彼は青い(後編)
目を覚ますと、ベッドの上で寝ていた。
ぼんやりとしていた頭がはっきりして来ると、自分の部屋のベッドではないことに気がついた。
――どこ? ここ。病院みたい。
周りにベッドがあって、人が寝ている。しかも、腕には点滴の針が刺さっていた。どうやら病院のベッドで寝ているようだった。状況が飲み込めなかった。確か、仕事を終えてマンションに戻ったはずだ。何故、病院のベッドで寝ているのだろう。
暫くすると、見回りにやって来た年配の看護婦さんが、私が目覚めているのに気がついて、「お目覚めですか?」と聞いて来た。
笑顔が素敵な看護婦さんだった。優しそうな人だ。母を思い出した。
「はい。私、一体、どうしちゃったのでしょうか?」
「マンションの廊下で気を失っていたみたいですよ。お隣さんが気がついて、病院に運んで来てくれました」と看護婦さんが言った。
「お隣さんが? わざわざ私を・・・」
引っ越しが終わってから、手土産を持って挨拶に行ったが留守だった。仕方がないので、「隣に引っ越して参りました。よろしくお願いします」とメモを書いて、手土産を袋に入れて、ドアノブに掛けておいた。
翌日、手土産が消えていたので、気がついてくれたようだった。
その後、生活時間帯が合わないようで、一度も顔を合わす機会がなかった。その縁もゆかりもない隣人が私を病院に運んでくれたと言うのだ。
「私・・・どうしたのでしょうか?」
お隣さんも気になったが、それが気になった。
「大丈夫ですよ。貧血を起こしたみたいです。最近、忙しかったのでは? あんまり無理しちゃあダメですよ」と看護婦さんが優しく言った。
「はい・・・」
転勤があって、引っ越して来て、一人暮らしを始めた。初めての職場で仕事も覚えなければならなかった。食事の量が減っていたし、睡眠時間も足りていなかった。
「一晩、様子を見たら、明日には退院できますから、今は、しっかり休むことです」と看護婦さんが言ってくれた。
翌日、帰り支度をしていると、「芝さん。お迎えですよ~」と昨晩の看護婦さんがやって来て言った。
「お迎え?」
「ほら。あなたを病院に連れて来た、あの人」と言って、看護婦さんが笑った。
見知らぬ男性が現れた。若い。私より幾つか年上だろう。背が高くて痩せていて、手足が長い。ファッション雑誌から抜け出して来たような男の人だった。
「ほら、お隣さん」と看護婦さんが言う。そして、彼に向かって、「しっかりね」と言って病室を出て行った。
「あなたが・・・」
私を病院に運んで来てくれた人だ! 驚いた。こんな若い男性が隣に住んでいたなんて。しかも、廊下で前後不覚となった私を病院まで運んでくれたと言うのだ。恥ずかしさと戸惑いで、私は真っ赤になった。
「昨日はす、すみませんでした~!」
私は頭を下げた。嫌だ。化粧をしていない。すっぴんを見られた!
「いえ。久しぶりに家に帰ったら、あなたが廊下に倒れていたので、びっくりしました」と言って、彼が笑った。そして、「退院できると聞きました。車で来ていますので、送って行きます」と言う。
町には不慣れだ。正直、この病院がどこにあって、どうやって帰れば良いのか分からなかった。タクシーを利用するにしても、病院代を払ったら、幾らも残らないだろう。
「すみません」と頭を下げるしかなかった。
彼に車で送ってもらった。
「今日は仕事を休んだ方が良いですよ」と彼が言うので、職場に電話をかけた。会話が聞こえたのだろう。彼が私の会社の名前を言った。そして、「実は、僕も同じ会社で働いているのですよ」と言う。
「奇遇ですね」
「いえ、まあ。この辺りでは、うちは大手ですから、会社の周りに社員がいっぱい住んでいます。うちのマンションの住人なんて、半分以上、うちの会社の人間だと思いますよ」と言って、彼が笑った。
なるほど。
「お隣さんですけど、お会いするのは初めてですね」
「そうだ。引っ越しの挨拶を頂きましたね。すみません。ちゃんとお礼を言うべきだったのに」
「いえいえ」
聞けば、彼は研究開発部門に勤めていて、「勤務時間はスーパーフレックスです」と言う。研究成果が出るまで、何日も会社に泊まり込むことがあり、あまり家に戻らない。そんな有様なので、たまに家に戻ると、次に出社するのは何時でも構わないようだ。
「すみません。自己紹介が遅れました。私、芝と言います。名前が芙美なので、シバフって呼ばれています」と私が言うと、「えっ!」と彼が驚いた。
「どうかしましたか・・・」
「隣のシバフ・・・さん・・・」
「はい。そうです」
「そうかあ~あなたがシバフさんなのですね」と彼が嬉しそうに言った。
何だろう? 私のあだ名、シバフに妙に反応している。私が不審気な顔をしていると、彼が言った。
「すみません。僕は青井。青井誠司と言います」
「えっ!」と今度は私が驚く番だった。
――出会う彼は青い。
御御籤にそう書かれてあった。青い服を着た人などではなく、青井さんだったのでは?
――出会う彼は青井。
私にはそう思えた。