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マチアプで出会った彼の話。

作者: 文月ナオ
掲載日:2026/02/07

 

「別れたいんだけど」


 私がそう告げたとき、元カレの健太(けんた)はスマホの画面から視線を外さずに「は?」と言った。


 スマホを動かす指を止めず、ただ面倒くさそうに眉をひそめただけだった。


「なんだよ急に。生理? またヒステリー?」


 その言葉を聞いた瞬間、私の中で張り詰めていた糸が、音もなくプツンと切れた。


 怒りとか、悲しみとか、そういう激しい感情じゃない。


 ただ、心の底から「ああ、もう無理だ」という諦めだけが広がっていった。


 私の視線の先には、冷蔵庫がある。


 さっき、夕飯の支度をしようと思って開けた冷蔵庫。


 その一番上の棚に、それは鎮座していた。


 納豆の帯だ。


 あの、3パックセットの納豆を束ねている、透明でペラペラしたビニールの帯。


 中身の納豆パックはもうない。


 健太が朝ごはんに食べたからだ。


 彼は、納豆のパックだけを取り出し、残ったゴミである帯だけを、冷蔵庫の中に残して扉を閉めた。


 ゴミ箱、横にあるのにね。


誰か()」が捨てるだろうと気にもとめない。


 その隣には、空っぽになった卵のパックも置いてある。


 最後の一個を使ったのに、プラスチックの容器だけがご丁寧に冷気の中に残されている。


 まるで、中身が入っているかのような顔をして。


「……納豆の帯」


「あ?」


「冷蔵庫に、納豆の帯と、空の卵パックが入ってる」


「だから何だよ。あとで捨てようと思ってたんだよ。お前ってほんと細かいよな」


 健太はため息をつき、ようやくスマホをテーブルに置いた。


 細かい。


 そう、彼はいつもそう言う。


 私が小言を言うたびに、「細かい」「神経質」「生理か」「俺がやろうと思ってたのに」と。


 でも、その「あとで」が訪れたことなんて、付き合って三年、同棲して一年の間に一度もなかった。


 私は、キッチンのシンクに目を向ける。


 そこには、朝、彼が食べた納豆ご飯の茶碗と、卵の殻、昨日の夜に彼が飲んだビールの空き缶が置かれている。


 昨日の夜のことを思い出す。


 仕事で疲れて帰ってきた私を見て、ソファでゲームをしていた彼はこう言った。


『洗い物、やろっか?』


 その言葉だけを聞けば、優しい彼氏かもしれない。


 でも、その時の彼は、視線をテレビに向けたまま、手元のコントローラーをカチャカチャと動かしていた。


 腰を上げる気配なんて微塵もない。


 それは、「やる気はないけど、一応聞いたという既成事実」を作るためだけの言葉だ。


 もし私が「お願い」と言えば、彼は「えー、今いいところなのに」と不機嫌になるか、「このステージ終わってからね」と言って、一時間も二時間も放置するだろう。


 結局、汚れた食器がシンクにあるストレスに耐えきれず、私が洗うことになる。


 それを分かっていて、彼は聞く。


 その言葉は、優しさじゃなくて、呪いだった。


 私が「ううん、いいよ。私がやるから。気を使ってくれてありがとう」と答えるのを待っている、卑怯な確認作業。


 私がそう答えると、彼は間髪入れずに「あ、そう? 悪いねー」と言って、罪悪感のかけらもなくゲームに没頭する。


 洗面所だってそうだ。


 今朝、顔を洗おうとした私は、またあのため息をついた。


 真っ白な陶器のボウルに、黒い点々がびっしりと張り付いていたからだ。


 彼が髭を剃った跡。


 剃った髭を水で流したつもりなんだろうけど、全然流れていない。


 本人は「ジャーって流したし、綺麗になったっしょ」と思っているのだろうか。


 でも、実際には、短い髭の残骸が、乾燥してへばりついている。


 その黒い点々を見るたびに、私は思う。


(……これ、誰が掃除すんの? 私でしょ?)


(お前は私と暮らしてるんじゃない。スマホと暮らしてて、私はただの便利な家政婦ってか?)


 トイレに入れば、トイレットペーパーのホルダーには、5センチくらい残った紙がついた芯だけが虚しく残されている。


 予備のペーパーは、便座に座ったままでは届かない上の棚にある。


 彼はさっき、ここに入っていたはずだ。


 絶対に、紙が切れたことに気づいていたはずだ。


 でも、彼は「替える手間」を惜しんで出て行った。


次の人()が困る」という想像力すら欠如しているのかもしれない。


「ねえ、健太」


「なんだよ、話ってそれだけかよ。俺、これから出かけるんだけど」


 健太が不機嫌そうに立ち上がる。


 新しい服に着替えている。


 香水の匂いがした。


「誰と?」


「地元のツレ。飲み会」


「……女の子、いるんでしょ」


「はあ? またそれ? お前さぁ、束縛激しすぎ。ツレの集まりに女がいるかどうかなんて関係ねーだろ。ただの付き合いだって言ってんじゃん」


 彼は呆れたように肩をすくめる。


 自分は平気で異性のいる飲み会に行くくせに、私が職場の同僚(男含む)とランチに行くだけで、「男いるの? は? ありえねー」と不機嫌になるのに?


 自分は良くて、私は駄目。


 家事は私がやるのが当たり前で、彼がやるときは「あれやったけど」「これやっといたから」とわざわざ報告し、「手伝ってやった」という感謝を強要される。


 ああ、もう。


 本当に、限界だ。


 冷蔵庫の納豆の帯が、決定打だったなんて笑い話にもならないけど。


 でも、あのペラペラのゴミが、私の中の彼への情を、完全に遮断してしまった。


「もういいよ」


「は? 何が」


「私、あんたの家政婦じゃないから」


「……おい、待てよ。何キレてんだよ。納豆のゴミくらいで」


「納豆のゴミくらい捨てられない人と、これからの人生一緒にいたくないって言ってんだけど」


 私は寝室に行き、クローゼットから自分のスーツケースを引っ張り出した。


 健太が慌てて追いかけてくる。


「おい、冗談だろ? 悪かったって。捨てるよ、今すぐ捨てるからさ!」


「もう遅い」


「なんでだよ! 俺ら、結婚の話だって出てたじゃんか!」


「あんたが結婚したいのは、私じゃなくて、文句言わずに片付けをしてくれるママでしょ」


 私は必要な荷物だけを詰め込むと、呆然と立ち尽くす健太を残して、玄関のドアを開けた。


「鍵、置いとくから。さよなら」


 バタン、と閉まったドアの向こうで、何かを叫ぶ声が聞こえたけれど、私は振り返らなかった。


 涙なんか出るはずもない。


 むしろ、代わりに感じたのは、重たい荷物をようやく下ろせたときのような、圧倒的な開放感だった。




 ◇◆◇





「で、別れたってわけか。あいつと。……(あおい)、あんたそれ、正解」


 カフェのテラス席で、親友の(あや)がアイスコーヒーをかき混ぜながら言った。


「うん。まあ、納豆の帯が決め手になったとかあんまり言いたくないけど」


「いや、わかるよ。そういうのって積み重ねだからね。むしろ、よく一年も同棲したよ。私なら髭の剃り残しを見た瞬間に顔面にハイターぶっかけてるわ」


「過激すぎでしょ」


 私は苦笑いしながら、紅茶を一口飲む。


 実家に戻って二ヶ月。


 一人の生活は、驚くほど快適だった。


 洗面所はいつもピカピカだし、トイレットペーパーが芯のまま放置されていることもない。


 冷蔵庫を開けて、ゴミが入っていることもない。


 ただ、ふとした瞬間に寂しさが込み上げてくるのも事実だった。


 三十路手前での破局。


 周りは結婚ラッシュ。


 焦りがないと言えば嘘になる。


「でもさ、葵も今が脂ノリノリのいい時期なんだし、切り替えて超早めのリハビリ始めたら?」


「リハビリ?」


「男だよ、男。このまま枯れていくのはもったいないって」


「うーん……でも、もう合コンとか疲れたし、職場は既婚者ばっかりだし」


「だからこそ、文明の利器を使うのよ」


 彩がニヤリと笑って、スマホを取り出した。


「マッチングアプリ」


「えー……マチアプ? なんか怖いイメージあるんだけど。ヤリモクとか多そうだし」


「偏見だって。私の先輩、これで結婚したよ? ちゃんと見極めれば、普通のいい人いっぱいいるから。……まあ、ヤリモクもいっぱいいるけど」


 彩の猛プッシュに押される形で、私はその場でアプリをインストールすることになった。


 プロフィール写真は、顔がはっきり映っていない、後ろ姿の雰囲気重視のものを選んだ。


 自己紹介文も、彩に添削してもらいながら入力する。


『真剣なお付き合いができる方を探しています。カフェ巡りと映画鑑賞が好きです』


 当たり障りのない文章。


 登録してすぐに、たくさんの「いいね」が届いた。


 中には、明らかに加工しまくった自撮り写真のチャラそうな男や、「すぐに会いたいです」とメッセージを送ってくる怪しい人もいたけれど、私は慎重に選別していった。


 条件は、年収とか顔とか、そういうスペックじゃない。


 優しそうで、常識があって、ちゃんと「生活」をしている人。


 何人かとメッセージのやり取りをして、実際に会ってみたりもした。


 でも、やっぱり変な人が多いのは事実。


 会った瞬間に「ホテル行かない?」と誘ってくる人や、お酒を強引に勧めて酔わせようとしてくる人。


「あー……やっぱり、ネットの出会いなんてこんなもんか」


 心が折れかけていた時、一人の男性とマッチングした。


 名前は、田中(たなか)


 プロフィール写真は、旅行先で撮ったと思われる風景画で、顔は分からない。


 ただ、自己紹介文がとても丁寧だった。


『はじめまして。都内で会社員をしています。仕事が落ち着いたので、将来を見据えたお付き合いができる方を探して登録しました。趣味は料理と、休日の散歩です。ワインが好きですが、詳しくはありません』


 派手さはないけれど、誠実そうな文章。


 メッセージのやり取りも、ガツガツしていなかった。


『今日もお疲れ様です。急に寒くなりましたが、体調崩されていませんか?』


『お仕事、大変そうですね。無理しないでくださいね』


 私の返信ペースに合わせてくれるし、すぐに「会おう」とは言ってこない。


 二週間ほどメッセージを続けて、自然な流れで「一度、お茶でもしませんか」という話になった。


 指定された場所は、新宿の『HARBS』だった。


 私のプロフィールに「甘いものが好き」と書いてあったのを覚えていてくれたらしい。




 ◇◆◇




 当日。


 待ち合わせ場所に現れた田中さんは、写真がないから不安だったけれど、驚くほど「普通」の男性だった。


 特別イケメンというわけではないけれど、清潔感のある服装で、髪も綺麗に整えられている。


 身長は167センチの私より少し高いくらい。


 優しそうな垂れ目が印象的だった。


「はじめまして。田中です」


「あ、はじめまして。ミカンです」


「ミカンさんですね。イメージ通りの、柔らかい雰囲気の方で安心しました」


 彼は照れくさそうに笑った。


 その笑顔を見て、私は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


 お店に入り、ショーケースに並ぶ大きなケーキを見て、私たちはどれにするか迷った。


「やっぱり、ミルクレープですかね」


「あ、私もそれが気になってて……有名ですよね、ここのミルクレープ。でも、このストロベリームースも美味しそう」


「じゃあ、僕はムースにするので、よかったらシェアしませんか? あ、嫌じゃなければですけど」


「いえ! 嬉しいです」


 席につき、飲み物を注文する。


「僕はアールグレイにします。ミカンさんは?」


「あ、私も紅茶で……」


「コーヒーは苦手って書いてありましたもんね」


「えっ……覚えててくださったんですか?」


「はい。プロフィール、何度も読み返したので」


 彼はサラッと言ってから、「あ、なんかストーカーみたいで気持ち悪いですね、すみません」と慌てて顔を赤くした。


 その様子が、何だか可愛らしくて、私は思わず吹き出してしまった。


 ケーキを食べながらの会話も弾んだ。


 仕事の話、趣味の話。


 彼は聞き上手で、私の拙い話を楽しそうに聞いてくれる。


 元カレのように、スマホをいじりながら生返事をすることもない。


 店を出た後、私たちは少し歩くことにした。


「あ、猫」


 ふと、路地裏の看板が目に入った。


 猫カフェの看板だ。


 可愛い猫の写真に、私は思わず足を止める。


「猫、好きなんですか?」


「はい! 実家でも飼ってたので……あ、すみません。急に立ち止まって」


「いえいえ。……よかったら、寄っていきますか?」


「え? でも、田中さんは……」


「僕も動物全般好きなんです。行きましょう」


 吸い寄せられるように入った猫カフェで、私は彼の意外な一面を見ることになった。


 猫たちが、やたらと彼に懐くのだ。


 彼がソファに座った瞬間、膝の上に二匹、肩に一匹、足元に一匹と、猫たちが集まってくる。


 『猫様へのご褒美』として受付で売られていたちゅーるを私も持っているというのに、この差は一体?


「ええっ、すごい! 田中さん、マタタビでも隠し持ってるんですか?」


「いやぁ……どうなんでしょう。昔から、動物には好かれるんですよね」


 彼は困ったように笑いながら、膝の上の猫を優しく撫でている。


 その手つきが、とても慣れていて、優しい。


 猫は正直だ。


 嫌な匂いのする人や、乱暴な人には絶対に近寄らない。


 猫に好かれる人に、悪い人はいない。


 私の勝手な持論だけど、この時の光景は、彼への信頼度を一気に押し上げるのに十分だった。



 ◇◆◇



 結局、猫カフェで癒やされた私たちは、そのままの流れで夕食も一緒に食べることになった。


 イタリアンのお店でも、彼は私のペースに合わせてくれた。


「お飲み物はいかがなさいますか?」


 店員さんが開いてくれたメニューにはアルコールばかりだった。


「あの、ノンアルとかソフトドリンクってありますか?」


 田中さんがたずねた。


 店員さんは「ございますよ」と別のメニューを差し出し、田中さんはそれを受け取って私に見せた。


「えっ?」


「え?」


 私が驚き、田中さんが驚く。


「いえ……田中さん、ワインがお好きだとプロフィールに書かれていたので……」


「あー……なんか、今日はソフトドリンクの気分なんですよね」


 私は思い出した。


 あまりにも、お酒ばかりを勧めてくる男が多すぎて、酔わせようとする男が多すぎて、私はプロフィールに「お酒が苦手です」と書いていたことを。


(もしかして……私に合わせてくれてる……?)


「あ……じゃあえっと、私はこのノンアルカシオレで」


「じゃあ同じものをふたつ」


 ……この人は、信じられる気がする。


 私は、チョロいんだろうか?


 料理も美味しくて、話も弾んだ。


 隣の席の酔っ払ったおじさんが部下に娘の愚痴を言いまくっているのを二人でこっそり聞いて、くすくすと笑っていた。


 田中さんは、終電よりもずっと早い時間に解散を提案してくれた。


「今日はありがとうございました。とても楽しかったです」


 駅の改札前で、彼は深々と頭を下げた。


「こちらこそ! ケーキもご馳走になっちゃって……」


「いえ、僕が誘ったので。……あの、もしよかったら、また会っていただけますか?」


 真っ直ぐな瞳。


 私は迷わず「はい」と答えた。



 ◇◆◇



 それから、私たちは何度かデートを重ねた。


 映画を観に行ったり、水族館に行ったり。


 会うたびに、彼の色々な面を知った。


 彼は決して「俺についてこい」というタイプではないけれど、さりげなく車道側を歩いてくれたり、重い荷物を持ってくれたりと、細やかな気遣いができる人だった。


 三回目のデートの帰り道。


 夜の公園で、彼から「結婚を前提にお付き合いしてください」と告白された。


 私は、元カレとの酷い同棲生活のトラウマがあったから、少しだけ迷ったけれど、彼なら大丈夫かもしれないと思って頷いた。


 付き合い始めて一ヶ月が経った頃。


 私は、彼の家にお泊まりすることになった。


 待ち合わせ場所に私が少し早く着いて待っていると、知らない男性二人組に声をかけられた。


「ねーお姉さん、一人? 今から俺らと飲まない?」


「待ち合わせなんで」


「えー、いいじゃん。相手来るまででいいからさー」


 一人が私の腕を掴もうとしてくる。


 うわ、面倒くさい。


「彼氏いるんで。無理です」


 私が強めに拒絶すると、男は「彼氏持ちかよ。つまんねー」と吐き捨てて、別の女性の元へ去っていった。


 ため息をついていると、向こうから彼が小走りでやってくるのが見えた。


「葵、ごめん、待たせた?」


「ううん、大丈夫。今着いたところ」


 彼は、少し息を切らしながら、私の顔と、さっき男たちが去っていった方向を交互に見た。


「……今の、知り合い?」


「ううん。道を聞かれただけだよ」


 私は余計な心配をかけたくなくて、とっさに嘘をついた。


 ナンパされたなんて言ったら、また元カレみたいに「お前が隙を見せるからだ」とか怒られるかもしれないと思ったから。


「そっか……」


 彼はそれ以上追求せず、私の隣に並んだ。


 そして、そっと私の手を握った。


 いつもより、少しだけ力が強い。


 ギュッ、と。


 まるで、誰にも渡さないと主張するかのような強さ。


 私は驚いて彼の方を見た。


 彼は前を向いたままだったけれど、耳が少し赤くなっている気がした。


(もしかして……ちょっと妬いてる?)


 温厚な彼にも、こういう独占欲みたいな感情があるんだ。


 元カレの束縛は鬱陶しいだけだったのに、彼のこの無言の嫉妬は、なんだか胸がキュンとした。


 大切にされている感じがしたからかもしれない。


「行こうか」


「うん」


 私たちは手を繋いだまま、彼のマンションへと向かった。


 彼の部屋は、シンプルだけど綺麗に片付いていた。


 モデルルームみたいに生活感がないわけじゃなく、清潔な中にも、ちゃんと暮らしている温かみがあった。




 ◇◆◇




 付き合って一ヶ月、彼の部屋にお泊まりするということは、まあ、そういうことなわけで。


 彼はベッドの上でも優しくて、常に私のことを気遣ってくれた。


 元カレとの自分本位な行為とは、何もかもが違っていて、そのギャップに驚いた。


 愛のある行為というのは、こういう事を言うんだなと。


 翌朝になってふと目が覚めると、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。


 隣を見ると、彼が起きていて、横向きになって私の顔を見ていた。


「……あ」


「おはよう、葵」


 彼は優しく微笑んで、私の髪を撫でた。


「お、おはよう……いつから起きてたの?」


「んー、ちょっと前かな。寝顔が可愛くて、起こすのがもったいなかったから」


 私はカッと顔が熱くなるのを感じた。


 寝起きのむくんだ顔を見られていたなんて。


 でも、彼の瞳はとても優しくて、私は布団を頭までかぶりたくなった。


「起きよっか」


 私たちは二人で洗面所に向かった。


 私は少し身構えた。


 男の人の一人暮らしの洗面所。


 あの惨状がフラッシュバックする。


 剃り残しの髭、飛び散った水垢、カビた歯ブラシ立て。


 でも、彼の洗面所は、ピカピカだった。


 鏡に曇り一つない。


 ボウルも真っ白で、髪の毛一本落ちてない。


 彼は自分の歯ブラシを取り出しながら、私に新しい歯ブラシを渡してくれた。


「これ、使って」


「ありがとう」


 並んで歯を磨く。


 鏡に映る二人の姿が、なんだか新婚さんみたいで、こそばゆい。


 彼が口をゆすぐ。


 その直後、彼はサッと横にあった小さなタオルで、蛇口周りとボウルに飛んだ水滴を拭き取った。


 あまりにも自然な動作だった。


 無意識の習慣。


 元カレが三年かかっても一度もやらなかったことを、彼は呼吸をするようにやってのけた。


「どうかした?」


 私の視線に気づいて、彼が首を傾げる。


「ううん……綺麗好きだなって思って」


「そんなことないよ。ついでだよ、ついで」


 彼は恥ずかしそうに笑った。


 リビングに戻ると、いい香りが漂っていた。


 テーブルの上には、湯気の立つマグカップと、朝食が用意されていた。


 厚切りのトースト、ふわふわのスクランブルエッグ、彩りの良いミニサラダ、そしてウインナー。


「えっ……これ」


「あ、ごめん。勝手に作っちゃった。朝だから、食べられる分だけ食べてくれればいいよ」


 私はマグカップを手に取る。


 華やかな茶葉の香り。


 紅茶だ。


 私がコーヒーを苦手なのを覚えていて、わざわざ紅茶を淹れてくれたんだ。


 一口飲むと、温かさが体に染み渡る。


「……美味しい」


「よかった」


「でも、いつの間に? 私、寝てたのに」


 スクランブルエッグはまだ温かい。


 サラダの野菜もシャキシャキしている。


 結構、手間がかかっているはずだ。


「ちょっと早起きしちゃったから、その間に作ったんだ」


「え、じゃあ……」


 私は気づいてしまった。


 彼は私よりずっと早く起きて、キッチンで音を立てないように朝食を作り、紅茶を淹れて。


 それから、私が起きるまでの間、私が寂しくないように、またベッドに戻って隣に寝転んでくれていたということだ。


 わざわざ、「俺が作ったんだぞ」とアピールすることもなく。


 ただ、私が目覚めたときに隣にいるために。


「……」


「ん? どうしたの? 卵、焼きすぎだった?」


 心配そうに顔を覗き込んでくる彼を見て、私は胸がいっぱいになった。


 この人は、本物だ。


 スペックとか、顔とか、そういうものじゃない。


 生活能力と、相手を思いやる想像力が、とてつもなく高い人なんだ。


「ううん、すごく美味しそう。ありがとう」


 私は涙が出そうになるのを誤魔化して、トーストを齧った。


 サクッとした食感とともに、バターの香りが広がる。


 元カレとの生活で擦り切れていた私の心が、彼の何気ない優しさで、少しずつ修復されていくのが分かった。




 ◇◆◇





 彼と付き合って半年。


 私たちは、ごく自然な流れで同棲をすることになった。


 週末会うだけじゃ物足りなくなっていたから。


 二人で選んだ2LDKのアパート。


 引越しの荷解きが一段落した夜、私は彼に提案した。


「ねえ、家事のことなんだけど」


「ん? どうしたの?」


「私、前の同棲で失敗してるから……今回はちゃんとルールを決めたいんだよね。公平に、当番制にしない?」


 私は真剣だった。


 なぁなぁにして、どちらか一方に負担が偏るのが一番良くない。


 それは元カレとの生活で、骨身に沁みて分かっていることだから。


 けれど、彼はきょとんとした顔をして、それから悪戯っぽく笑った。


「当番制かぁ。悪くないけど、それだとちょっと面白くないかな」


「面白くない?」


「うん。せっかくだし、ゲームで決めない? 勝った方が家事免除権を獲得できる、とか」


「ゲームって……何で?」


「マリオカート」


 彼はテレビ台の下から、ゲーム機を取り出した。


 自信満々の顔だ。


 でも、私は知っている。


 彼がゲーム全般をあまり得意としていないことを。


「いいよ。負けないからね」


 こうして始まった「家事免除カップ」だったけれど、結果は火を見るより明らかだった。


 彼は、絶望的に弱かった。


 カーブで壁にぶつかり、アイテムの使いどころを間違え、最後は逆走しかける始末。


 彼は、毎日負け続けた。


「あーっ、また負けたー」


 彼はコントローラーを置いて、大げさに悔しがってみせた。


「じゃあ、今日の皿洗いは僕ってことで」


 彼は鼻歌交じりでキッチンへ向かおうとする。


 私は、その後ろ姿を呼び止めた。


「ちょっと待って」


「ん?」


「わざとでしょ」


「え? 何が?」


「さっき、キノコ持ってたのに使わなかった。使えば追い抜けたのに」


 私が指摘すると、彼は「バレた?」と少しだけ舌を出した。


「だって、葵、仕事忙しそうだったから。家事くらいサボらせてあげたいなって」


「……そんなの、公平じゃないよ」


「公平だよ。僕が勝負に弱かった、それだけの話。キノコだってここぞって時に使おうと思って温存してただけだし」


 彼は優しく微笑んで、私の頭をポンポンと撫でた。


 結局、彼のその優しさに甘えるのは良くないと思って、私は強引に当番制に戻すことを提案した。


 彼は渋々承諾してくれたけれど、ここでもまた、私は彼の「凄さ」を見せつけられることになった。


 ある日、私が当番の日。


 少し残業になってしまって、急いでスーパーで買い物を済ませて帰宅すると、部屋の中からいい匂いが漂っていた。


「おかえり〜」


 エプロン姿の彼が、玄関まで出迎えてくれた。


「ただいま……って、あれ? 今日、私のご飯当番だよね?」


「うん。でも、僕の仕事が定時で終わっちゃってさ。暇だったから作っといた」


「えっ、でも……」


「まあまあ、いいから。好きでやっただけだから。ほら、手洗ってきて。ハンバーグ、冷めちゃうよ」


 食卓には、私の大好物の煮込みハンバーグが並んでいた。


 後で知ったことだけれど、彼はその日、私が残業になることをLINEの返信の遅さで察して、自分の仕事を猛スピードで片付けて帰ってきてくれたらしい。


 自分の担当じゃない日でも、私が疲れていれば代わってくれる。


 しかも、「やってあげた」という恩着せがましさは一切ない。


「暇だったから」


「好きでやってるだけ」


 そう言って笑う彼のスマートさに、私は毎日、心を撃ち抜かれっぱなしだった。




 ◇◆◇




 そんなある日のこと。


 女性特有の、あの日がやってきた。


 私はいつも重めなんだけど、今回は特に重かった。


 朝からお腹の奥がズーンと鉛のように重く、腰が砕けそうに痛い。


 貧血のような目眩もして、ベッドから起き上がれなくなってしまった。


「うぅ……」


 布団の中で丸まっていると、心配そうな顔をした彼が寝室に入ってきた。


「葵、大丈夫? 顔色悪いよ」


「ごめん……今日、ちょっとあの日で……」


「ああ、そっか……」


 彼はすぐに状況を理解してくれた。


 そして、何も言わずにリビングに戻り、しばらくしてから温かいココアと、湯たんぽを持って戻ってきた。


「これ、お腹に当ててみて。少しは楽になるかも」


「ありがとう……」


 彼はベッドサイドに腰掛けると、布団の上から私の腰のあたりに手を添えた。


「さすってもいい? 嫌だったらすぐにやめるから、言って」


「……ううん。お願いしてもいい?」


「おっけー」


 彼の大きく温かい手が、ゆっくりと私の背中から腰にかけてを撫でる。


 一定のリズム。


 じんわりとした体温。


 それは、まるで魔法の手だった。


 カイロや湯たんぽとは違う、人肌の安心感。


 彼の手が触れる場所から、凝り固まっていた痛みが少しずつ溶けていくような感覚がした。


「痛みも半分ずつにできればいいのに」


 彼が小さな声でボソッと呟くのが聞こえて、私は痛みに耐えながらも、ふふっと笑ってしまった。


「ふっ、なにそれ?」


「ごめんごめん、でも、代わってあげられないのが悔しいからさ」


 彼は真剣な顔でそう言った。


 その言葉だけで、十分だった。


 元カレは、私が生理痛で寝込んでいると、「また? 病気じゃないんだから動けよ」と不機嫌そうに言い放った。


 自分の飯はどうするんだ、と文句を言われたこともある。


 でも、彼は違う。


 私が弱っている時、彼は全力で寄り添ってくれる。


 言葉よりも、その温かい手が、彼の愛情を雄弁に物語っていた。


 結局、彼の手の温かさに包まれて、私はいつの間にか深い眠りに落ちていた。




 ◇◆◇




 季節が巡り、秋になった頃。


 私たちは休日デートで、少し遠くのショッピングモールに来ていた。


 彼の冬物のコートを選んで、私のブーツを見て、最後に夕飯の食材を買う。


 何気ない日常の幸せを噛み締めながら歩いていると、前方から見覚えのあるシルエットが歩いてくるのが見えた。


 心臓がドクンと跳ねる。


 少し猫背で、不機嫌そうに歩くその姿。


 元カレの健太だった。


 目が合った瞬間、向こうも私に気づいたようだった。


「……あ? 葵?」


 マジで最悪。


 こんなところで会うなんて。


 近づいてきた健太は、ブランドもののロゴが入ったシャツを着ていた。


 でも、その裾や脇には、無数のシワがくっきりと残っている。


 きっと、脱いだあとハンガーにもかけずに床に放置していたやつを、そのまま着てきたんだろう。


 距離が縮まると、ツンとした香水の匂いがした。


 けれど、その奥に生乾きの雑巾のような嫌な匂いと、体臭が混じっているのに気づいてしまった。


 洗濯機の中に長時間放置してしまった時の、あの匂いだ。


 本人は香水で誤魔化せているつもりなんだろうか。


 私は生理的な嫌悪感を覚え、彼と繋いでいた手を、反射的にギュッと握りしめた。


 隣にいる彼は、「どうしたの?」と不思議そうに私を見ている。


 健太がズカズカと近づいてきた。


「よお。久しぶりじゃん。こんなとこで何してんの?」


 相変わらずの、人を小馬鹿にしたような態度。


「買い物だけど。……何か用?」


「用ってほどじゃねーけどさ。お前、今一人? それとも、そこのヒョロいのが新しい彼氏?」


 健太が、品定めをするような目で彼をジロジロと見た。


 彼は、両手に買い物袋(ネギが飛び出している)を持ったまま、穏やかに微笑んだ。


「はじめまして。葵さんの恋人の田中と申します」


「へえー、田中。ふーん」


 健太は鼻で笑った。


「お前さ、俺と別れて選んだのがソレ? なんかパッとしないじゃん。田中くんもさぁ、買い物袋なんか持たされて、尻に敷かれてんの?」


「……あんたさ、何が言いたいの?」


 私が低い声で遮ると、健太はニヤニヤしながら言った。


「いや? お前、俺んとこ戻ってきてもいいぜって話。部屋、散らかっててさー。お前がいなくなってから、どこに何があるか分かんなくて不便なんだよ。俺も反省してやってもいいし?」


 反省してやってもいい。


 どこまでも上から目線。


 そして、自分の不便さを解消するためだけに復縁を迫る厚かましさ。


 怒りを通り越して、呆れてしまった。


 私が口を開こうとした時、彼が一歩前に出た。


「あの」


 穏やかだけど、芯の通った声だった。


「やめてもらえます?」


「あ?」


「僕の彼女なんで。つべこべ言うのやめてくださいよ」


「はあ? 俺はこいつの元カレ。お前何年付き合ってんの? 俺は三年付き合ったけど」


「今彼女に幸せにしてもらってるのは僕なんで」


「言うじゃん、田中。俺お前嫌いだわ」


「それと、部屋が散らかっているなら、ご自分で片付ければいいのでは? 彼女は、あなたの世話をするために生きているわけじゃない」


 彼の言葉に、健太が顔を赤くして凄んだ。


「お前さぁ! 部外者が口出しすんな! 俺と葵の間にはな、長い歴史があんだよ!」


「……部外者はあなたでしょ」


「は……?」


「僕は葵と結婚するんで。僕らの人生に、部外者が口を挟まないでもらえますか? 行こ、葵」


 彼は、健太に背を向け、私の肩を抱いた。


 その力強さに、私は守られていると感じた。


「おい待てよ! 葵! お前も何か言えよ!」


 健太が私の腕を掴もうとする。


 私はその手を振り払って、真っ直ぐに彼の目を見据えた。


「あんたさ、ウザいよ」


「は?」


「私、あんたみたいなのとは生きる世界が違うから」


「……は? 何言ってんだお前」


「あんたは一生、冷蔵庫の中に納豆の帯溜め込んでれば?」


 健太がポカンと口を開けている。


 自分が振られた理由が、未だに理解できていない顔だ。


 私は、隣にいる彼を見上げた。


「今の彼はね、言わなくても分かってくれる人なの。私が寝ている間に朝ごはんを作ってくれて、生理の時は一晩中腰をさすってくれて、家事はゲームで負けたフリをしてまで代わろうとしてくれる人なの」


「な……」


「比べるのも失礼なくらい、素敵な人だから。あんたなんかが、人生やり直したって太刀打ちできるような相手じゃないんだよ。分かったら二度と話しかけないで」


 私はそう言い捨てて、彼の手を引いて歩き出した。


 健太はただポカンと口を開けて驚いていただけだった。


 その後、健太が見苦しく何かを叫んでいたのかもしれない。


 けど、振り返りもしないし、興味もないから、私たちには何も届かない。


 たまたま会った元カレが、だる絡みしてきたってだけの話だから。


「……ごめんね、変なことに巻き込んで」


 私が謝ると、彼は優しく首を横に振った。


「ううん。むしろ、葵がちゃんと言い返してくれて、嬉しかったよ」


 彼は荷物を持ち直して、私の空いた手を握った。


「それに、僕のこと『素敵な人』って言ってくれたし。録音しておけばよかったなぁ」


「からかわないでよ」


 私が膨れると、彼は楽しそうに笑った。


「ところでさ」


「ん? なに?」


「……結婚……って、さっき言ってたけど……」


「あ……うん」


「それって、いつのこと?」


「うーん。まだ内緒」


「えー……」


「僕も聞きたいことあるんだけどさ」


「なに?」


「納豆の帯ってなに??」


「……ぷっ……。一生わからなくていいよ」


「えっ? めっちゃ気になるんだけど……」


「いいの。どうせ一生無関係なことだから」




 ◇◆◇




 家に帰ると、いつもの温かい空気が待っていた。


 二人でキッチンに立ち、買ってきた食材で夕飯を作る。


「これ切るから、葵は炒めてくれる?」


「了解。あ、このトマト美味しそう」


「でしょ? よさそうなのに安かったんだよ」


 何気ない会話。


 包丁がまな板を叩く音。


 鍋がコトコトと煮える音。


 ふと、廊下の電球が明るくなっていることに気づいた。


 そういえば、今朝、少しチカチカしていた気がする。


「あれ? 電球……変えてくれたの?」


「ん? うん」


 彼は炒め物をしながら、事も無げに言った。


 いつの間に替えたんだろう?


「味見する?」


「する」


 アプリで出会った、顔も知らなかった男性。


 最初はただの他人だった彼が、今では私の人生になくてはならないパートナーになっている。


「ねえ」


「なに?」


 彼はフライパンを振る手を止めて、私を見た。


 エプロン姿の、私の大好きな人。


 私は彼の背中にそっと抱きついた。


 洗剤と、柔軟剤の匂いがした。


 私と同じ匂いがする。


「ありがとう。私を見つけてくれて」


 彼は少し驚いたように目を見開き、それから照れくさそうにはにかんだ。


「こちらこそ。僕の『いいね』を受け取ってくれて、ありがとう」


 彼は私の手に自分の手を重ねた。


 その手は、やっぱり大きくて、温かかった。


 冷蔵庫の中にゴミはない。


 洗面台はピカピカ。


 そして私の隣には、言葉にしなくても伝わる愛がある。


 マッチングアプリで出会った彼との生活は、私が想像していたよりもずっと、穏やかで、幸せに満ちていた。

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