと理解しているようだったしね。君が喋れば喋るほど、その場の空気が台無しになると思ったんじゃないかな。あれは猛獣使いによる『制止』だよ」
殿下の言葉が、鋭い氷の矢のように俺の胸に突き刺さる。
「くっ……口封じ、ですか……。あんなに優しくされたのに?」
「物理的に行かないと君が止まらないと判断されたんだろうね。可哀想に」
殿下はフッと楽しげに笑うと、再び歩き出した。
「……物理的な、口封じ」
殿下の言葉を反芻した瞬間、俺の脳内に妙な火花が散った。
「なんか……それ、すごくいい響きじゃないっすか……? 物理的に、ふさがれる……。うわぁぁ! やっぱり俺は今日死ぬんだ! 徳を積みすぎたんだ!」
「アルト、顔がひどいことになっているよ。授業の前に冷や水でも被ってきたらどうだい?」
殿下の呆れ顔も今の俺には届かない。
一度スイッチが入ってしまった妄想は、暴走する馬のように止まらなかった。妄想という平原を駆け抜けた。
「それに……口だけじゃないっすよ。あの時、背中に、後ろから感じたあの……なんというか、こう、柔らかさ……! あれは勘違いじゃない。確かに俺の背骨が、女性の神秘を察知したんです! 殿下、もうダメです、やっぱり俺は死ぬんだ! 幸せすぎて爆発して、王都の星になるんだ!!」
「君の脳内は、一度洗ったほうがいいかもしれないね」
殿下はついに深いため息をつき、憐れみすら含んだ目で俺を見下ろした。
「いいかい、アルト。彼女は侯爵令嬢だ。あの様な行動に出させた事を少し反省したまえ…。」
「…反省しながら、背中に当たったふわふわを思い出にして生きます」
結局、俺はこのまま生きる。そう決めて幸せを噛み締めた。
そう言った時、殿下の歩みが止まった。
「それほど…なのか?エレオノーラ嬢はなかなか…大きいということか?」
「……へ?」
殿下のあまりにも直球な問いかけに、耳を疑った。
今、この完璧超人な王子は「それ」に興味を持ったというのか……?
「女性の中でも豊かな方なのか、と聞いたんだ。」
殿下は相変わらず、国宝級に美しい横顔のまま、大真面目な顔で俺を見ている。それはまるで、国の重要機密を話すかのような真剣さ。
「で、殿下。俺にそんなことを聞かれても、その……データがありません! 他に比較するデータがないんですよ!大きいか平均かなんて知るわけないでしょう!」
必死の訴えに、殿下は歩みを止めて深く絶望したような顔をした。
「……私の側近候補ともあろう者が、比較対象の一人もいないとは。アルト、君の『モテない』という悩みは、私が思っていたよりも深刻かもしれない。国家的な損失と言ってもいい」
「…国家的な…損失…!?」
殿下は恐ろしい事を言い出した。
「そうだ、君も母上に後から抱きしめられた事ぐらいあるだろう」
「なっ!母上!?」
俺は必死に過去の思い出を記憶から引っ張り出し…
…そしてやめた。
「…何故でしょう…俺の母上を思い出した途端、考える事を脳が拒否してます」
「…確かにそうだな。この熱量と探究心に母上を思い浮かべた時点で気力の大半が削がれる何かがある。」
俺は必死に記憶をたぐり寄せた。
母上によって削がれる意欲が勿体ない。他に何かないのか?あの、背中に当たった得も言われぬ感触。脳内の記憶を総動員させ、ようやく一つの「比較データ」を導き出す。
「……ありました! 殿下、生徒会執務室にあるソファにクッションありますよね! あれに近いです! 反発力があるのにどこまでもふわふわな、あの感触……!」
「ほう、あれか。……あれが君の背中に当たったというのか」
「そうです!まさにクッションでした!」
殿下はふむ、と顎を触り、しばらく考え込んだ後、真剣な眼差しで俺を見た。
「検証が必要だな。……行くぞ、アルト」
「え? どこへ?」
向かった先は、いつもの執務室だった。午後の授業は??
殿下は入室するなり、ソファに置いてあった一対のクッションを無造作に掴み、俺に差し出した。
「いいか。これを背中に挟んでソファに座れ。私もやる」
「……は?」
「いいからやるんだ。君の受けた衝撃を共有しなければ、今後の業務に支障をきたす」
俺たちは豪華な執務机に向かうのではなく、並んでソファに腰を下ろした。背中と背もたれの間に、最高級のふわふわクッションを無理やり押し込んで。
「……どうだ、アルト」
「……はい。感触の再現度は八割といったところでしょうか。ですが、ここに『包まれるような体温』と『エレオノーラ様の良い匂い』が加われば、ほぼ完璧です」
「なるほど。……確かに…」
絶世の美男子と、その側近候補が、クッションを背中でモゾモゾさせながら「ふわふわ……」「確かに、これはいい……」と呟き合っている。
もし、この光景が誰かに見られたら、俺たちは社会的に死ぬ。
そして次に、そのクッションを両手で掴み眺めた。
「なかなか、大きいクッションだ。しかし下品な大きさでもない」
「そうっすね。ベストサイズのクッションですね」
…
「……殿下、これ、傍から見たら相当マヌケっすよ」
「分かっている。だがアルト、これで君の兄上がどれほどの特権を手にしようとしているのか、その一端が理解できたよ。……よし、この『ふわふわ感』を維持したまま今日の予算案を片付けるぞ。講義は休みだ。授業中に事故があってはならないからね。」
「なるほど、これは体調不良として処理いたします。講義中に思い出してしまえば終わりですからね。」
「あぁ、代わりに生徒会の仕事を進めよう。クッションの優しさに包まれながら」
その日の執務室では、クッションを気に入った王子とその側近が仕事を効率よく終わらせたという。




