第六話「街の外」
街を歩いていると、ふとルーカスの言葉を思い出した。
『街の外へ出るな』
それは、家から徒歩五分ほどの距離にある、このセイラム街から出るな、という意味だ。
セイラム街の外にはまた街が広がっている。
街の外とは、そこのことだ。
街に行く度、俺は必ずそう釘を刺される。
なぜかと聞いても、両親共に物騒だからとしか答えない。
そんなとき、決まって二人は、困ったように眉を曲げていた。
恐らく、本当の理由は違うだろう。
街の外に出るなんて、たった一歩を踏み出すだけで済む。
それなのに、そこまで治安に差があるとは思えない。
何か、もっと重大な理由が隠されているはずだ。
だからと言って、試しに行ってみようだなんて考えてはいない。
どちらにせよ、何か行ってはいけない事情があるのは確かなんだろう。
だからこそ、そんな嘘を吐いているのだ。
俺だって、約束を破ってまで街の外に行くほど馬鹿じゃないし、両親の思いを無下にしたくない。
俺は、この街で本を買えれば満足だ。
「――お買い上げありがとうございました」
ここの店員も、俺が本を買うのに慣れたみたいだ。
そりゃ、何度もここに来てるんだから、当然か。
なんたって、三年だ。
俺がこの街のなじみになるには、充分すぎる時間だろう。
ここ最近、俺はこう思うようになってきた。
異世界での暮らしも、案外悪くないんじゃないか、と。
別に、元の世界が嫌いだったとか、そういうわけじゃない。
だけど不思議と、戻りたいとは思わなくなってきた。
ここにいると、なぜだか心が休まる。
フワフワするというか、落ち着くというか。
心地いい、というやつだろうか。
ここの街の人は、みんな俺に優しい。
少し外に出れば、どこもかしこも戦時中なのに。
いや、だからこそかもしれない。
この街でじっと呑気に暮らすのも、案外悪くないんじゃないだろうか。
――なんてことを考えて、街中を歩いていた、そのときだった。
「いっ!?」
突然、肩に衝撃が走る。
押されたような、ぶつかったような。
子供の体というのは貧弱なもので、それだけのことで俺は簡単に尻餅をつけて転んだ。
辺りに、袋の中身が散らばる。
金属の落ちる鈍い音が、辺りに響いた。
前を向くと、そこにはいつぞやの本屋の子供がいた。
相変わらずのフードに、白銀の髪。
顔を俯かせているところまで同じだった。
どうやら、俺はこの子とぶつかってしまったらしい。
「わ、悪い、前を見てなくて……。あの、怪我は……あれ?」
土を払い、体勢を整える。
しかし、フードの子供は、俺をチラりとも見ず隣を通り過ぎた。
……そういえば、最初に会ったときもすぐに逃げられたな。
この前のを引きずっているのか、単に人と話すのが苦手なのか。
多分後者だろう。
本屋で会ったのも、もう三年も前のことだ。
きっと、俺のことなんて覚えているまい。
まあ、いいか。
とりあえず、落としたものを……。
「……え?」
――ふと、異変に気づく。
……財布がない。
周りの、どこにも。
……どこかで落としたのか?
いや、あり得ない。
袋にはかなりの金が入っていた。
落としたのなら、袋の重みで気づくはずだ。
さっき転んだときに、どこか遠くに飛んでいったのか?
……限度があるか。
視界から外れるほど飛ぶなんて、あの重さじゃ無理だ。
だとすればもう、さっきの瞬間に盗まれたとしか……。
だけど、近くに人はいない。
それができるやつなんて、一人も……。
……いや。
一つの考えが頭によぎり、フードの子供の方へと目を向ける。
そこには、まるで逃げるように走る、あの子供の姿が見えた。
そして、握られた拳には、何やら財布らしきものが。
柄は、俺のものと同じだった。
……間違いない。
ぶつかったとき、あの子供が盗んだんだ。
「待て!」
声をあげ、すぐさま追いかける。
周りの人からチラチラと見られたが関係ない。
今はとにかく走ることが優先だ。
互いの距離は十メートルほど。
追い付けない距離じゃない。
それに、子供の体力なんてたかが知れている。
その反面、俺は身体強化魔法が使える。
ただの子供に追い付くなんて造作もない。
――はずなのに。
走れど走れど、距離は一向に縮まらずいた。
というか、むしろ離されて……。
……そういや、あの子供を最初に見たのは、魔法の本が置いてある棚のところだったか。
だとしたら、アイツも魔法を使えるはずだ。
俺よりも強い身体強化の魔法でも使っているのだろう。
「クソ……!」
……見失ったか。
完全に油断していた。
金を持っている子供なんて、一番のカモじゃないか。
追い付けなかったことは問題じゃない。
盗まれたことに気付けなかったことが問題なのだ。
……あの中には、まだ相当のお金があったんだけどなぁ。
まあ、起こってしまったことは仕方ない。帰ったらすぐルーカスに謝ろう。
ため息を溢し、随分と軽くなったバッグにまた落胆しながら、来た道へと戻る。
いつの間にか結構な距離を走ったらしく、その街並みに見覚えはなかった。
……綺麗なところだ。
見るからに高級そうな店ばかり建っている。
住宅だって、あっちでは見ないようなものがほとんどだ。
この街にも、こんな場所があったのか。
周りの人の服装も、なんというか、煌びやかだ。
豪華絢爛って感じだな。
まるで、違う街みたいだ。
……違う街?
――違和感。
周りの、俺を見る目がおかしい。
それは、子供の俺を珍しがっているような視線では、決してなく。
まるで、気味悪がっているような、そんな感じだ。
俺がこの街の住人じゃないからだろうか?
それとも、ここは子供が来るような場所じゃないのか?
……恐らく、どちらも違うだろう。
そんな理由じゃ、こんな視線を向けられるなんて到底あり得ない。
なら、なんだ? 何が理由だ?
なぜ彼らは、俺にこんな視線を――
ふと、ルーカスの言葉を思い出した。
『街の外へ出るな』
……まさか。
ふと、視線の端に一人の男が写る。
その姿は、俺の考えを確証にさせるのに、充分すぎるものだった。
――両手足に繋がれた、やけに鎖の短い手錠。
一人の男が、そんなものを付けていた。
手の鎖からは紐が伸びていて、少し離れた場所にいる男が、それを握っている。
それはまるで、犬を従わせるリードのような。
言うならば、それは、奴隷の――
――瞬間、底抜けの恐怖と焦燥が俺を襲った。
早く、ここから出なければ。
頭の中がその思考に支配される。
行き場を失った感情が、自然と足を前に運んだ。
……しかし。
「――止まれ。動けば、腕の骨を折る」
ドスの効いた声が、俺の隣で響く。
強面の男が、俺の腕を掴んだ。
背丈は俺の倍近く。丸太のような太い腕と、俺を憎むように見る目が、また俺の恐怖を引き立てた。
「お前は、セイラム街の住人だな。なぜここにいる?
ここへの立ち入りは全面的に禁止されているはずだが?」
「…え……あ、あの…これは……違くて……」
「違う? 何がだ。
許可も得ずにこの街に入るのは重罪だ。お前もその条例は知っているだろ?
それとも、そんな簡単なことも教えてくれない、バカな親だったのか?」
「……あ」
……重罪に、条例?
街の外へ出てはいけない理由は、それか?
……そうか。
そりゃあ……言えないよな。
男の後ろから、さらに三人ほどが追加で現れた。
少なくとも、ただの一般人ではないだろう。その屈強な体格から、すぐに予想がついた。
恐らく、彼らは街の外に入り込んだ輩を捕まえる、傭兵のようなものではないだろうか。
なんて、やけに冷静な頭で考える。
「ここにはお前一人で入ったのか? それとも他に仲間がいるのか?」
「……え? そ、その……俺は――っ!?」
「さっさと答えろ」
腹の辺りに、とんでもない勢いの激痛が走った。
あまりの衝撃に、体は掴まれた手を中心に思い切り捻れ、地面に思い切り叩きつけられる。
喉から何かが込み上げ、内臓の一つや二つ吐き出しそうな勢いで咳き込んだ。
途切れ途切れにも息を吐き、なんとか前を向く。
どうやら俺は、彼に腹を殴られたらしい。
答えるのが少し遅れた。たった、それだけの理由で。
地面にぶつけた背中が、腹に負けずとも劣らずの勢いで痛む。
骨が折れると、内部の辺りがズキズキと痛むらしいが、
今は、まさにそれだった。
「おい、くたばってんじゃねえ、起きろ」
「あがっ!?」
動けずにうずくまっていた俺に、男がもう一度腹を狙って蹴りあげた。
再びの強い衝撃により、今度は上空に体が浮かび上がる。
景色が霞む。
息が途切れ、口の中に血が込み上げた。
一歩も動く気力は湧かないのに、手の震えだけが止まらなかった。
「もう一度聞いてやる。ここには、お前一人で入ったのか? それとも、他に仲間がいるのか?」
「……っ! ひ、一人! 一人で入りました!」
喉の奥につっかえた言葉を、なんとか口へと捻り出す。
そうしなければ、きっとまた殴られていただろう。
そうなれば、今度こそ死んでいたかもしれない。
――死。
それが、こんなに近くに感じたのは初めてだった。
元の世界でも、異世界でも。
なんとなく、遠い未来にあるものだと思っていたことが、いつの間にか目の前まで近付いていた。
そんな保証、どこにだってないのに。
「一人か、そうだな……。
よし、お前は見せしめに使うことにしよう。そうすりゃ、もうこの街に入る馬鹿はいなくなる。
良かったな、これで一ヶ月は命拾いしたぞ」
……命拾い?
見せしめって、なんだ?
一ヶ月経ったあとは、どうなる?
どれも、聞きようのないことだ。
「おい、縄を持ってこい。適当なもので構わん、どうせ逃げられやしない」
男の指示を受け、集団の一人が俺の背後へと駆け抜ける。
その間にも、俺の息は上がり、震えは全身を覆うようになっていた。
……嫌だ。
得も言えぬ恐怖が、じんわりと全身に回った。
これまでに感じたことのない、粘っこく絡みつく、嫌な悪寒だった。
俺は、これからどうなる?
縄って言ったら、することは一つだ。
俺を縛るんだろう。
そのあとはどうなる?
一ヶ月、見せしめにされて、そのあとは……。
――死にたくない。
朦朧とする意識の中、その感覚だけが、くっきりと頭に浮かんだ。
「おい、ガキ。何をゴソゴソと――」
「『フラッシュ』ッ!」
「――なっ!?」
手をかざし、ありったけの魔力を込め、そう言い放つ。
目の前の男が、思わず一歩後ずさる。
そんな、隙とすら言えない一瞬の硬直に、俺は走り出した。
「~~っ! テメェ! クソ、何しやがった! 待て!」
こめかみに青筋を浮かべ、一人が怒声を放った。
続けて、残った二人も俺を追い始める。
さっきの魔法で、十メートルほどの距離はできた。
それでも、彼らにとってはハンデにもならない。
走りの競争でもすれば、俺に勝ち目はないだろう。
「『ファイアボール』!」
「はっ!?」
だから、魔法を使う。
流石の彼らも、こんな子供が魔法を、それも街中で放つとは頭の片隅にも無かったのか、男達は一斉に炎の玉から散開した。
炎の玉とは言っても、精々手のひらで包める程度の大きさだ。
それでも、彼らの目には十分脅威に写っただろう。
やっとできた隙の内に、路地裏へ回り込み彼らの視界から抜ける。
幸い、街からは一直線にここまで来たから、多少遠回りしたくらいで迷いはしないだろう。
人目も気にせず、思い切り走る。
痛いくらいに脈を打つ心臓を抑え、震える足を無理やり動かした。
息切れなんてとうに起こしている。
脇腹が、千切れるように痛い。
なのに、足が止まることは無かった。
――捕まったら、どうなる?
俺の頭の中を、そんな考えが埋め尽くす。
縄で縛られ、見せしめにされて、最後は……。
……嫌だ。
死にたくない。生きたい。
そんな思いだけで、俺は走る。
ただひたすらに。
果てなく、恐怖が襲う。
初めて感じた、死の感覚。
それがどこまでも、這いずるように後を追う。
それだけが、俺を動かした。
――そして。
いつの間にか、街並みは元に戻っていた。
周りが、俺を心配そうに見つめる中。
俺は、そんな視線に気づくこともなく。
頭の中は、言いようのない安堵で満たされていた。
それと同時に、罪悪感が胸の中を埋め尽くす。
あと少し、俺が周りを見ていれば。
エマとルーカスの言いつけを、守っていれば。
こんな事態にはならなかった。
……俺は、大馬鹿者だ。
街に戻って、数分。
長かった家路も、やっと終わりに差し掛かった。
時刻はそろそろ正午を回ろうとしている頃だろうか。
頭の中で目まぐるしく交差する思いをよそに、フラつく足を支える。
体はもう、とっくに限界だった。
視界の端に家が写る。
やっと着いた、と胸を撫で下ろしたとき。
路地を曲がった先に、一つの影が見えた。
それは――
「……父さん」
「……おかえり、アラン」
二人の間に、寂しさを孕んだ風が、静かに通り過ぎる。
吹かれてしまいそうな声で、ルーカスは言った。
「『ヒール』」
彼が唱える。
すると、すぐさま痛みは消え、体はフッと楽になった。
「……聞いたよ、街でのこと。父さんの知り合いが、お前をたまたま見かけたらしくてな。
……街の外に、出たんだって?」
「え……あ……」
「……ごめんな、守ってやれなくて」
そう言ったルーカスの顔は、怒るでも、悲しむでもなく。
ただ辛そうに、顔を歪ませていた。
見ているだけで痛々しく。
涙の一つや二つ、零れてしまいそうに。
優しく、俺の頭を撫でた。
しばらくして、少し笑顔を引き攣らせて、ルーカスが呟いた。
「……昼食、もうできてるぞ」
――それは、今までに見せたどんな顔より優しくて。
それでいて、寂しそうな顔だった。
それから、ルーカスが何か言うことはなく、ただ俺の手を引いた。
なされるがまま、俺はその足跡を追う。
その背中が、子供の頃に見た俺の父親の姿と、重なって見えた。