危険な香り(アルト視点)
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
俺は王都立学院の廊下を駆け抜けていた。
早くあの無垢な女性から離れなければならない。一刻も早く、だ。
男として、あの状況は不敬な反応を見せないか危ういものだった。
純真無垢な女性に、それも侯爵令嬢に対して…何かしらの反応を見せてしまえば。不敬罪で国外追放どころか、この国の歴史から抹消されていただろう。「アルト?そんな人物存在しませんよ?」なんて言われるのだ。
俺は執務室の重厚な扉を、ノックもそこそこに勢いよく開け放った。
「殿下!! 」
「……ああ、アルトか。無事に侯爵令嬢に自分を売り込めたか?」
優雅に書類に目を通していたラインハルト殿下が顔を上げた。
「いいえ、その前に報告がございます」
俺は、荒い息を整えながら一気に「仕事の顔」へと切り替えた。
「先ほどカフェテラスにて、エレオノーラ侯爵令嬢が野鳥の襲撃を受けました。その鳥の挙動が極めて不自然です」
殿下の目が、一瞬で鋭くなった。俺が仕事の話をしている時の真剣さを、主君は誰よりも理解している。
「詳しく聞こう」
「はい。その鳥は、エレオノーラ様の髪飾りに執着していました。……恐らく、あれは『特定の輝き』や『高価な石』を奪うように訓練された鳥に違いありません。」
「……鳥を使った窃盗か」
「その可能性が高いかと。」
俺は淀みなく報告を続ける。
「殿下、至急、学院内の警備体制の強化と、飼育者の調査を求めます。それから、生徒たちにも『光り物を不用意に晒さない』よう通達する許可を。」
「……分かった。許可する」
殿下は満足そうに頷き、ペンを走らせて印を押した。
それをそのまま俺に渡すのかと思いきや、執務室で作業をしていた他の側近候補である生徒に「学園本部へ提出を頼むよ」と渡してしまった。その生徒が頷き、部屋の外へ出ると俺と殿下の2人だけになる。
ここまでは完璧な側近候補の顔だったはずだ。
しかし、報告が一段落した瞬間、俺の脳裏に、先ほどまで上着の中に収まっていた「あの感覚」が鮮烈に蘇ってしまった。
一度決壊した妄想のダムは止まらない。仕事モードの仮面が2人になった途端に剥がれ落ちる。
「……事件は、その最中に起こりました…! 実際は鳥どころじゃなかったんすよ!!」
「おや、公務より重大な事態かい?」
殿下は楽しげに眉を上げた。俺は自分の上着の胸元を両手でギュッと掴み、顔を真っ赤にして身を乗り出す。
「実は… 鳥から守るために、俺はエレオノーラ様をこの上着の中に抱き込んだんすけど……!」
「ほう。ついに本物に手を出したか」
「手を出したとは人聞きが悪いっすよ!」
殿下の瞳が、好奇心にキラリと輝いた。
「本物の破壊力は生易しいもんじゃなかった! クッションじゃ再現不可能な感覚が、ダイレクトに俺の胸で感じました!! 密着した瞬間の、あの、こう……フワッとしつつも、確かな重み!! 更には俺を見上げる潤んだ美しい瞳。あれは……あれは、ダメなやつでした……!揉まなかった俺を褒めてほしいくらいのやつでした」
「揉まないのが当たり前なのに揉まなかったことを褒めてほしい程なのか」
掌に残る彼女の背中を支えた感触がまだ熱く感じられる。
「……興味深い。クッションによる検証では、我々は『柔らかさ』と『反発力』の再現には成功したが、君が言う感覚については未知の領域だ。」
殿下は深く考える素振りを見せる。
「どのように再現するかだが……流石にエレオノーラ嬢を呼ぶわけにはいかない。聖女以外の女性をこの胸に収めるなど私の理念に反する」
「呼ぶと言っても止めますよ?」
二人で腕を組み、執務室で深刻な沈黙に陥った。




