『魔術師少女の地下労働』
地下室の空気は、湿った土の匂いと、どこか甘ったるい腐敗の匂いが混じり合っている。
鉄格子の下部にある小さな受け渡し口に、今日も水の入った金属製のコップと、カビの生えかけたパン一切れが置かれている。
誰が持ってきたのかは分からない。私が目を覚ますと、いつもそこにある。
私は震える手で、木箱の中に並んだ「マジカルマッシュルーム」に霧吹きで水をかけた。
それは、この国で最も忌まわしく、そして最も魅惑的な禁忌。
「……あと、10年」
壁に貼られた契約書には、そう書かれている。
10年間、ここでキノコを育て続ければ、借金は帳消しになる、と。
魔法学校で借りた奨学金は、私が卒業後すぐに仕事を失ったことで返済不能になった。
そして気づいたときには、人身売買まがいの契約書にサインをさせられ、鉄格子に囲まれた地下室に放り込まれていた。
隅には、排泄物を溜めたバケツが悪臭を放っている。
時々、誰かが育ったキノコを回収していく。その際に、ついでのようにバケツが交換される。
それが私に許された唯一の「外界との接点」だ。
私は懐から一本の杖を取り出した。
かつて魔法学校に通っていた頃の、手垢で汚れた古びた杖だ。
このキノコの栽培には、適切な湿度と同じくらい、継続的な「魔力」の供給が欠かせない。
もし私が魔力注入を怠れば、翌日のパンは来ない。それだけは、何度か試して分かった。
私は杖の先を、まだ小さく瑞々しいキノコの傘に向けた。
意識を集中し、自分の奥底にある魔力の溜まり場から、細い糸を紡ぎ出すように力を引き出す。
「……っ、はぁ……っ」
心臓を直接掴まれたような、嫌な重みが胸を走る。
杖の先から、粘り気のある青白い光が滴り落ち、キノコの胞子に吸い込まれていった。
魔力を吸うたび、キノコたちは歓喜に震えるように脈打ち、その紫色の肌をより一層どす黒く、艶やかに変えていく。
私の生命力を啜り、彼らは毒としての完成度を高めていくのだ。
栽培の過程で飛散する胞子は、注ぎ込んだ魔力と混ざり合い、確実に私の精神を蝕んでいく。
ふと、視界が歪んだ。
魔力を注ぎ終えたばかりの鈍い紫色のキノコたちが、まるで呼吸をするように大きく膨らみ始める。
傘の裏側から、ダイヤモンドを砕いて振りまいたような、微細な光の粒が溢れ出した。
それは胞子などではなく、形を得た「純粋な魔力の欠片」だ。
光の粒は重力を無視して宙に浮き、ゆっくりと渦を巻く。
私が指を伸ばすと、光は私の指先にまとわりつき、小さな超新星のように弾けた。
「あぁ……なんて、綺麗なの……」
壁のひび割れからは、黄金の液体が蜜のように滴り落ち、床に触れた瞬間に光り輝く睡蓮の花を咲かせる。
地下室の冷たい石壁は、いつの間にか夜空のような深い紺碧へと変わり、そこには見たこともない星座が、鈴の音のような澄んだ音色を奏でながら回っていた。
鉄格子が溶けて、透き通った水晶の柱に変わる。
隅のバケツは、真珠を敷き詰めた宝箱へと姿を変えた。
カビの生えたパンは、銀の皿に盛られた満月のように白く輝くケーキになる。
私の中にある残りの魔力が、キノコの放つ毒素に呼応して異常に活性化していく。
心臓の鼓動ひとつひとつが、虹色の波紋となって空間を伝わっていくのが見えた。
自分の血管の中を流れる血が、溶けたサファイアのように青白く発光しているのが、皮膚越しにはっきりと分かる。
視界の端では、空中に浮かぶ幾何学模様の魔法陣が、万華鏡のように形を変えながら増殖していく。
それは実技試験で必死に練習した、どの基礎魔法よりも複雑で、残酷なほどに完璧な美しさを持っていた。
「これなら……どんな魔法だって、使える気がする」
杖を軽く振るだけで、何もない空間からプリズムの蝶が群れをなして飛び出し、地下室を極彩色の嵐で埋め尽くした。
蝶の羽が触れるたび、私の肌には冷たく心地よい痺れが走る。
私は自由だ。私は完璧だ。私はどこへでも行ける。
この輝きこそが、私のすべて。
この美しさこそが、私の世界。
もう何も要らない。
カビたパンも、冷たい水も、10年後の自由も。
ただこの光の中にいられるなら、それでいい——
……しかし、その輝きは長くは続かない。
私が恍惚とした表情で虚空を掴もうとした瞬間、視界を埋め尽くしていた光の蝶たちが、一斉に砕け散った。
キン、という鋭い耳鳴り。
次の瞬間、目の前にあったのは、元の薄暗く汚れた地下室だった。
光り輝く睡蓮も、黄金の蜜も、水晶の柱もありはしない。
ただ、カビの生えた石壁と、冷たい鉄格子と、悪臭を放つバケツ。
そして、毒々しい紫色のキノコが並ぶ木箱があるだけ。
杖を握る指先からは魔力が完全に枯渇し、ひどい寒気が私を襲った。
幻覚の中で見た「自由な自分」はどこにもいない。
残されたのは、違法薬物を育てることでしか生き長らえられない、檻の中の震える一人の少女だけだ。
私は這いつくばるようにして霧吹きを拾い上げ、再びキノコに水をかけた。
床に転がったパンの欠片を拾い、口に運ぶ。
カビの苦味が舌に広がる。
それでも、明日も私はここで杖を振る。
またあの光を見るために。
またあの世界に還るために。
瞳の奥には、まだ消え残った虹色の残像が、呪いのようにキラキラと、虚しく瞬いていた。




